死にたい、と思った時点でもう死んでいる
誰もが一度は、死にたい、と思ったことがあるだろう。
濃淡はあれど。容赦のないこの社会で、解決不可能な苦しみを味わわされ。もう無理、辛すぎる、と。いっそ死にたい、と。
「わたし、寝れば忘れちゃうから」
「過去は引きずらないタイプなんだよね」
そう巧妙に自分を騙し続けて、70か80歳ぐらいまで逃げ切れる強者であればいいが。だが人間はそんなに強くない。強くないし、強くある必要もないが。
だが。
「自分を騙す」時点で、既に本来の自分が消え去っているのだ。本来の自分が消え去っているとはつまり、本来の自分が死んでいるということ。自分を騙した時点で、もうその人間は実質死んでいる。
そうやって偽の誰かを作り上げて、自分ではない誰かの人生を「私は幸せだ」と自己洗脳を必死にして80歳ぐらいまで逃げ切れればよいが。
私は逃げ切ることができなかった。私以外にも、不器用で逃げきれない人間は大勢いる。そういう不器用な人間たちが自殺に踏み切る。あるいは踏み切れなくても、希死念慮を抱いたまま沈んでいく。鬱を抱えたまま、鬱に塗れた余生を過ごす。
もう死にたい
そう思った時点で、その生き方は間違っているのだ。心は、身体は、自分のことだけを最優先に考えている。いかに己を健やかに保つか、己をどうしたら幸せにできるか、ただこれだけを考えている。だからそれに反する生き方を続けると、途端にエラーを返してくる。鬱々とする信号を意識に送り続け、身体はどんどん老けさせて機能を衰えさせる。もう頑張らせたくない、もう頑張りたくないよ。そう、必死に叫んでいるのだ。
でも我々は、そんな信号に目もくれない。「そんなものは無視しろ」という教育を、物心ついた時からされているからだ。家庭で、学校で、自らを殺すための呪いを浴びせられるからだ。自分の本音、本当の気持ち、本当の生き方、本来の姿。こんなものはこの資本市場で、このルッキズム社会で何の価値もないのだと、そう呪われてきたから。
その呪いが解けないまま。「呪われている」ということにすら気づかないまま、皆が巧妙に自分を騙そうと必死になる。そうして、「死にたい」という、心が送ってくれる最後通告を蹴散らして、本当の自分を殺す。皆がもう、実質死んでいる。
わたしが死んだのは、高校生の時。17か18ぐらいの時。うつ病とパニック障害を発症した時にはもう、私は実質死んでいた。自分の心もわからず、人の心に想いを馳せることから逃げて、もう死にたいという気持ちに必死に蓋をしてきた。
栃木県の田舎の、ただの進学校の高校生が
何も背負ってない、何の責任もないはずの、どこにでもいるような普通の高校生が、なぜ「もう死にたい」なんて思わされなければならなかったのか。心が泣き喚いているのに、うるせえ黙ってろと自分を殴りつけるような、そんな人間になぜなってしまったのか。
振り返れば、それはもう物心がついた時からだ。その時からもう、十分すぎるほど布石は打たれていた。
私は本来、無敵の人間だったはず。私はというか、今ここに生きている人間は皆そうなんだが。2歳か3歳ぐらいまでは、100%自分の我を通すことが許される。いくら泣き叫ぼうとも、糞を漏らそうとも、100%自分の主張を通す。そしてまだギリギリ、この終わっている社会でも「あなたは100%我を通しなさい」と許されている。それが2歳か3歳ぐらいまで。我を通すことの合意が取られていて、そして「あなたは存在しているだけで素晴らしい」と、ほとんどの人間から許され甘やかされる、そんな存在。そんな無敵の人間だったのだ、我々は。
私も当然そうだった。人なのか動物なのか分からない、畜生どもが蔓延る群馬県太田市の田舎町に生まれ堕ちた私ですら、「あなたは存在しているだけで素晴らしいのよ」と、本来あるべき愛情を注がれて育った。育ったはずだ。そんな記憶、私には一切無いが。
