【分野別音楽史】#10 ジャマイカ音楽とレゲエの歴史
『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。
今回はジャマイカの音楽史を見ていきます。
ジャマイカはカリブ海の島国です。同じくキューバなどカリブ海の音楽としてルンバやマンボからサルサまでを紹介した「ラテン音楽史」と同じ並びとしてジャマイカ音楽史を載せても良かったのですが、特に「レゲエ」という分野についての発生時期や、ロックやヒップホップなど現在のポピュラー音楽への影響の大きさを考え、別途の系譜として今回の記事でまとめてみたいと思います。
◉ジャマイカの歴史
ここまで各音楽史を読んでいただいた方には見飽きるほど同じ流れの歴史ですが、他のカリブ海諸国や中南米地域の歴史と同じく、ジャマイカもまた、やはり大航海時代、1500年頃にコロンブスによって「発見」され、スペインによる侵略で先住民が滅ぼされました。
各地にサトウキビ農園が作られ、その労働力としてアフリカから多くの黒人奴隷が強制連行され、酷使されました。その後、金などの鉱産物が産出しないことで興味を失ったスペイン人に代わって、17世紀後半~イギリスの植民地となります。
過酷な労働を強いられた黒人たちは農園を逃げ出し、中央部の山中に集まって自給自足の生活を営みながら、奴隷解放を目指して活動を始めます。反乱活動は幾度となく繰り返され、19世紀半ばに奴隷制は廃止、黒人たちは貧しいながらも自由となります。国としては、イギリスの植民地のままです。
ほとんどの黒人が丘陵地帯に定住し、大農園の領主は新たに安価な労働力が必要となったため、1840年代から1910年代にかけて、新たにアフリカ人やインド人の労働者がジャマイカへ流入しました。
20世紀初頭、全世界に散らばったアフリカ系住民の解放と連帯を訴え、黒人に対してアフリカに帰ることを奨励する「パン・アフリカ主義」の思想が生まれていました。
多くの黒人たちに尊敬されていたジャマイカの活動家・マーカス・ガーベイは「アフリカを見よ。黒人の王が戴冠する時、解放の日は近い」と言いました。そしてその後、1930年に黒人のハイレ・セラシエ1世が実際にエチオピア皇帝になったのです。
マーカス・ガーベイの予言が的中したことにより、黒人たちはハイレ・セラシエ1世を「救世主=キリストの再臨」として崇めるようになり、アフリカ回帰への機運が高まります。
こうして始まった、宗教に近いような思想運動をラスタファリ運動やラスタファリズム(通称「ラスタ」)といい、ジャマイカおよびレゲエにおける重要な要素となります。
第二次世界大戦後、疲弊したイギリスは徐々に植民地政策を変更し、ジャマイカは1962年にようやく独立となりました。
◉メント
以前のラテン音楽史の記事で確認したとおり、多くのカリブ海諸国や中南米地域で西洋音楽とアフリカ系の音楽が融合して現代のポピュラー音楽の基盤が形作られた19世紀末~20世紀初頭。ジャマイカではメントという音楽が生まれます。
同時期の似た音楽として、トリニダードトバゴのカリプソというジャンルもありました。レコード産業が盛んになった1930年代以降、タンゴやルンバ、ショーロやサンバなど、多くのラテン音楽がアメリカ本国に流入し、社交ダンス音楽として人気になりましたが、同じようにカリプソも認知されて広まったのに対し、メントは認知度は低いままでした。
そのため、メントの楽曲も「カリプソ」として売り出されてしまいます。カリプソ楽曲として売り出されて非常に有名になった『バナナ・ボート』も、正しくはジャマイカ人の労働歌であり、ジャマイカの民謡・メント楽曲なのです。
メントはカリプソと類似点も多い音楽ですが、ジャマイカ初・ジャマイカ原産のポップミュージックとして、れっきとしたカリプソと異なるジャンルとしてメントは存在しています。
ともあれ、島全体に広がったメントは1940年頃にはダンスやイベントでの重要な音楽となり、1950年代に最盛期を迎えました。カウント・レイシャー、アレース・ベダシー、ティックラーズ、ロードフリーなどのメントシンガーが活躍しました。
◉アメリカ音楽とサウンドシステムの発生
一方で、50年代に入ると、人々はラジオの電波によってアメリカから聴こえるジャズやリズム・アンド・ブルースにも熱中しました。 アメリカのビッグバンドジャズを真似するバンドも多数結成され、管楽器の合奏技術など、後のジャマイカ独自の音楽を作る基礎がこの頃つくられます。
