果てる(短編小説)

僕は今、弘前へ向かう深夜バスに乗っている。室内灯は消され、まばらに見られる乗客は皆寝静まっている。僕は少しカーテンを開けて窓の外を眺める。しかし、等間隔に並べられた街路灯が、その残光をかすかに残して一つ一つ通り過ぎていく以外には、特に目を見張るものは何もない。僕はカーテンを閉めて腕時計に目をやる。時計の針は深夜三時を指している。ちょうど一時間前に仙台のサービスエリアで小休憩があって、もうこの先サービスエリアに立ち寄ることはないはずだ。恐らくあと二、三時間もあれば目的地に着くだろう。
僕は頭上の読書灯を灯す。そして、リュックの中から小銭入れを取り出して、それを膝の上に置く。ファスナーを開けて中身を点検する。大丈夫だ。五百円玉は全部で六枚ある。それ以上でもそれ以下でもなく、確かに六枚だ。そしてこれらは紛れもなく僕が自分の手で小銭入れに入れた五百円玉だ。僕は確実にファスナーを閉じてそれをリュックの中にしまう。それから読書灯を消し、目的地まで軽い睡眠を取ることにする。それは深夜の高速道路上での不安定な、しかし先を思いやるに絶対的に必要な睡眠である。僕はそのことを自覚して深い闇の中に身を浸す。

定刻通り午前六時三十分にバスは弘前駅に到着する。やはり十二月の青森の朝は寒い。それは油断や情けの姿を見せない、圧倒的な寒さだ。こちらに付け入る隙を与えない、容赦のない寒さだ。辺りは一面の銀世界で、雪が朝日に照らされて鋭く反射している。
僕は取り敢えず近くのコンビニに立ち寄って、ブラックコーヒーのMサイズを注文する。それからツナのサンドウィッチとクラッカーもまとめて購入する。支払いは現金でなく、すべてクレジットカードで済ませる。寒さを凌ぐために、僕は角に設けられたイートインスペースでそれらを貪る。窓の外に見える街はまだまだ静かで、通りで雪かきをしている人がまばらに見えるばかりだ。お互いに目が合うと雪かきの手を止めて挨拶をする。世間話をする。しばらくそんな情景をぼんやりと眺めていると、やがてちらちらと氷の粒が降ってくるのが見える。朝日はいつの間にか雲に覆われ、空は全体的に少しずつ灰の面積を増やしているのが分かる。
僕は立ち上がってもう一度コンビニエンスストアの店内を見て回る。そして小さな段ボールと黒の油性ペンを一つずつ手に取る。支払いを済ませて外に出る。僕は段ボールをリュックに括り付け、通りを北に向けて歩き出す。ここから3キロも歩けば大きな道にぶつかって、その先には高速道路のインターチェンジがある。僕はそこに向けて真っ直ぐに歩みを進める。まばらに降る雪を、頭上に受けながら。