一番、今欲してやまないその記憶がない状態で、私の意識はスタートした。たぶん3歳ぐらいだったと思う。ギリギリ、幼稚園に入る前ぐらいだったか。
畜生どもが蔓延る、群馬県太田市。それに似つかわしい、自然がどこまでも広がる田舎町。空気は澄み、夜になれば星が美しく輝く。馬糞なのか何なのかわからないが、肥料としての糞尿の匂いがどこからともなく鼻を刺す。畑と田んぼがうんざりするほど広がる、美しい田舎町。私の意識はそこで産み堕とされた。
3歳、4歳ぐらいだったか。婆さんに連れられて、夕陽が照らす道路を歩いていた。夕食前の散歩だったのだろう。婆さんに連れられ、舗装がボロボロのアスファルトの道を歩いていた。蛇川と呼ばれる川沿いを、ただぼんやりと婆さんと歩いていた。
どこで覚えたのだろう。靴飛ばし、という概念が俺の頭にはあった。隣で意味もない自分語りをしている婆さんの話に退屈して、俺は気を紛らわせたかった。だから右足を力一杯放り出す。事前に踵を靴から脱出させていたから、気持ちいいぐらいに小さな靴が空を舞う。あらあら、駿ちゃん何をしているの。婆さんは初めて俺に関心を向けるが、その後も別に靴を拾うこともなく、またどうでもいい隣近所の話や、爺さんがまたこんなことを言っている、という演説を再開した。今思えばただの愚痴なのだろう。家事から解放され、口うるさいジジイが横たわる家から解放される、束の間の休息。そこに、一切否定も肯定もしない無力な孫を連れて、夕陽が照らす蛇川沿いを歩く。それが婆さんの息抜き。自分の生きづらさに蓋をするための、幼気な孫を玩具として使う巧妙な戦術だったのだろう。
そんな婆さんの邪気を振り払うかのように、俺は一生懸命に靴を投げ飛ばしていた。もっと、もっと遠くに。半ば取り憑かれたように、必死に右足を前に蹴り出して、母親に買ってもらったばかりの真っ白な靴を放り出した。何度も何度も。汚いアスファルトの上を、真っ白な靴が転がる。真っ白だったはずの靴は、いつの間にかグレーと茶色味がかったものに変わっていた。
悪気はない。悪気はないというか、そんなことすら意識に上らなかった。俺は俺で必死だったのだ。こんなに素晴らしい自然に囲まれているのに、ずっと首を絞められているような感覚だったのだろう。どこに行っても、親族の誰と過ごしてもうんざりするこの気分を振り払いたかった。必死で、余裕がなかった。だから、何度も何度も靴を放り出した。
力めば力むほど、軌道はズレていく。最初は真っ直ぐ、ちゃんと細いアスファルトの道に落ちていた靴は、遂に隣の蛇川に落ちてしまった。泥とザリガニ臭が漂う、ギリギリ綺麗な水が流れている蛇川に、買ってもらったばかりの白い靴が落ちた。静かに、ほとんど何も音をたてずに吸い込まれた俺の靴は、変わり果てた姿になっていた。昨日までの綺麗な姿が微塵も残っていないであろう靴を迎えに、俺は蛇川にパシャパシャと入って靴を拾う。蛇川という名前だが別に蛇などいない。あらぁ、とどうでもいいような声を婆さんは発し、俺を見ていた。お前が拾ってくれよ、と言えばよかったのに、俺は言えなかった。だから自分で取りに行ったのだ。白い、脛が隠れるぐらいの長いソックスも、そして当然靴も泥だらけになった。川から生還した俺に婆さんは、泥だらけになっちゃったねぇ、と他人事のように言い、また俺の方も見ずに一人演説会を再開した。
20分、か30分ぐらいか。婆さんの邪気を一心に浴び、おまけに蛇川のザリガニ臭と泥まみれになった俺は、婆さんから解放されて家に帰った。広い敷地に戻り、じゃあ駿ちゃん、またね、と言って婆さんは向かいの家に帰っていく。そして俺は、婆さんの家と反対側にあるピンクの屋根の家に帰っていく。玄関前のコンクリートの床。真っ白な床が、俺のザリガニ臭い足と靴が、泥によって汚されている。
