何もない。私の人生には、もう何も無くなってしまった。 お気に入りの部屋も、仕事も収入も、肩書きも。親を潰し、恋人を切り、ビジネスパートナーを潰して会社を潰して。私の掌から全てがこぼれ落ち、何も残っていない。 何もないというのが、これほど苦痛だとは思わなかった。最初は、全てから解放された! もうこれで完全に自由。誰からも干渉されないし、邪魔をされないし傷つけられないし。最高の人生が手に入ったと期待に満ちていたが、それも2日ほど経てば感動はあっさりと消えていった。何もない生活。何
死にたい、死にたい。 そう発狂していた頃が懐かしい。だいぶ感覚が消えかかっている。ただの事実だけが記憶として残るだけ。それはそれでもの寂しい。その頃だから書ける文章があるから。だから名残惜しさから、少し昔を思い出し、もの思いに耽りたい。 なんであんなに死にたがっていたのだろうか。 本当に死にたいわけではないから、これは正確ではない。 なんであんなにも苦しんでいたのだろうか。これが正解だ。生き心地がよい今となっては、ああ、私は喜んで自ら苦しみの沼に浸かっていたのだなあと思う。
最近祖母から電話がかかってきた。 昔なら電話に出てしまっていただろう。それで、世間体に囚われて娘たち、つまり私の母親と叔母から「私は冷たくあしらわれていて寂しい」という被害妄想の上に成り立つ寂しさをただぶつけられ、生き苦しさを押し付けられて疲れていただろう。 でも私はそうはしなかった。あっさりと着信を切り、着信拒否にしてしまった。自分の非情さが今は心地よい。 もう80後半、死期が近い。そんな寂しい、旦那にも先立たれてしまった孤独な老人。そんな祖母からのSOSをぶった斬るなんて
先日彼女と別れた。 素晴らしい人だったが、私から別れを切り出した。このまま付き合っていても、いずれ結婚をしても確かに幸せにはなれるだろうな、という安心感もあったがダメだった。私の中で、彼女との未来は妥協であることがわかったから。私は理想とズレることは許さない。 こちらの作品で、私はパートナーの基準を明確にした。 この生き苦しい社会で必要なことは、ただこれだけ。私はそう思い、そして彼女はこれを最後まで体現してくれていた。そういう意味では完璧な安心感はあったのだが。 でも私は
今日も多くの人が死んでいっている。自殺者のほとんどは、根底に鬱を抱えている。実行に移す人だけではない。移さないが、その何倍・何十倍の人が今この瞬間も、鬱に苦しんでいる。「死にたいんです」の実態は、「死にたいほど苦しいから助けて」である。 私もそのうちの一人として、今も生きている。日々、自分は何に苦しんでいるのか、どうすればこの苦しみから救われるのか、思考と葛藤を繰り返している。その経緯を記しているのが私の作品。 正直、鬱病から本当の意味で救われている人、完治している人をあ
男の子なんだから、メソメソ泣くんじゃない 男なら弱音を吐くな 古今東西、男というものは「強くあれ」「逞しくあれ」という像を押し付けられてきた。そうでなければ世間から爪弾きにされ、その像を踏襲できたものだけが優秀なオスと認定され、子孫繁栄を許される。それが私たちが生きるこの世界。 この世界は幸せだろうか。この男らしさという呪いを押し付けられた妖怪たちが道端を肩で風を切って歩き。弱音を吐けない男たちが街中を彷徨き。弱音、つまり自分の気持ちがわからないから他人の気持ちが分からな
頑張れば幸せになれるよ。 これが今の世の中である。我々は、この世界最大の嘘を物心ついた頃から刷り込まれている。頑張って勉強すれば、いい大学に入れる。頑張って就活をすれば、いい会社に入れる。頑張って仕事をすれば、年収が上がる。頑張って年収を上げれば自分の市場価値が上がり、いい人と結婚できる。頑張って夫婦関係を維持すれば、幸せになれる。大体このあたりだろう。我々人間というのは、頑張っていくつもの壁を乗り越えなければ幸せになれないのだから、本当に不幸な動物だ。しかも皮肉なことに、
生きてるのか死んでるのか分からない 今日、ふとこの想いに駆られた。 7年間共に過ごした共同経営者に裏切られ、もうすぐ会社は倒産する。会社の負債4700万円をどうするのか、今、生臭い争いの最中にいる。私としては、共同経営者は7年間私を騙し続けてきた犬畜生であるから、相応の仕打ちを与えようと思っている。直近2ヶ月間、奴に対して「お前が人間としていかに終わっているか」を滔々と説き続けてきたら逃げ出してしまったが。だがこの資本市場、がんじがらめの信用チェーンの奴隷である我々は、もう
