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人は率先して苦しんでいる

死にたい、死にたい。
そう発狂していた頃が懐かしい。だいぶ感覚が消えかかっている。ただの事実だけが記憶として残るだけ。それはそれでもの寂しい。その頃だから書ける文章があるから。だから名残惜しさから、少し昔を思い出し、もの思いに耽りたい。

なんであんなに死にたがっていたのだろうか。
本当に死にたいわけではないから、これは正確ではない。
なんであんなにも苦しんでいたのだろうか。これが正解だ。生き心地がよい今となっては、ああ、私は喜んで自ら苦しみの沼に浸かっていたのだなあと思う。人は乗り越えた時に、冷静に、より正確に過去を裁定できる。

人間は常に、己の善に従って生きる。例外はない。毎秒毎秒、常に最も「善い」選択をしている。この原理に沿えば、私もまた「自ら死にたがっていた」ということになる。正確に言えば「自ら死にたいほどの苦しみを選び取っていた」ということ。一見すると馬鹿げているが、これが真理。
じゃあなんで私は苦しみを選び取っていたのか。それは苦しみが、その発狂するほどの、自らの首を絞めたがるほどの苦しみが私に利益をもたらしていたからだ。
利益とはなんだ。自分を傷つける時の、あの何とも言えぬ自己憐憫の気持ちよさか。いわゆる悲劇のヒロイン感。周囲の同情も買える。でもそれも何だかしっくりこない。いや確かに的は得ているのかもしれないが、なんかこう、浅い。原理原則感がない。そもそも自己憐憫を求めていたのなら、「ああ、苦しい」という感覚で満足して気持ちよくなっていたはずだ。でも私は全く気持ちよくなかった。気持ちよくない時点で目的達成できていない。一部は達成できているのかもしれないが不十分。他に、というかもっと深い部分で理由があるはず。
自己憐憫でも埋められないほどの空虚感、己が無価値であるという認識。生きている価値がない、死んだほうがマシだという認識。呼吸をするだけで首を絞められていくような感覚。その感覚を、自ら全身で欲していた。そうして全身で貪った結果、この30年間死に物狂いで取り組んできたこと全てが破綻した。何もできないガラクタに成り果てた。

じゃあなんで私は苦しみを選び取っていたのか。それは苦しみが、その発狂するほどの、自らの首を絞めたがるほどの苦しみが私に利益をもたらしていたからだ。

ガラクタに成り果てることが。収入も立場も恋人も友人も親も親族も全て切り捨て、表面的な孤独を獲得することが。これが私の身体にとっての利益だった。こう考えるしかない。なぜ身体がそれを求めたかと言えば、そうすれば人生が破綻するから。もう今までの生き方をどう頑張っても続けることができなくなるから。身体はそれを狙って、私の脳とは反して苦しみを獲得しに行ったのだ。こう考えれば辻褄が合う。
なぜ身体が、人生を破綻させたがったのか。それは生き方を変えたかったからだ。私の身体が、生まれた時に望んでいた生き方を取り戻したかったから。あの悪意のない悪魔である母親、父親によって何十年も妨害されてきたその本来の生き方を取り戻したかったから。だから人生を一度終わらせたのだ。終わった結果、全てがぶっ壊れた結果、更地が広がった。全て失くした今だから、再構築が始まっている。このゼロの生き方を、この目に映る世界の全てに当てはめて身体を動かしていくこと。受精卵の頃にはもう決まっていたのだろう己の生き方を、31歳になった今、ようやく開始することができている。

私は病んでいる人と大量に関わってきた。自分が病んでいたから、病んでいる人間は同志。心地よかった。その病んでいる人たちから、「どうしたら変われますか?」と生まれてこの方何万回と質問を受けてきた。その度に私は一生懸命考えて回答をしてきたが、そのどれもが薄っぺらく、真理には程遠いものだった。
今時点の仮説はこうだ。
「あなたは変わる必要がないですよ」
これに尽きる。何の具体性・能動性の欠片もない漠然としたそれを発する時点で、まだ我々は身体の準備が整っていないのだ。まだ人生を破綻させる閾値に達していない。だから突き放すとか冷たいとかそういうことではなく、ただそれが原理として在るだけなのだ。まだ身体さんが苦しみを貪りたい、ただそれだけの話。