また、酒屋・バーの経営者等がストリートに巨大スピーカーを持ち出してリズム・アンド・ブルースやブギウギなどのレコードをかける集団・サービスが出現し、これを「サウンドシステム」と呼びました。
オーディオセットが普及していなかった多くの島民にとって、「サウンドシステム」はレコードを鑑賞できるよい機会となり、人気を博します。「サウンドシステム」はジャマイカ独自の重要な文化となり、レゲエやヒップホップの誕生に大きく関わることとなります。
◉スカ
ジャマイカがようやく独立を果たした1960年代初頭、メントやカリプソと、ジャズ、リズムアンドブルースなどが独自に融合され、スカというジャンルが発生しました。
2、4拍目を強調したリズムが特徴で、当初は「ジャマイカン・ジャズ」とも呼ばれたそうです。スカはジャマイカ独立を祝うムードとともに勢いを増していきました。
ザ・スカタライツ、デリック・モーガン、プリンス・バスターらが代表的なアーティストです。
◉ロック・ステディとサウンドシステムの発展
60年代初期にスカが発生した後、スカをゆっくりにしたロック・ステディというジャンルが発生します。
時期がはっきりと区分されており、スカの時代が1962年~66年ごろだったのに対し、ロック・ステディは1966年から1968年の間の音楽を指します。このあと60年代末~70年代初頭にかけてレゲエの発生へとつながっていくのですが、ロック・ステディはスカとレゲエの中間の音楽です。
この時期はジャマイカの音楽産業が大きな発展を遂げた時代でした。ジャマイカ特有の音楽文化で、巨大なスピーカーを積み上げた移動式の音響施設「サウンドシステム」が、より明確に音楽ビジネスとして行われるようになったのです。
もともとアメリカのリズム・アンド・ブルースをかけていたサウンドシステムですが、ジャマイカ国内でスカが多く録音されるようになるにつれて、サウンドシステムはジャマイカオリジナルの音楽で踊ることのできる重要な娯楽の場所へとなっていたのでした。
サウンドシステムのオーナーはレーベルを経営するようになり、客から入場料を取ったり、食物やアルコール、レコードを販売して利益を上げるようになったのです。さらに、レーベル経営にあわせて、積極的に音楽をプロデュースするようになったのです。
重要な2人のレーベル経営者として、コクソン・ドッドとデューク・リードがあげられます。
スカからロック・ステディになるにつれて、サウンドシステムの数も増え、各サウンド間の競争が激化したのでした。スピーカー設備はより巨大な音が出るように改善され、サウンドのオーナー(兼レーベルの経営者)たちは選曲に趣向を凝らすことはもちろん、特注レコードも量産していったのでした。
ここで確立したいくつかの文化が、ジャマイカ人の文化やレゲエの要素となります。
サウンドシステムでは、曲を掛けるセレクター(=レゲエ以外の分野でDJといわれるもの)、曲に合わせて喋ったり歌ったりするディージェイ DeeJay(=レゲエ以外の分野でMCといわれるもの)などの役割分担がうまれました。。
※名称がヒップホップなど他の分野とずれているのでややこしいですね。ここでは、DJとDeeJay [ディージェイ] という表記の違いで区別します。
また、サウンドシステムのために作られた、一般にリリースされないレアな録音や、入手できないバージョン、あるいは既存の録音の編集やリミックスといったものが収録されたレコードがダブプレートと呼ばれ、一定のルールのもとにサウンドシステム同士がダブプレートの良さを競い合うサウンドクラッシュという独自のショーが繰り広げられました。
本来市場調査やプロモーション目的で使われていたダブプレートはサウンドクラッシュ文化において「武器」として使用されるようになったのです。
自分のサウンドを称えたり、相手のサウンドをけなしたりする曲も多く誕生し、そのような曲のことを「サウンド・チューン」、または「サウンド・アンセム」と呼びます。
さらに、歌が入ってないカラオケバージョンを使いまわす文化も生まれ、歌のバックにある楽器演奏がリディム(他の音楽ジャンルではトラック、ビートといわれるもの)と呼ばれました。
ジャマイカにおいては、歌にではなく、リディムにも名前が付けられ、他ジャンルでの「歌のカバー」と同様にリディムだけのカバーも多く存在します。
「同一のリディムを複数の楽曲で使いまわす」というジャマイカ特有の文化は「パート2スタイル」と呼ばれ、定着しました。ジャマイカ産シングルレコードのB面には「ヴァージョン」と呼ばれるA面の曲のカラオケを入れることが流行し、一般化したのでした。