一時間ばかり歩いて、ある程度目的地の周辺にたどり着く。午前八時。車の量は通りを進むにつれて少しずつ増加していき、大通りに出ると最低限の車間距離を開けた自動車が次から次へと現れるようになる。僕はインターチェンジ付近の物流コンテナの前でいったん荷物を下ろし、コンビニエンスストアで購入した段ボールと油性ペンを取り出す。そして段ボールのできるだけ平らな個所に大きく「北へ」と書く。それを上から何度もなぞり運転手の目を引くようにする。十分な大きさと濃さになって、それを頭の上に掲げる。ヒッチハイクは初めてで、これが適切な作法なのかどうかが分からない。昔ドラマで見たまま、本で読んで想像したまま、何となくの仕方で車を捕まえようとする。何台もの車が僕の前を通り過ぎる。何人もの運転手が僕と目を合わせ、逸らしていく。僕はめげずにじっと立っている。相変わらず雪はまばらに降り続けるが、気持ち氷の粒が大きくなり、量も増えているのを感じる。
五分くらいだろうか、あるいは一時間くらい経ったのかもしれない。「北へ」と書かれた段ボールは雪に濡れ、少しずつその文字が消えていく。そこでようやく一台の運送トラックが路肩に停まってくれて僕に合図を送る。窓を開けてこう叫ぶ。
「そんなところで寒かろうに、早く乗んな。」
「ありがとうございます。」僕も負けじと叫ぶ。そして荷物を背負って助手席に乗り込む。
三十代くらいの男性運転手で鼻の下から口全体が髭で覆われている。暖房が十分に効いてて温かい。身体の外側から徐々に温かみが内部に侵食していくのが分かる。
「で、どこに向かうってんだい。第一、ヒッチハイクするときは具体的な地名を掲げとくもんだぜ。」
「すみません。しかし、自分にもその具体的な地名がよく分からないのです。ある程度のところまでいけばあとは分かるはずです。とにかく北へ北へ。できる限り津軽半島の奥地まで行きたいと考えております。」
「そうかい。だがな、生憎このトラックは青森市内までしか行かないんだ。それでも構わないかい?」
「大丈夫です。大変助かります。」
それからトラックはゆっくりと動き出し、高速道路のインターチェンジを通過する。雪が一層強まったように思う。
「ところで、どこから来たんだい。わざわざこんなに寒いところに?」便宜的に、彼を髭おじと名付ける。髭おじが簡単にそう尋ねる。
「昨日の夜、新宿を発って、今日一番に弘前に着きました。はい。予想していたよりもはるかに寒いです。それに、向こうでは全然雪も見られないです。」
「まあ、そうだろうな。ここに住んでる人間だって、この寒さには慣れないもんなのに。」
それから二人はしばらく無言のまま時間を過ごした。髭おじはトラックの運転に集中していて、それは僕にとってありがたかった。あまり話すのは得意ではないのだ。僕はずっと窓の外をぼんやりと眺めていた。しかし、外の情景はある程度の時間の経過を経ても特に数分前と何ら変化を為さなかった。そこにあるのはトラックに備え付けられたラジオから流れる音声だけで、あとは何もかもが沈黙だった。白だった。
 『今日のラッキーカラーは赤!そしてふたご座の皆さんには今日一日が素晴らしい日になるでしょう!!』
 そのラジオからニュース番組での占いが流れてくる。数分ぶりに会話が生まれる。
 「坊やは占いなんてもんを信じるかい?」
 「占い自体はすごく好きです。何というか、超自然的で、人知を介さないような気がするから。でもこういう占いは、向こうの意図が見え隠れしててそんなに好きじゃないです。つまり、視聴率稼ぎのための。」
占い、予言、悟り。それらは全て自然のなかにある。そしてそれらは決して人の言葉を持たない。ある時その大循環の中で突然と降り注ぎ、僕らに道筋を教えてくれる。そしてある程度のところまで、僕はそれを、その言葉を持たない言葉を、理解することができる。