背伸びして、手を一生懸命伸ばして玄関のドアノブを掴む。捻り、そして体重を手前にかけて、ドアを引く。田舎だから鍵をかける必要もない。そして懸命にドアを開けて、俺は家の中に入った。
でも玄関で足が止まった。幼子なりに、なぜか自制心が働いた。ザリガニ臭い足のまま、泥まみれの靴を履いたまま家に上がればいいのに。毎日、鬱々とした顔で家の中に縛り付けられ、毎日床を掃除している母親の姿など意識の外に追いやって。それを愚弄するかのように、試すかのように堂々と泥まみれで家の中に上がり、汚してやればいいのに。中途半端に躾けられた犬のように、俺は玄関内で足が止まった。
ママー。
そう呼んだ。あまりでかい声を出すのが得意ではない。だから、少しずつボリュームを上げていく。何度目かの呼び声に、母親はようやく気づいたようだ。パタパタ、とスリッパが床を鳴らす音が聞こえる。音が近づいてくる。
玄関につながる、目の前のドアが開いた。大好きなはずの母親が現れた。なぁに、駿くん。そう、ご機嫌な顔で現れるはずもなく。死んだ魚のような、鬱々とした目がふたつ浮かんでいる顔。本来の美しさなど微塵もない、生気のない顔が目の前に現れた。
母親の視線が刺さる。事情を説明しようと思うが、言葉が口から出てこない。ぼんやりと俺の目を見た母親の視線は、すぐに俺の下半身に注がれる。股間より下、太ももまでびっしょりと濡れたズボン。朝、履かせたのはベージュのソックスだったかしら、と首を傾げてしまうほど変わり果てたソックス。そして同様に、1日でお陀仏になってしまった買ったばかりの靴。それらを一つ一つ、母親が目で追う。そして靴がお亡くなりになったことを確認した後、再び母親と目があう。死んだ魚のような目が、みるみると力を帯びていく。目が見開かれ、血走るような怒気を放つ。眉間に皺が寄り、鬼のような顔を貼り付けた母親が俺に迫ってくる。俺より遥かにでかく、強い存在に睨まれながら迫られ、俺は当然、金縛りにあったように動けない。目の前にきた、と思った瞬間に俺は倒れていた。玄関で転がり、鼓膜を劈くような怒声が響き渡っている。全身が硬直している。怒声を浴びて数秒後に、左頬の感覚がないことに気づく。感覚がない、と錯覚した次の瞬間に、猛烈な痛みに襲われた。感じたことのない痛み。俺は全身を震わせて泣き出した。痛いから、ではない。心底恐ろしい、その恐怖によるものだ。自分が錯覚し、せっかく数年間築き上げてきた、「俺は愛されている」という土壌が根底から揺らいだからだ。愛されていない、とはつまりは、存在を許されていないということだ。人間にとって不可欠な感覚を取り上げられた……? その恐怖が、全身を震わせて、命懸けの叫びをあげた。眼球は涙でいっぱいになり、鬼のような母親の顔がぼやけている。
母親は怒鳴り続けている。俺の命懸けの叫びなど、所詮は蚊の鳴くようなものでしかないのだろう。蚊を叩き殺すように、母親は俺の頭を叩きつづけた。
ただならぬ事態に、珍しく家にいた父親が玄関に現れた。まだ夕方だというのに酒で真っ赤になった顔を引っ提げて、父親が現れた。
そして何やら、父親が母親に怒鳴っている。そして母親がそれに怒鳴り返す。父親のおかげで、母親に怒鳴られずに、殴られずに済んだ。ありがたい。父親の第一声が、「何してるんだ」じゃなく、「うるせえな」だったとしても。子供の心配をする、ではなく、毎日ドブネズミみたいに働いている、俺の束の間の休息を邪魔するな、だったとしても。もう今となっては、それすらも有難い。
