ジャーナリング(書く瞑想)を5年続けて思うことと見えたこと
こんにちは、流香です。
ジャーナリング(書く瞑想)という言葉が流行るまえから、毎日1000日以上書き続けてみて思うこと。
予約投稿はほぼ使わず、リアルタイムで毎回記事を(つぶやきでなく)書いてみて思うのは、
そこにこそ、AIには乗っ取られない何かがあるなぁと。
AIがどんどん普及していくからこそ、まだネットには上げられてない「今」「この瞬間の思いを」「内省しながら」一つひとつ言葉にする過程が、きっと
自分とのパイプを強くさせて。
その積み重ねで、人(発信者)としての自己肯定感も高められていくんだなと、感じています。
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だから、個人的には(個人的にはですよ)まだnote初期に、AIを使いこなして書けるようになることは、あまりおすすめではなくて…
確かに、確かにきれいな文章は書けるかもしれませんが、
note初期だからこそ読める、アツくて、どこかバラバラで(笑)
でも“その人らしさ”にたくさん満ち溢れている文章こそ、これからはますます価値を帯びていくからこそ、
「note初期で」AIを使いこなして書けるようになることは、
メリットもたくさんあるかもしれませんが、それ以上に「もう片方の天秤にのっている大切な何か」も抜けやすくなってしまうので、
「まとまってはいなくても、一度は出してみる勇気」
そちらこそを、ぜひ応援させていただきたいなと思っています。
たぶん、その中にこそ「ほんとうのらしさ」があれるから…♪
そして、「きれいにまとめた自分」以上に、そちら側でつながれた方がきっと何倍もうれしいから、
AIさんとはうまく共存しながら、「ほんとうの自己肯定感」を育んでいけるといいですよね。
(noteでは)たまの間違いや、そして「完璧」よりも「不完全からのどきどき」が伝わってくる文章の方が、なんだか人間味もあって愛されるような気がするのは私だけでしょうか?
「不完全でもいい」そう思えるこころと
途中経過でも出せる勇気が、AIでは養えない「ほんとうの自己肯定感」にも繋がってくるのではないでしょうか。