 やがて一時間ばかりそのまま進み、青森市内に到着する。僕は青森駅で降ろしてもらうように伝え、数分後にそこに着く。
 「本当に助かりました。お礼として、何か軽い昼食でもごちそうできればと思うのですが。」
 「そいつは有難いが、生憎俺はすぐに行かなくちゃならねえ。これからぴちぴちの魚を運搬するもんでな。てことで、達者でな、坊や。」髭おじはそう口にすると、僕はあきらめてトラックを降りる。降りる際に改めて礼を言う。扉を閉めると髭おじは大きく手を振り、そのままトラックは港に向けて出発する。
 僕はそこから青森駅の構内へと進み始める。最初に目に着いたうどん屋で簡単に昼食をとることにする。僕は確実に目的地へと近づいているのが分かる。そして今度は誰に頼ればいいのかも。
 僕はきつねうどんの並を注文してカウンターに席を取る。この店のカウンターは立ち食い方式だった。そして、僕の隣に並んでいた、僕より少し年齢が上そうな青年に声をかけてみる。恐る恐る、しかし、確信をもって。
 「あの、もしよろしければ僕を同乗させてくれませんか?津軽半島の最北まで行きたいのですが。」
 青年は驚いた表情でこちらを眺めたが、やがて僕の行きたい場所と、青年がこれから行くべき場所が大体において合致していることを認める。
 「なかなかないぜ、今時そんな少年。新手のナンパみてえだな。で、君の提案だけど、構わんよ。どうせこれから北に行くんだから。」
 僕らは昼食を済ませて車の方へ向かう。髭おじに払えなかった分、この青年のうどん代は自分が払った。彼の来ていたパーカーにはこげ茶色のネズミのイラストが描かれていた。僕はまたまた便宜的に彼をこげネズミと呼ぶことにする。
 彼の車は何の変哲もない軽自動車で、車に乗り込むと、音楽は何がいいかと尋ねた。
 「特にリクエストも無ければビートルズを流すけどいいか?」
 僕はうなずく。今時車内でビートルズを流す青年に出会えたことをうれしく思った。
 彼は静かに車を発射させ、車内では『アビー・ロード』が流れ始める。聞きなれたポールのベースラインと、ジョンの歌声が響く。『カム・トゥゲザー』。
 「ところで肝心の目的地はどこなんだい、少年。俺はこのまま親戚のいる龍飛まで行くつもりだが。」「龍飛。」僕はこげネズミが言ったことをそのまま口にする。
「恐らく、僕の目的地も龍飛です。そこまで乗せていただけると幸いです。」
「驚いたぜ。目的地を尋ねて『恐らく』から入るのは初めてだ。まあいい、それなら俺が進むままに進ませてもらうぜ。」
 ビートルズの音楽が流れ響くまま、こげネズミは車を走らせた。二人とも音楽に身を浸らせていて、あまり会話は生まれなかった。そして車はどんどんと進み、今別に至った。
 「もう少しだ。大分今日は雪が強いな。」
 まさしく、雪はあれから少しずつ少しずつ強まっていて、今はほとんど前の視界も覗けない程であった。それでもこげネズミは特に立ち止まることもなく車を走らせた。どうやらこのあたりの運転にはかなり慣れているようであった。
 注意深く窓の外を見つめていると、突然何かが頭をよぎった。ほんの一瞬であったが、僕にはそれを理解することができた。たどり着いたのだ、目的地に。そして行き着いた先は本州の北端、龍飛崎であった。太宰治がかつて「本州の袋小路」と呼んだ、龍飛崎に。
 僕は礼を言ってこげネズミの車を後にした。車を出る時、『アビー・ロード』はすでにA面を演奏し終え、『ビコーズ』が鳴りやみ、いよいよメドレーに差し掛かろうとしているところだった。車を降りると、そのまま過酷な雪道を少しずつ先へ先へと進んでいく。そして直感的に、しかし確信をもってある家の門の前に立つ。インターフォンを鳴らす。

「驚いた。」ややあって、白髪で覆われた、かなり年老いた男性が玄関の扉を開ける。
「まあいい、中に入りなさい。」その声は明らかに生気を失っていた。
 家の中は質素で簡潔だった。生活に不必要なものはそこには一切存在しなかった。そこで僕は改めて、客観的な基準で確信を得ることができた。彼は僕のおじいちゃんなんだ、と。そしておじいちゃんもおじいちゃんで僕が孫であることを認識している。
 「取り敢えずここらに座っとれ。今暖かい飲み物を持ってくる。」
 そう言って台所に向かう姿は本当に頼りなく、いつ倒れてもおかしくない様子だった。しかし、それが今日ではなく明日であるのを僕は知っている。
 やがておじいちゃんは温かいレモネードの入ったカップを二つ持ってくる。椅子に腰かける。矢継ぎ早に僕はリュックに手を伸ばし、大事に携えて来た例の物を取り出す。五百円玉、六枚。
 「やれやれ。本当にやってくるとは思わんかった。しかもまさか自分の息子を使ってだなんてな。」
 「それはつまり、おじいちゃんにも分かってるっていうこと?つまり、その・・・」僕は尋ねる。途中で言葉に詰まる。
 「分かってるもなにも、わしがすべての始まりなんじゃ。お前のその能力も、そしてあいつのも。そう、わしは明日死ぬ。あいつもそれを知っている。だからお前を使ってその五百円玉を持ってきた。」
 「うん。確かにこの五百円玉はお父さんから預かった。『最期のはなむけだ』って言って。でも、どうして五百円玉何だろう?」
 「やれやれ、やっぱりあいつは何にも話してないんだな。仕方ない、長い話になる。でもこれはお前にとって、あるいはお前の将来や新たな生にとっても大事な話だ。」
そう言うとおじいちゃんはレモネードを一口飲み、粛々と語り始める。明日死ぬのだから、結果的に最後の力を振り絞ることになる。