両親の関心は、俺にはない。互いに、怒りと悲しみでいっぱいのガキどもが、その鬱憤を相手に叩きつけるだけ。
・私がせっかく買ってあげた靴を、このバカ餓鬼が汚して帰ってきた。私の気持ちを踏み躙った。
・そんなもの、また買えばいいじゃねえか。そんなくだらないことでギャーギャー騒ぐな。鬱陶しい
自分がいかに傷つけられたか。自分の気持ちがいかに愚弄されているか。こんなにも私は苦しいのに、なんであなたはわかってくれないのか。
これだけに囚われている、「親」という名札をぶら下げた餓鬼ども。餓鬼が餓鬼に想いを馳せるなんて無理なこと。餓鬼が餓鬼を育てるなんて、そんなおかしな話はない。当然、俺は俺で、「なんで俺が靴飛ばしをしなきゃいけなかったのか」を理解してほしい。受け入れて、この息がつまる苦しさから救い出してほしい。俺は、それしか考えられなかった。そしてそれは受け入れられなかった。
この揺らぎは、あっという間に治った。土壌がそもそも無くなってしまったからだ。ないものは所詮、揺らぎようもないのだ。
ここからの人生は、ただの建設作業だ。土壌がないのであれば、作るしかない。俺は一刻も早く、埋立地を作らなければいけなかった。窒息死する前に、ありったけの土砂を投入して。ちゃんと俺は幸せなんだ、愛されているのだ、存在してもいいのだ。存在する価値のある、皆が称賛してやまない男であるのだ。そう確信するための、目にみえる埋立地が必要だったんだ。それを、その後の27年間、それだけをやってきた。来る日も来る日も、土木作業員として、24時間365日働き続けた。不思議なことに、大量に投入したはずの土砂は、翌日には跡形もなく消え去っていた。
投入したはずの土砂が、翌日には消え去っているなんておかしいではないか。でも、俺は現実から逃げた。その現実と向き合うことが恐ろしすぎて。本当は、俺は親から愛されているはずなんだ。だって、死ぬ思いをしてまで産み落として、別に罰せられることもないのに子供を捨てず、寝床を与えて飯を食わしてくれるなんて、おかしいじゃないか。そんなこと、愛情がなければしてくれないはずだ。そう、まやかしを無理やり信じ込んで、俺は現実に向き合うことから逃げたのだ。きちんと親に、「あなたは、私が欲する愛情をくれない、その気概もない、無能な畜生なのですよね?」と突きつけることができず。明確に確認することが恐ろしくてできずに、逃げ回って生きてきた。
もういい加減気づきなさいよ
心は、ずっとそれを教えてくれていたはずなのに。そして身体さんは、俺から生きる力を吸い取って、「もう頑張るな。頑張るだけ無駄だ」と力説してくれていたはずなのに。「俺はもっともっともっと、頑張れば。価値ある男になれば。絶対に欲する愛情をもらえるはずなんだ」と自己洗脳して生きてきた。
母親から一度捨てられても
父親から無神経な仕打ちを受けても
こう、自分に言い聞かせて。必死に意識の外に追いやろうとして。「俺は気にしていない」と自分に叫び続けて、蓋をして生きてきた。結果、高校生の時にうつ病とパニック障害。死にたくなった。
今思えば、もうこの時点で実質死んでいたんだ。
俺は自分を騙した。高校生で鬱で死にたくなった時点で、「必死に自分に価値づけしようとする」生き方が間違っているという真理に向き合うべきだった。でも愚かな俺は、そんな簡単なことにも気づかずに。自分の本音を殺して、自分を殺して。そして偽の自分を作り上げた。
「親はもうゴミだ。もう外部に、他人に求めよう。もっと素晴らしい人間になれば、すごい男になれば。いつか必ず、俺が本当に欲する愛情をくれる人が現れるはず」
18歳の時に、自分ではない誰かが完成した。空虚な、地に足のついてない妖怪が出来上がった。