サウンドシステムでのディージェイは、1960年代中期までは選曲をしながらイントロや間奏部分で曲紹介をする存在だったのですが、「ヴァージョン」が発明された1960年代後期以降は、ヴァージョンに乗せたトースティング(口頭の話術)を歌手のようにレコーディングし、作品として発表するようになったのでした。トースティングはレゲエ特有のボーカルスタイル・ラップとして定着していきました。
さらに、1968年頃、レコーディング・エンジニアのキング・タビーは楽曲から「ヴァージョン」を作るだけではなく、原曲に極端なディレイやリバーブなどのエフェクトをかけてミキシングを施す、ダブという技法を発明しました。ダブはリミックスやマッシュアップなど後年の音楽技法にも影響を与えます。
このように、ジャマイカの音楽文化は、70年代のレゲエの特徴になっただけでなく、DJ文化・MC文化を有するヒップホップの発生にもつながる重要な源流となり、他にもクラブミュージックのミックスの手法や世界全体のレコード産業のスタイルにまで影響を与えることになりました。
◉ルーツレゲエ
1966年~1968年のロック・ステディ期は短命に終わり、1960年代末から70年代初頭にかけてレゲエの誕生となりました。
ロックステディまで存在していた、アメリカのリズム&ブルースをルーツとしたビートは消失し、1拍目にアクセントがなく3拍目のみがスネアドラムのリムショットとバスドラムによって強調される、完全なるジャマイカオリジナルのスタイルが特徴となったのでした。
このような初期レゲエの代表的ジャンルが「ルーツレゲエ(ルーツロックレゲエ)」と呼ばれる音楽です。
この時期のレゲエを語る上で重要なのが、ラスタファリ運動なのです。ジャマイカの黒人層を対象にした宗教となっていたラスタファリは、自然崇拝・アフリカ回帰・マリファナ(大麻)の信仰などを中心にしたものでした。
ラスタファリズムの影響を強く受けたレゲエは、アメリカのような汚れた文明社会の音楽を否定し、アフリカという自分のアイデンティティに根ざした音楽を志向するようになります。歌詞は抗議色が強くなり、曲調はアフリカ色の強いものになっていったのでした。
ルーツレゲエで重要なアーティストが、現在でもレゲエの神様とまで言われているボブ・マーリーです。レゲエというジャンルを世界的に広めながらも、ジャマイカ国内においてラスタファリ運動を牽引する偉大な存在となったのです。
ボブ・マーリーを筆頭として、このルーツレゲエの時期にはバーニング・スピア、ホレス・アンディ、カルチャー、ピーター・トッシュ、バニー・ウェイラー、オーガスタス・パブロといったアーティストが活躍したほか、リー・ペリー、ジョー・ギブス、バニー・リー、キング・タビー、コクソン・ドッドといったプロデューサー・エンジニア勢も多くの楽曲を残し、実験精神と録音技術の向上により、ダブの手法が多用されていきました。
ルーツレゲエは70年代を通して発展しましたが、世界的な成功に伴うアーティストらの海外公演の増加が、ジャマイカ国内での活動を減らす結果に繋がってしまい、さらに政治の混乱が続いてしまったため、ルーツレゲエの硬派なメッセージが徐々に人々にとって響かなくなってしまいます。そうして、レゲエも80年代以降、次の段階へと進んでいきます。
◉ダンスホールレゲエの発生
◆ダンスホールレゲエの始動/ラバダブ
70年代、ボブ・マーリーらによってジャマイカに花開いたルーツレゲエは、海外公演の増加によるジャマイカ国内の支持の低下や、失政による政治・経済の混乱で、硬派なメッセージへの失望感が広がったために、徐々に下火になっていきました。さらに、1981年にボブ・マーリーが死去し、失速が決定的となったのでした。
こうした中で、かつてのラスタファリズム色を薄れさせ、「スラックネス」と呼ばれる下ネタを中心とした歌詞や「ガントーク」と呼ばれる自分の銃や力を誇示する歌詞を流行させました。ここから、従来のルーツレゲエと異なる「ダンスホールレゲエ」の始まりとされます。主なアーティストとしては、イエローマンらDJがこの動きを推し進めました。
イエローマンは、ワン・ウェイ物とよばれる「アルバムすべての曲が同じリディム」という形式の作品を多く出すことによって、リディムそのものを聴衆に認識させていきました。
この時期のアーティストは、基本的にレコーディングよりもラバダブという、サウンドシステムでの即興セッションに活動の重点を置いており、そうした中でイエローマンをはじめシャバ・ランクス、ニコディマス、ブジュ・バントン、バウンティ・キラーが影響力を持っていきました。