人間はこの一秒ごとに、全ての判断を天秤にかけて下している。売上と費用、その差分である利益が最大のものを掴み取り続ける。身体が苦しみを貪り続ける中で行き着く先は二つ。
一つは生温かい澱んだ沼。この沼に入れば、不思議なことに意識面での苦しみが和らぐ。沼に入った人間の中には、「苦しみが消えた」と自らを洗脳できる天才たちがいる。その心地よい沼に浸かり続けるのが「変わらない」という選択。
もう一つは、ただ闇が広がる道。進めば進むほど灯がなくなり、遂には何も見えなくなる。それでも「苦しみが消えた」と自らを洗脳できない不器用たちは、身体が勝手に突き進んでいく。怖い、苦しい、もう引き返したい、やっぱり沼に浸かりたい。そう発狂しても、身体が強すぎて言うことを聞いてくれない。そしていつの間にか崖まで辿り着き、そのまま堕ちていく。それが「変わる」という選択。

考えれば考えるほど、人間が変わるかどうかというのは才能なのだ。良い悪いもない。ただこの世に生を受けた時に、変わらないを欲する身体なのか変わるを欲する身体なのか。沼に浸かり続けたいのか苦しみを貪りたいのか。自らを洗脳できる能力があるのか否か。ただそれだけの違い。私の母親も父親も姉も妹も恋人も友人も、全員が自らを洗脳できる天才たちだった。ただ一人、私だけが不器用だった。もはや彼らが人間ではないのか、私が人間ではないのか分からないが、要はそれだけ大きな、決して交わらない違いがあったのだ。死ぬ前に気づけて本当に良かった。と思ったが、この原理原則で言えば多分私はどんな目に遭っても身体は死を選ばなかったのだろうから、別に死ぬ危険などなかったのだ、どうせ。ああ苦しい、死にたい、というのは茶番だったのかもしれない。本当に腹立たしいが。

人は率先して苦しんでいる

本作品のタイトルはこうだが。
考えていくと、「率先して苦しむ必要のない天才」がいることに気付かされた。だからこれは正確ではなかったな。
これを見ているあなたは私と同種であろう。沼に浸かり続けることなどできない不器用であろう。
独りで道を歩くのは寂しい。辛すぎる。私と一緒に、崖から堕ち続けてほしい。






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第一弾:親殺しは13歳までに

あらすじ:
2006年。1日に1件以上、どこかの家庭で親族間殺人が起きている国、日本。そんな国で駿は物心ついた頃から群馬県の田舎で、両親の怒号が響き渡る、機能不全家庭で生まれ育つ。両親が離婚し、母親が義理の父親と再婚するも、駿は抑圧されて育ち、やがて精神が崩壊。幼馴染のミアから洗脳され、駿は自分を追い込んだ両親への、確かな殺意を醸成していく。
国内の機能不全家庭の割合は80%とも言われる。ありふれた家庭内に潜む狂気と殺意を描く。


第二弾:男という呪い

あらすじ:
年間2万体の自殺者の山が積み上がる国、日本。
想は、男尊女卑が肩で風を切って歩く群馬県の田舎町で生まれ育つ。
共感性のかけらもない親たちから「男らしくあれ」という呪いをかけられ、鬱病とパニック障害を発症。首を括る映像ばかりが脳裡に浮かぶ。
世界中を蝕む「男らしさ」という呪い。男という生物の醜さと生き辛さを描く。


第三弾:監獄

あらすじ:
21世紀半ば。第三次世界大戦を経て、日本は「人間の精神を数値化し、価値算定をする」大監獄社会を築き上げていた。6歳で人を殺し人間以下の烙印を押された大牙(たいが)は、獲物を狩る獲物として公安局刑事課に配属される。最愛の姉に支えられ、なんとか生きながらえていた大牙は、大監獄社会の陰謀に巻き込まれ、人として生きる場所を失っていく。
あるべき国家運営と尊厳の対立を描く、理想郷の臨界点。


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