笑ってしまう。偽の自分を作り上げている時点で、もう本当の自分の気持ちなんて見えてこないのに。自分の気持ちが見えない以上、自分の気持ちを人に伝えることなんてできない。伝えることができないんだから、人はそれを受け取りようもないのに。受け取りようがないなら、それを愛をもって返すことなんて不可能なのに。
そんな当たり前過ぎることに気づかずに、30歳になってしまった。借金5000万円、貯蓄なし、鬱病で死にたがりの、哀れな妖怪になっていた。
今振り返れば
どうすれば、俺はこんな哀れな妖怪にならない人生を歩めたのか。どうすればよかったのか。この想いに駆られてしまう。
繰り返しになるが
間違っていたのはここだ。
顕在意識では「親はゴミだ」と罵ってはいても。「外部に求めよう」と思ってはいても。親に呪われたままの自分では、親に食い物にされて騙され続けていた自分では、そんな都合の良い存在見つかりっこない。なぜなら、親に呪われている時点で、もう俺の周りには親のようなどうしようもない人間しか居なかったのだから。親に気持ちを突きつけられない自分というのはつまり、親のような人間を受け入れてしまっているということ。受け入れてしまっている以上、自分の感覚は親に犯されてしまっている。本来の自分の感覚ではない偽の自分では、仮に目の前を「本当の自分が欲している人間」が横切ったとしても、視界に捉えることができない。だから永遠に出会えない。
だから、
こんなものは、ただの戯言に終わる。
親が犯して、奪ってきた己の本来の感覚を取り戻さなければいけない。
一にも二にも、これが全て。これが妖怪にならず、死にたくならず、「本当の自分が欲していたもの」を手にいれるための第一歩だ。
だから今この瞬間、死に物狂いで書き出さなければいけない。
紙でも目の前の壁にでもなんでも、書き殴っていかなければいけない。
精神が崩壊しそうになるだろう。涙も嗚咽も止まらなくなるだろう。だがこれは素晴らしい症状なのだ。呪われた、妖怪である自分が消え去ろうとしている証拠。何十年も溜め込んだ膿が、決壊したダムのように流れ出す。汚物を一気に、体外に出し切らねばならない。体外に出し切って初めて、本来のまっさらな、綺麗な自分が顔を覗かせる。
そうして、怒り・哀しみという名の膿を吐き出したなら。
まっさらな自分が今、何を思うか。そしてまっさらな自分が奪われた頃、本当は何を思っていたか。これらを必死に思い出すのだ。そしてそれもまた、紙か壁に書き留めるのだ。何十年も眠っていた、本来の自分の感覚を取り戻す。そうして手に入れた宝を、親という魔物に突きつけるのだ。
なぜ突きつけるのかといえば
これが最高の予行演習になるからだ。
ここの、「自分の気持ちを伝える」ことができるようになるため。本当に欲していた愛情を獲得できる自分になるための、最高の演習課題なのだ。
親というのは、己が生まれてきた時から「自分より強い」と刷り込まれている存在。生物として本能的に、そう刷り込まれている。親は動物である自分にとって、最強の敵である。
だから
その最強の敵に己を突きつけることができれば、もう怖いものがないのだ。今まで恐れていた、「自分よりも強い」「怖い」と思っていた対象に対して、しっかりと本音を提示することができる。だから、本音の書き出しで終わるべきではないのだ。その後の、「親に突きつけること」までをやるべきなのだ。
自分が好きな人間、愛する人間。それはつまり、「愛されたい」「評価されたい」「受け入れてもらいたい」とどうしても思ってしまう存在。つまり、最も本音を突きつけにくい相手。
その感覚は、かつての自分が親に対して抱いていた感覚とそっくりだ。だからそういう意味でも、しっかりと「親につきつける」という演習課題はクリアしておきたい。