◆コンピュータライズド革命/ラガマフィン
さて、こうした中で、当時普及し始めたデジタル楽器によるリディムの制作も進んでいっていたのですが、1985年のキング・ジャミーのプロデュースによる、ウェイン・スミスの「アンダ・ミ・スレン・テン(Under Me Sleng Teng)」が大ヒットしたことにより、デジタルサウンドのインパクトを起こしました。
リー・ペリーやキング・タビーといった1970年代から活躍するエンジニア達もこぞって打ち込みの技法を導入、ここからレゲエ界は急速にドラムマシンやシンセサイザーを取り入れてエレクトリック・ミュージック化していくことになります。
この音楽的革新を「コンピュータライズド」「コンピューター・リディム」といいます。
スティーリィ&クリーヴィーやボビー・デジタル・ディクソン、スライ&ロビーなどがコンピュータライズドのリディムトラックを大量生産し、ニンジャマン、シャバ・ランクス、スーパーキャット、バウンティ・キラー、ビーニ・マンなど多くのDJによるヒット曲を生んでいきました。
ダンスホールレゲエは、ドラムマシンの導入と聴衆のニーズにこたえる形で曲のテンポも徐々に上昇し、それまでのレゲエとは全く異なる音楽と進化していったのでした。
ここからしばらく人気となった打ち込みによる高速のダンスホールレゲエは特にラガ(ラガマフィン)と称されます。シンガーたちはわざとキーを外して歌うというアウト・オブ・キー唱法を確立し、大きな人気を博しました。
◉イギリスでのレゲエの独自発展とジャングル
ジャマイカに対して長い間、植民地支配を続けていたイギリスでは、カリブ海からの移民を積極的に受け入れていたため、スカの段階からジャマイカ音楽は流入していました。
1970年代終わりから1980年代初期にかけては、イギリスのパンクロックやポストパンクに、レゲエが大きな影響を与えています。
さらに、80年代のレゲエのコンピューターライズド時代には、イギリスでも同様の革新が行われ、ニュールーツと呼ばれました。ニュールーツは、ニューウェイヴやテクノ・ハウスなどの音楽にも少なくない影響を与えており、ロックバンドのマッシヴアタックが取り入れたレゲエサウンドはトリップホップというジャンル名で呼ばれたりもしていました。
このようにレゲエの影響力が続いていた中で、1990年代、レゲエのトラックやベースラインでありながら、ドラムのサンプリングであるブレイクビーツを高速で鳴らして複雑化した「ジャングル」というジャンルが誕生しました。
これは、ターンテーブルの回転数を誤って鳴らしてしまったのを面白がって、音楽に仕立て上げたレゲエDJたちが祖先とされ、はじめはレゲエ音楽の亜流だったものが独立していったのでした。レベルMCというDJらがこの手法を産んだとされ、1994年に発売されたM-Beatの「Incredible」のヒットが、ブームのきっかけとなりました。
ジャングルにおいては、レコードからサンプリングされたドラムブレイクのみをリズムとして使用する事が大半でしたが、やがてリズムマシンやソフトウェアなどを用いたクリアな音質のリズムも併用されるようになり、レゲエから完全に離れたディープなクラブミュージックの1ジャンルとして発展していき、これが「ドラムンベース」というジャンルの誕生になりました。
1990年代中盤以降、ドラムンベースはイギリスのクラブシーンで隆盛を見せました。
この段階以降は、今回の記事ではなくクラブミュージック史の記事として改めてまとめてみたいと思いますが、4つ打ちのハウスミュージック系が主流のクラブミュージック文化の中で、このようなレゲエやジャングルやドラムンベースなどを源流とする音楽が、一線を画すイギリスのエレクトロミュージック文化の特徴となります。
◉レゲトンへの派生
キューバ音楽の記事などでも触れましたが、80年代から90年代にかけて、アメリカのヒップホップやクラブミュージックの影響を受けながらプエルトリコでレゲエやサルサを融合する形で「レゲトン」というジャンルが産まれました。
これはスペイン語のレゲエの一種として位置づけることができます。
レゲトンは1990年以降、プエルトリコ首都のクラブ等で若者がスペイン語でラップし始めてから人気が出始め、スペイン語圏の各国にまで広まっていきます。
N.O.R.E.(ノリエガ)やダディー・ヤンキーが楽曲をヒットさせたことで、その人気や影響は世界中に広がり、現在ではEDM系の音楽やヒットチューンにもその影響が見られるまでになりました。