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vol.39 志賀直哉「小僧の神様」を読んで
説教くさい志賀直哉を時々読みたくなる。
この短編、実際に志賀直哉が、鮨屋に客としていた時、ひとりの小僧が入って来て、一度持った鮨を、お金が足りなくて、また置いて店を出ていくのを見かけた。それだけのことから作り上げた物語らしい。
<あらすじ>鮨を食べたいと願う小僧と、彼にごちそうしてあげたいと思う貴族院議員Aのお話。
小僧の仙吉は神田の秤屋で奉公していた。彼は噂でうまい鮨屋話を聞いて、自分でも自由にそんな店に行ける身分になりたいものだと思っていた。それから数日後、用事を済ませた帰り道、電車賃を浮かせた4銭を握って、思い切ってある鮨屋に入った。その店には貴族院議員のAも客として入っていた。
小僧の仙吉は、マグロの鮨に手をかけたが、4銭では足りないことがわかり、店を飛び出した。その様子をAが見ていた。後日、Aは、偶然に行った秤屋で、あの時鮨屋でお金が足りずに飛び出した小僧を見かけた。Aはかわいそうという気持ちから、小僧の仙吉に鮨をおごってやる。そして仙吉はその店で鮨をたらふく食べた。
Aはなぜか悪いことをしたような淋しい気持ちになった。そしてあれ以来あの鮨屋に行くこともなくなり、気の小さな自分がすることではなかったと後悔していた。
一方、仙吉は、Aが自分の食べたいものを知っていたことなどから、Aのことを神様か、お稲荷様と思うようになっていた。そして苦しい時にはいつもAのことを思い出して、困った時にはまた彼が来てくれることを信じるようになった。(あらすじおわり)
「いいことをしてやった」の貴族院議員Aの気持ちと、「いいことをされた」の小僧の気持ちを考える。この小説、上からの施しは、時に、良い結果は産まないということが書かれているのななあと思った。
貴族院議員Aの気持ちにこんな描写がある。
「Aは変に淋しい気がした。自分は小僧の気の毒な様子を見て、心から同情した。・・・人を喜ばすことは悪いことではない。自分は当然、ある喜びを感じていいわけだ。ところが、どうだろう。この淋しい、いやな気持ちは。なぜだろう。何から来るのだろう。」
僕は、就労継続支援事業所を毎週手伝っている。そこにはなかなか社会生活に馴染めない人たちがいる。それぞれの彼らに適した場所を試行錯誤しながら、工賃も稼げるようにサポートをしている。そこで職員が気をつけないといけないことは、利用者をかわいそうにという感情で、物をむやみに与えたり、過度に期待させるような「優しい言葉」を無責任に投げるということだと思う。
ここでAが小僧に施したことは、上から目線の憐れみが動機にあり、それは決して小僧の将来に役立つことではない。人を喜ばせることは確かに悪いことではないが、ただ漠然と高級な鮨をおごるというのは、あまりにも策がない。まだ13、4の小僧にとって何が一番有益かを考えるべきだと思った。
一方、小僧の仙吉にとっても、奉公先の客から、特段のいわれも感じないまま、鮨をたらふく食わせてもらった結果、苦しい時にはまたAみたいな神様かお稲荷様がやって来て、欲望を解決してくれると信じるようになってしまった。他力本願の生き方は、どうも危なっかしい。
「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」ということを聞いたことがある。調べてみた。中国語では「授人以魚 不如授人以魚」と言われ、「人に魚を与えると1日で食べてしまう。しかし人に釣りを教えれば生涯食べていくことができる」という老子の教えらしい。貴族院議員Aが小僧の仙吉に関わりたいのであれば、本来こういうことではないか。努力すれば、番頭になれるかもしれず、そうすれば噂の鮨屋にも行くことができる。Aはそれを教えるべきだった。
そんなことをつらつら思いながら、この作品を楽しんだ。
ところで、志賀直哉に相当怒っている太宰治の「如是我聞」にこんなことが書かれていた。
「『小僧の神様』という短篇があるようだが、その貧しき者への残酷さに自身気がついているだろうかどうか。ひとにものを食わせるというのは、電車でひとに席を譲る以上に、苦痛なものである。何が神様だ。その神経は、まるで新興成金そっくりではないか。」
名指しでボロカスに書いている。
(太宰治「如是我聞」 青空文庫参照・・4項)
志賀直哉自身も当然、小僧に対しての残酷さがわかってのこの作品だと思うけど。
(おわり)