仮に「親への突きつけ」をやらなかったらどうなるのか。
その時は、「親のように強い魔物たち」から永遠に虐げられることになる。バイオハザードのゾンビたちのように、無限に親のような人間が湧き上がってくる。親に突きつけてない状態とはつまり、NOを突きつけられていないということ。NOを突きつけない限りは、親のような魔物たちはあなたを格好の獲物だと判断して、命を喰らい尽くしてくる。
我々は、親に一度殺されているのだ。本当の自分ではない、偽の自分を作り上げられている。そんな最強の敵に勝てないままの自分に甘んじていたら、またいつ殺されるかわからない。また「死にたい」と嘆く自分に後戻りだ。そんなことを繰り返していられるほど人間は強くない。気づいたら首を括っているだろう。
ちなみに「親が亡くなっていて突きつけようがない」という人はどうすればいよいのか。
その時はクソ面倒だが、目の前のゾンビたちを片っ端から潰していくしかない。親の顔によく似たゾンビたちは、よく見ると親と同じ武器を引っ提げている。親と同じような戦闘力を持っている可能性が高い。だから、目の前のゾンビたちを潰していくことで、二度と本来の自分を奪われない、最強の自分を取り戻せる。
我々は一度「死にたい」と思った。そしてその時点で、もう実質死んでしまっている。「死にたい」と思わせてくる偽りの自分はもう、破綻しているのだ。これから先、どう創意工夫を凝らそうとも、絶対に息苦しさは改善されない。じわりじわりと、首を絞められ続けるだけ。
生き方を変えなければいけない。それは決して、
こんなものであってはいけない。こんなものであるはずがない。
頑張らないこと。価値づけをしようとしないこと。
呪いを解いた後の、本来の自分が欲するまま。心と身体の声のまま。一切武装せず、裸の自分で生きていく。
そしてその状態を受け入れ、愛してくれる人。その人が、我々の本当の親なのだ。
その時にはもう、「死にたい」と思っていた自分を思い出せなくなっている。
以下の長編小説、企画出版希望です。
編集者や出版関係者でこちらの内容を本で出版したい、と思ってくださる方は、
こちらまでご連絡ください。
第一弾:親殺しは13歳までに
あらすじ:
2006年。1日に1件以上、どこかの家庭で親族間殺人が起きている国、日本。そんな国で駿は物心ついた頃から群馬県の田舎で、両親の怒号が響き渡る、機能不全家庭で生まれ育つ。両親が離婚し、母親が義理の父親と再婚するも、駿は抑圧されて育ち、やがて精神が崩壊。幼馴染のミアから洗脳され、駿は自分を追い込んだ両親への、確かな殺意を醸成していく。
国内の機能不全家庭の割合は80%とも言われる。ありふれた家庭内に潜む狂気と殺意を描く。
第二弾:男という呪い
あらすじ:
年間2万体の自殺者の山が積み上がる国、日本。
想は、男尊女卑が肩で風を切って歩く群馬県の田舎町で生まれ育つ。
共感性のかけらもない親たちから「男らしくあれ」という呪いをかけられ、鬱病とパニック障害を発症。首を括る映像ばかりが脳裡に浮かぶ。
世界中を蝕む「男らしさ」という呪い。男という生物の醜さと生き辛さを描く。
第三弾:監獄
あらすじ:
21世紀半ば。第三次世界大戦を経て、日本は「人間の精神を数値化し、価値算定をする」大監獄社会を築き上げていた。6歳で人を殺し人間以下の烙印を押された大牙(たいが)は、獲物を狩る獲物として公安局刑事課に配属される。最愛の姉に支えられ、なんとか生きながらえていた大牙は、大監獄社会の陰謀に巻き込まれ、人として生きる場所を失っていく。
あるべき国家運営と尊厳の対立を描く、理想郷の臨界点。
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