 おじいちゃんがその能力―――つまり、明日を知覚できる能力を手にしたのは、まだ彼が二十歳になったばかりのころだった。その頃日本は戦争に負けて、おじいちゃんはソ連軍に捕まりシベリアに抑留されていた。そこでは過酷な労働の他には何もかもが不足していた。物資も、食料も、温かみも。そして同じ日本軍の同胞は長時間労働や、ひどい場合には無作為に行われる処刑によって一人ずつ失われていった。一人、また一人。おじいちゃんも時間の問題だと考えていた。朝起きては如何に苦しまずに死ねるかどうかだけを考えて地下深くの炭鉱へと歩みを進めるのだった。
そんな極限の状況下でその能力は目を覚ました。巨大な地震が何の前触れもなくやってくるように。おじいちゃんはある日の朝、明日自分の身が解放されるのを知る。「知る」というよりは「感じる」といった方が近いかもしれない。それは理性の側というよりは、何か動物的なものの側に属していたからだ。そして翌朝起きるとまさしくその通りになる。日本に帰ってくる。待ち望んでいた祖国の地と、温かみを手にする。そこら一切の、細かい話をする気力はもうおじいちゃんにはなかった。しかし、細部はもはやどうでも良いことだった。大事なのはその開花した能力が、やがて自分の息子にも引き継がれていたことだった。しかも最悪な形で。
 息子―――つまり僕のお父さんが手にしたのは、「他人の近い未来」を知覚する能力だった。おじいちゃんのそれも同様だが、それは「知覚」とは厳密にいえば少し違って、人の力で完全にコントロールできる代物ではなかった。ただ「分かる」のだ。直感的に。運命的に。それこそ自然のなかの、言葉にならない言葉がその身に降り注ぐことによって。
 当然相性は最悪だった。おじいちゃんは「自分の明日」を知覚できれば、同じ未来をお父さんは心得ている。折に触れて対立的になった。そのお互いの能力によって。そしてお父さんの場合は、もっとひどいことに、その他大勢の、これまで関係を持ったすべての人の明日までも知覚できてしまうのだ。お父さんはひどく苦しんだ。そして高校を卒業した段階で、当然のように家を出ていった。降り注ぐ雨が、やがて海に帰るのと同じくらい自明に。それが、三十年前。
 「わしとしてもあいつには申し訳ないと思ってる。とても、深く。でもどうしようもないんじゃ。なんせそれは遺伝子のレベルで組み込まれているものだからな。で、別れる際に、五百円玉、六枚。いつも訳の分からない非現実的なところでいがみ合っていたから、せめて最後は現実的な形を持った、そして実際的に役に立つ硬貨を手渡したんじゃ。紙幣とは違って雨にぬれても、雪に打たれても使えるしな。今思えばそれだけで暮らしていくには到底不可能な金額じゃったが。まあでもこのさき生きていけるだろうことくらいはあいつには分かっていたし、あいつはわしよりもうまくその能力を使うことができた。だからお金のことなんてほんとはどうでも良かったんじゃ。で、最後にあいつから、一言。『てめえが死ぬ前日に返してやるよ。世界から雪が尽きる、その前の日にな』、と。」

おじいちゃんはこれらのことを一気にしゃべり通すと、残ったレモネードをすべて飲み干し、そのまま寝室へと消えていった。
「帰りたいときに勝手に帰るんだな。世間一般常識からみれば、ほんとは孫の顔を見れて大変喜ばしいんだが、生憎明日死ぬもんでね。はは。」
 それが確かに血のつながった、実のおじいちゃんとの、生まれて最初で最後の謁見だった。僕には初め訳がわからなかったが、おじいちゃんと、それからお父さんにはちゃんとわかっていた。そして、お父さんは僕を送り込んだ。人の居場所が分かる、この僕を。

 弘前を発った帰りの夜行バスの中で『アビー・ロード』の続きを聞いた。B面のメドレー。そして僕は次に生まれてくるわが子のことを思う。その遺伝子の中にもやはりこういった能力は受け継がれるのだろうか。もし受け継がれたら、それはどんなことを知覚するようになるのだろうか。考えれば考えるだけ、僕はだんだんと分からなくなる。
諦めて僕は五百円玉のことを思う。現実的で、実際的な硬貨。でも今はカード一つあれば何でもものを買える時代だ。知らない間にお金が流れ、形を持った品物を手元に受け取る。僕は僕自身に宿ったこの能力と、クレジットカードによる支払いに本質的な違いはないのではないかと考える。でもそれを深い思考の領域にまで持ち込むには、今はあまりにも疲れすぎている。『ゴールデン・スランバー』が耳元で聞こえる。僕は瞼を閉じる。目を閉じれば奥行きのない闇が現れる。あっという間に曲は流れる。メドレー最後の曲、『ジ・エンド』。

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