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理想の先生に僕はなれたのだろうか

4年間続けた塾のアルバイトが、今月で終わる。
そこは、僕が高校3年生の時に通っていた場所だ。
大学生1年生の4月、自宅に一通の電話が来た。
「塾でのアルバイトに興味はない?」
この電話が来るということは、
塾講師としての素質があるということなのか──
迷わず、僕は塾でアルバイトをすること決めた。

いろいろな塾があるが、勤めたところは個別指導というスタイルを取っている。
小学生から高校生まで、全ての教科を担当する。
生徒と講師のマンツーマン授業。
1時間つきっきりで教える。
そのため、会話主体で授業を展開しなくてはならない。
あれ?
初対面の学生と話すことって、こんなに難しかったっけ。

最初の授業のことを、鮮明に覚えている。
中学一年生の丸顔の男の子。
緊張感から、笑顔が引き攣り、会話が弾まない。
脇下にツーっと冷や汗をかきながら、
なんとか1時間の授業をやり切った。
これが、”働く”ということなのか──

僕が塾に通っていた頃は、良い講師に恵まれていた。
優しくて教え方も丁寧で、親身になって話を聞いてくれる。
心から尊敬できる人が自分の担当だった。

そのような存在になるために、
僕は生徒と誠実に向き合うことを試みた。
そして、高校生の時の教え方が上手な学校の先生の真似をしながら、
授業を展開した。
悩みがあれば、ひたすら耳を傾けた。
生徒自身に問題が生じれば、声を荒げることなく、
正面から注意することを試みた。

ただ、どれだけ一生懸命に教えても、生徒は思った方向に進んでくれない。
学力が上がる子もいれば、下がってしまう子もいる。
宿題をきっちりやる子もいれば、手をつけない子もいる。
積極的に授業を受ける生徒もいれば、不貞腐れた態度の子もいる。
素直な子もいれば、嘘をつく子だっている。

こんな当たり前のことが、講師側の視点だと見えなくなることがある。
なぜだろう?
理由なしに担当を外されたことや、成績不良による講師交代もあった。
その度に苛立ちが湧き、やるせない気持ちになった。
どうして?
僕には、生徒の成績を上げるという使命があるのに──
これでお金をもらってもいいのだろうか。
バイトを始めて1−2年目は、戸惑いの連続だった。

満身創痍で教えるということをやめた時期もあった。
省エネで、僕自身が楽な教え方になり、授業は形骸化した。
教え方に必死さがなくなった。
手慣れたと言っていいかも知れないが、
授業をすればするほど、楽さを求めて少しずつ空っぽになった。
その時は未熟で、目の前のことに必死で、
教えるための技術が足りていなかったのだと思う。

ただ、3年目から状況は良くなり始めた。
教える仕事だけではなく、電話応対や教室のスタッフを任されるようになり、
ポスティングや、張り紙の掲示など幅広い仕事をした。
すると、塾において僕自身が存在感を獲得すると同時に、職場においての物事が立体的に見えてくる感覚があった。

今現在、講師として一番大切にしていることは──自主性だ。
生徒が自主的に勉強すれば、
はっきり言って講師はお役御免になる。
しかし、と僕は思う。
実はそれが理想なのかも知れない。

塾で働いた4年間で、講師としての理想的なスタンスが確立できた。
生徒自身に大切なことを気づいてもらう工夫をして、
相手をコントロールしようとせず、生徒の自主性を信じ抜くということだ。

生徒から見て、講師としての自分はどう映ったのだろう。
自分は、生徒に何を与えられたのだろう。

あの時、理想としていた先生に、僕はなれたのだろうか。
























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