過呼吸の意義
先日、過呼吸で救急車で搬送された。タメ口でチンタラ動く救急隊員にキレる余裕もないほど苦しかった。本当に死ぬのではと怖くなる思いは久しぶりだ。
呼吸を奪われた。これに何の意味があるのか。搬送される車内で朦朧と考えていた。結局考えても答えは出ず、次第に過呼吸が収まっていった。
翌日にはもう回復し、いつも通りの生活に。日中は再開した筋トレのためジムに向かう。徐々にガリガリな自分の身体が元に戻ることを期待して汗を流す。ああ、少し呼吸が浅いかも、何だか気持ち悪いかも、という違和感に蓋をして。
夕方に帰宅。食事を済ませてダラダラしようかと思ったその時、また奴がやってきた。呼吸を奪う悪魔。首根っこを掴まれるような。 肺ごと握り潰してくるような悪魔。世界から音が消え、眼球は何も捉えない。
どう頑張っても酸素が入ってこない。海で溺れているような感覚に近いだろう。もがけばもがくほど苦しくなり気を失ってしまう。死ぬかもしれないという恐怖の中で、冷静になれという恐ろしい試練なのだ。酸素が入ってこない中で、逆に酸素を吐き出してやれという冷静さと勇気。これが必要なのだ。ゆっくりと息を吐く。吐き出すものなどないだろうという錯覚に負けてはいけない。逆に吸いすぎているのだ。とにかく吐く、ゆっくりと。そしてしっかり吐き出した感覚が持てたらゆっくりと吸う。そして息を少しとめ、またゆっくりと一生懸命に吐き出す。これを永遠に繰り返す。その命懸けの試練を経て、ようやく悪魔から呼吸を取り返せる。
もう死にたいな。そんな甘えが浮かんでくる。さっきまで必死に生きたい生きたいともがいた分際で。
だってそうじゃないか。なんで筋トレすらできないような身体になってしまったんだ。がっしりした体格だったのに。こんなゴボウみたいな、枝切れみたいな身体で。貧相なナリで。まともに働けず、心から愛するパートナーもいない。搬送された病院で、え、緊急連絡先ないんですか?と言われてしまう。資産もない、31歳中年男性。もう人生終わってんだろ。もういいよ、もう死んじゃおうよ。これだけ頑張って生きてきても、誰もちゃんと愛してくれなかったんだよ?もう無駄じゃん。親すら愛してくれないのに、誰がお前をちゃんと愛してくれるんだよ。どうせもうこの先、ずっと働けなくて精神障害者として国のお荷物として迷惑かけながら生きていくだけだよ。生きてる価値ないじゃん。ね、もう死んじゃおう。
犬小屋みたいな狭いアパートで。仰向けになり天井を見上げ。ようやく呼吸を取り戻したその身体、鳩尾に手を当ててぼんやりと考える。ブワーーーーーーーーっと、そんな脳の呪いが身体中を駆け巡る。
2年前だったら自殺してたかもしれない。でももう、これが脳の呪いなのだということに気づける自分がいる。これは親の呪いで、かつそのまた親の呪いで、そしてそしてそのまた親の呪いで、という太古からの呪いの連鎖なのだと気づいてしまった自分がいる。だから、死にたいと思う自分に負けない己がいる。死にたいという感覚は本当にあるんだけど。ただその実態を少し冷静になって考えれば、「死にたいほど苦しいよー」なのだ。死にたいんじゃなくて、苦しいだけ。そして身体は必死に悪魔から何度も何度も、呼吸を取り返したいと。俺は生きたいのだと、もがいてくれる。そして実際に包丁を右手で握りしめると手が震える。ああ、やめてくれ。そんな痛いことしないでくれ。恐ろしいから。そう、全身が己に訴えかけてくる。だから嫌でも気付かされる。私という意識は、その全身をもって生きたいのだと。
そんなに生きたいなら生きるしかないよね。
落ち着いた呼吸によって、自然とその考えにシフトする。じゃあ生きるためにはどうしたらいい? 過呼吸にならないために。死にたいという呪いが頭に浮かんでこないために。
ここについて考える必要がある。身体は意味のない警告はしない。
過呼吸は、不安による精神的ストレスの蓄積によって起きる。キーワードは「不安」
何が不安だったのだろう。人間の本音は行動に現れるから、過呼吸周辺の行動を洗えばいい。
1.過度な筋トレ
2.過度な内省
主にこの二つだった。
1.については、「貧相なナリではモテない」という不安だろう。女性から愛されることに飢え続けている男なので、とにかくそこを払拭するために己に価値付けしようとする。常に気を張り、頑張り、早く浅い呼吸を繰り返しながら身体に鞭を打つ。
2.について。ここは、「早く人生の課題をクリアしないと人生が満たされない」という不安。早くこのメンヘラな状態をクリアしないと、素敵なパートナーシップを築けない。不幸な人生のまま死んでしまう。だから早く、早く。この苦しい現状から救われたい。そんな不安。
これらの不安が、私の身体を痛め続けた。それの仕返しとして、身体が私から呼吸を奪ってきた。これは脅しなのだ。これ以上私を無視するなら、もっと酷い目に合わせてやるぞという脅し。これは無視するべきではないな、というかもう死ぬかもと思うほどの苦しみを味わいたくないし。
じゃあ無理しないためには? 頑張らないためには? これは不安を取り除くしかない。
これについては簡単に取り除ける気がする。貧相なナリでモテている人はいる。というかモテるかどうかに体格は関係ない。というか「モテるかどうか」なんて気にしているからモテないのだ。これが真理。
問題は、
これ。本当にこれが難しい。
