読書断ち→食べ吐き
頭がイカれたのは10才だけどなんやかんやで過食が始まったのは19才
苦しくて動けなくなるまで食べるので吐くしかない
すぐに過食嘔吐に移行
そこから41才までほぼ毎日1回、「買い物・食べる・吐く・シャワー」のグッタリルーティン
吐くのやめてみたことあったけど、おなか壊して病院へ。
しばらく薬飲み、おなかに優しい食生活。
飢餓感とイラつきがすごかった
吐かないとだめだなと再確認。
41才の3月に腕が痺れて重くなって物理的に吐くことができなくなった
それ以来箸も使えなくなってスプーンとフォークとトングが活躍、今も。
箸は指の神経の細かい動きによって使えることができる
病院行って頸椎関係であることはわかったが
具体的病名はもらえず様子見、今でもどうしよう的懸念事項
でも骨の標本みたいなガリガリになって
筋肉落ちて階段上るのも足が持ち上げづらいとか
全然死にたくないのに死がチラついてたから
この変化はそういう意味で助かった
そこから週一の過食・翌日絶食みたいなんが1年ほど、
アトピー悪化でチューイングへ
で、今に至る。
2年ほど前から、中医学の先生指導による漢方薬服用とカウンセリングを受け始めて
アトピーと頭のワーとか精神的なやつがかなり落ち着いた。
何をどのくらい食べれば私は大丈夫でいられるのか
だんだんはっきりとしてきた。
でもチューイングしてるからずっと摂食障害ではあるのかな 名前をつければ。
食事制限してます、体に毒なやつは吐き出してますね、
強靭な消化力代謝力の内臓を持ち合わせてないんで。
という気持ちでもある
表立って言うことでもなし
いじめられたことはない
虐待されたこともない
でも今になって思うと、父・母・私の3人家族の中で全員
自他の区別が曖昧になってたのはあったと思う
前提が同じでしょな世界線
同意を求める表現が多かった何気ない圧力での会話進行、お互いに。
ひとりごとのような呼びかけのような曖昧さ
全員息詰まりの自覚なし
父は仕事で忙しくて交流時間少なく、わたしにとって存在感薄くて
いい人で私にすごく優しいけど、人となりはよくわからなかった
定年退職して一緒にいる時間が長くなってわかってきたことは多かった
わたしはひとりっこで小さいころから本読むのが好きだった
暇さえあれば読む 没頭して食事の時間に呼び出されるのもいやなくらい
物語のわくわくな幸せを夢中で楽しんでるのに
食べるってことが食卓につくことが、物語への集中を途切れさせる邪魔行為
今思うと頑張って毎日食事を作って整えてくれてた母にごめんとしか。
今は都度に感謝の言葉を伝えている
だんだん読書が純粋に物語のおもしろさを楽しむ行為から、
正体不明の私のしんどさ重さを上手く表現してくれてるもの・解明してくれるヒント探しになっていった。
「普通なちゃんとした人になるには」探しで血眼で読むように。
でも人によって正解が違ってて思想も入ってるし正解が並立できない、
拠り所になってくれそうな唯一絶対がなくて相対的なのばっかなんだけど当時はそんなことわからないから
どんどん迷子になっていく。
自己投影と感情移入以外の読み方がわからなかった
これは24才くらいのときにオタク文化・同人誌を知ることで距離感をどうにか察知できた
オタクを名乗ってる人がやってた登場人物を応援する見方。を真似て息しやすくなった。
正解探しの基準とは別に、対象へ向ける私のハマり具合を探る見方。
それまで説明文みたいな文章しか書けなくなってたけど、ちょっと情感的なことを入れられるかんじでマシになった
母にも「話しやすくなった」と言われた。
それまで何いわれても責められてるように受け取って刺々しい言葉しか返せず、どうしようもない重苦しい雰囲気つくって母を苦しめてた
起こっている現象を表現している言葉を獲得できたら
違う角度からの複数の視点を持てたら
暗いところに光を照射して浮かび上がるものがあるように
理解できることも違ってきて解決法もわかってそっちに努力できるんだ、
母にわかりやすく説明できるし何か良い方向の変化ができるんだという期待の必死さでの読書。
一時期、自分の受信力がおかしいのかと簡単な単語でもいちいち辞書引いて確認しないと文章読めなかった時期もある。
そんな自分がこわかったけど、じきにやめれた
めんどくさいのと、言葉の正確性の限界、解釈や受け取り次第で変化するものだから。
本は読んで脳で遊んだあとも紙として残る
棚に並べて眺めて宝物みたいに思ってた
作者が提供する世界観の中で守られて遊べる
綺麗に整理された役に立ちそうな概念を教えられて味わう
きもちよさと安堵感
「わかった感」をコレクション
頼りになってくれそうなイメージを想起させる言葉や文字の収集癖
しんどさからの解放感
本を開けばまた再生できる幸せ
絶対を探して安堵したい それがよかったのに、
だんだん飢餓的に求めすぎてる自分の必死感悲壮感のやばさを
感じはじめてきて
世界と私の間に本が提供する他人の目線を挟んでるから見えてないものが多いのか?ていう疑問が湧いて。
見えてないから、わたしのしんどさ重さがあるのかっていうのが来て、本よむのやめたら
よりかかるものがなくなり、
解放感や集中の行き場所を探したのか知らないけど
食べ物を食べることが異常においしく幸せに感じはじめた
食べ物はおいしいって間、しんどさや不安を忘れることができて
快をくれて、食べたら目の前から形が消えてくれる
吐いて流したら無かったことにできる 救世主だと思った
次の依存先を探せるまでこれでしばらくなんとかなるって。
次は本でも食べ物でもなく健康的な依存対象探そう、
努力すれば見つかるはずと思ってたけどね
そんな簡単なはなしじゃなかったね
後に「依存先を限定するのはそれに向く負荷が大きすぎるから、分散させてバランスとるのが理想」
みたいなことをどっかできいて、なるほどと思った記憶。
タバコ酒ギャンブルセックス買い物整形他いろいろ、ダイエットもかな
世の中にあるいろんな依存症、何かが破綻する依存のかたち
何であっても私は耐性と環境の条件が合えばハマってたろうなと。耽溺。
ニュースとか見かけるたび他人ごとに感じない。
脳が、これすれば解放感が得られるよ楽になれるよ~と学習済みで
ことあるごとに頭を占拠してきて記憶から離れてくれないんだろうなと想像してる。