人の役に立ってこそ人生 先日、とある依存症家族会に参加した。その参加者の一人がこのように発言していた。アルコール依存症の20代の息子がいる、おそらくは50代の女性。人生と自分に疲弊し、肌の潤いがなく皺だらけの、70代の老婆のような女性。どう見ても余裕のない、息苦しそうな人だった。家族が依存症真っ最中の人は、このような人が多い。 依存症家族会では、まず自分の今の気持ちを吐露する時間が設けられる。そこで、この50代と思われる女性は以下のような発言をしていた。 ・息子が小さい頃
鬱病になれた。 違和感を覚えるだろう。「なれた」だと? 「なってしまった」だろう。なりたくもない、こんな生きた屍のような姿に。生きる気力が湧かず、呼吸すらしんどいこんな状態に。誰が好き好んでなるのか。 「鬱病になれた」 この言葉には違和感どころか不快感しかない。憤りすら覚えるだろう。だが、まだこのページは閉じないでほしい。考えれば考えるほど、鬱病というのは「なってしまった」害悪ではなく、「なれた」という幸福なのだ。 私はこの30年間、一度も「自分の人生」を生きた瞬間がな
意中の相手から好かれたい 全ての人間が、一度は思ったことがあるだろう。そのために我々はあらゆる策を弄してきた。 種の保存欲求がある人間は、本能的に自分の分身を残そうとする。そのために、つがいを求める。より良いつがいを獲得するため、我々は必死で人生を生きてきた。 だが、我々の不幸は、その「良いつがい像」を捻じ曲げられていることである。いや正確には、「正しいつがい像」を社会が教えてくれないこと。これが人類最大の過ちなのだ。 人間には、狩猟採集時代からの本能が残っているという説
人間は親から創られる。そして初めて対峙する人間が、親である。その空っぽな伽藍堂に、愛情を注がれなければたちまち命が枯れてしまう。 誰かが言った。 「今あなたたちが生きているのは、親御さんが愛情を注いでくれたから。愛情がなければあなたたちは今、生きていない」 反吐が出る。薄寒い、表面的な言葉だ。そういう薄っぺらい言葉は大嫌いだ。 まあ、ある種は正解なのだろう。だが実態をほじくり返せば、それは真っ赤な嘘だ。母親という札のついた人間からひり出されて生まれ、抱擁と栄養を補給してもら
先日、とある女性に会った。30代の綺麗な方だった。 他愛もない話をしばらく続け、会話の噛み合わせもテンポもよく。そうなれば自然と、話題は互いの「人」としての部分に入っていく。互いに30代。いわゆる恋愛話、というわけでもないが、流れ的にいつの間にか元彼・元カノの話になっていた。 明るい髪色で、なよっとした男であれば敬遠するような強さを窺わせる雰囲気の彼女。元彼の話を聞いていると、別れた経緯を話してくれた。 「束縛がすごかった。もう酷い時は、3時間に一回ぐらい連絡が来て、今ど
誰もが一度は、死にたい、と思ったことがあるだろう。 濃淡はあれど。容赦のないこの社会で、解決不可能な苦しみを味わわされ。もう無理、辛すぎる、と。いっそ死にたい、と。 「わたし、寝れば忘れちゃうから」 「過去は引きずらないタイプなんだよね」 そう巧妙に自分を騙し続けて、70か80歳ぐらいまで逃げ切れる強者であればいいが。だが人間はそんなに強くない。強くないし、強くある必要もないが。 だが。 「自分を騙す」時点で、既に本来の自分が消え去っているのだ。本来の自分が消え去ってい
人間は一人では生きていけない。これは紛れもない真理。 人間は生まれてから死ぬまで、究極的にはひとりだ。この世界に映るもの、感じるものは自分一人のものでしかない。自分の考えることは、絶対的に自分一人のものでしかない。世界とは、私なのだ。私だけの感覚が投影されたもの、これこそが世界なのだから。どれだけ人に囲まれて生きようが、究極的には一人なのだ。 だが困ったことに、一人では生きていけないのだ。友人が一人もいなくても、親と絶縁しても、仕事をしていなくても。絶対に、人間は誰かと関
なぜ私は、親をぶった斬れなかったのだろう この想いに、ふと駆られた。 親を切り、彼女を切り、友人を切り、ビジネスパートナーを切り堕とした今。沸々と、人生を生きる力に漲っている今。もう死にたい、と毎日思っていたのに、「死ぬのはなんか苦しそうだからやめとこ」「なんなら、あと200年ぐらい生きたいな」と思っている今。ふと想ってしまったのだ。 完全に孤独になった今、こんなにも人生は色に溢れたものであったのだと気づき、喜びに震えている。もっと早くこの世界に来ればよかったのに、なんで足