実は救急車で搬送された直前にしていたのが、この内省だ。紙にブワーーーっと書き出していたのだ。己の嫌な部分、解消したい部分。でも書いても書いても雑念が消えてくれない。己を卑下する言葉たちが死んでくれない。なんでこの言葉たちが生まれてくるんだろう。そうか、そもそも己の自我が親によって呪われているから、一回この自我を消せばいいのだ。まっさらにして、それでゼロから再構築すればいいのだ。
そんな衝動に駆られ、遂に書いてしまったのだ。「金井駿さん、31年間の無駄な人生、どうもお疲れ様でした。もう死んでください」と。
書いた瞬間、全てから救われた気がした。己にまとわりついているドス黒いもの、その全てが一瞬にして泡となり消えていった。体重が一気に20kg減ったのではと錯覚するほどの、圧倒的な解放感。
だがそれが間違いだった。とんでもない黒魔術だったのだ。自我を消そうとすること、それはすなわち自殺するということ。うつ伏せで寝ていたのだが、次第に心臓が跳ね上がる。バクンバクンと体がうねり上がる。まるでルフィのニカ覚醒時のように。そこから、圧倒的な無が襲いかかってくる。もうこの世界には何もない、己も何もないという圧倒的な恐怖。そこで発狂してしまった。で、身体が飛び上がり、過呼吸へと陥った。そんな流れだ。
無意識に自分を葬ろうとするほどの強い衝動。強い不安。これはいったいどうしたものか。
別にこんなもの不安に駆られる必要ないではないか。なんで早く人生の課題をクリアしないといけないのか。死ぬまでに満たされれば別に良いではないか。現状が苦しいのはわかるけど、世の中これをクリアしている人なんて一定数いるのだから、自分ができないわけがない。いずれ解に辿り着くのだから気長に待てば良いではないか。全く焦る必要、不安に駆られる必要などないのだ。
と、小利口な理屈を並べることは簡単だ。いくらでも論破できる。だが私の意識はそれを許さない。今目の前に確かにある感覚として、地盤が静かに揺らいでいるような不安を消し去るのは不可能。ではどうすれば。
課題をクリアするためには、どんどん根本に迫っていく必要がある。なぜなぜ、というもの。根っこが層を重ねまくった結果、今目の前の現象が在る、ということ。
なぜ焦っているのか。「焦る」がポイント。焦るというのは、本来のペースではない、ということだ。本来のペースとは己の生きる速度。私は焦っている。己の心が求める速度を乱されている、いや自分で乱している。では何によって乱されているのか。
私は生きてきて31年間、「これで良い」という本当の安心を覚えたことがない。常に自分には何かが不足していて、常に周りに存在する己より優秀な何かから吸収して成長して価値を獲得し続けなければならない。そうしなければ市場価値が高まらないから。市場価値が高まり続けなければ相対的に周りのオス達に負けて女性から捨てられるから。そんな強迫観念だ。
そして今。関わってくださっている人たち。特にその中でも特定の人から、「なんか、変わるスピード遅えな」と思われるのが心底恐ろしい。無能である、価値がない男だと突きつけられるのが本当に恐ろしい。冷静に考えればそんなわけないとわかるのだがそんな簡単にこの感覚は払拭できないのだ。己が「価値がある」という認定が他者から欲しくてしょうがない。死に物狂いで今までそれを追い求めて生きてきた。でも結局手に入らなかった。そして今、また過呼吸となってしまった。
特にこの二点だろう。ここを治療していかない限り、永遠に過呼吸、あるいはそれ以上の病に蝕まれ続ける。死ぬまで。
小利口な理屈ではその「感覚」が払拭できない。であれば、その「感覚」を手に入れれば良いのでは? 欠落した感覚は感覚でしか穴埋めできないのでは。
つまり、自分には価値があるよ、大丈夫だよ。生きてくれているだけで嬉しいよ、ありがとう。そう言ってくれる人、その感覚をくれる人を見つければ良いのだ。そんな簡単に言うなよだがやるしかない。実際に見つかっている人が一定数はいるのだから俺にできないわけがないだろう。そう言い聞かせる。
そしてこれも仮説だが、この取り組みには限界がある。いくら「あなたが生きてくれているだけで嬉しい」と愛情を注いでもらったところで、多分100%にはならない。己を100満たす言葉は、己しかわからないから。己の思考・感覚を100トレースすることは異なる個体である他者には不可能だから。だから多分、いくら溺愛してもらったところで99で満足度がストップする。99ならそれでいいじゃないかと思うが、残念ながら1足りてないだけで、不安感は消えてくれない。心は0か100しかないから、100満たさないといつまでも不安で不安で発狂しそうなのだ。
だから、99→100にする部分はおそらく己でやり切らないといけない。どこまでいっても他者は99までしかくれないのだという健全な絶望を知ること。知ったら、己を100にする言葉を見出すしかない。その言葉を見出して、己の身体を動かす。動かして他者と関わり、その他者の反応を見る。その反応を見て、他者ではなく己の言葉。他者ではなく己の感覚をもって己を満たす。そうして、安心が100に仕上がるのではないか。
言うなれば、
他者への依存
他者からの自立
これを同時に行うということ。同時というか、他者への依存→自立という順でクリアしていくということ。たぶんこれが真理。
いいかげん不安感で遊ぶ生活はもうやめろ。もう限界だよ。もうそろそろ、安心に包まれてくれよ。そう、心が叫ぶ。身体が要求してくる。過呼吸になったからこそ気づけたこと。