道 ( 白石一文著 )
20240823
こうして、自分は未来を大幅に変えようとしているのか?
それとも、新しい未来を作り出そうとしているのか?
主観的には前者だが、客観的には後者だろうと思う。
この先の未来を知っている自分にとっては「未来を変える」ことであっても、その未来を知らない人々にとっては「新しい未来を作り出す」ことと同じだろう。実のところ、その「新しい」という形容詞自体も、先の未来を知っている自分だけに通用するものだから、他人にとっては単に未来がごく自然に紡ぎ出されていくに過ぎないとも言える。
そうした観点からすれば、時間を遡行することによって変えられるのは自らの記憶だけであって、未来そのものを"変える"など最初からできるわけもないことがよく分かる。
――これで、娘の花嫁姿を妻と二人で見ることができる。
ベッドに胡座をかいて深く思う。
ーー彼女の産んだ子供をこの手に抱き締めることだってきっとできる。
娘を亡くすまでは、そんな未来図など想像したことさえなかった。娘の嫁入り、孫の誕生
ーーそれが一体何だ、くらいにしか考えていなかった。
ところが彼女を失って、当然訪れるはずの未来が自分たちに来ないという事実を思い知ると、絶望にすっかり打ちひしがれてしまったのだ。
平凡でありふれたもののように見える日常が、実はかけがえのない貴重なものであることを毎朝、毎晩、仏壇の中で微笑む娘に手を合わせるたびに痛感させられてきたのだった。
それは一度失くしてしまうともう二度と返ってはこないのだ、と。
あちらの世界の自分は一体どうなってしまうのか?
これには二通りの考え方がある。
一つは、ニコラ・ド・スタールの「道」の中へと意識だけが吸い込まれて、意識の抜けた肉体はあちらに残されるというもの。つまりは今日、自分は突然死してしまったというわけだ。
もう一つは、そうやって「道」に意識が吸い込まれてしまった瞬間に、あちらの世界が全部丸ごと消滅してしまったというもの。
だが、よくよく考えてみれば、この二つは同じことなのだった。
どちらにしろ、自分の意識が存在しない世界は、世界自体が存在しないのと変わりがないからだ。
時間の矢は同じ方向にしか飛ばないため、我々は肉体の老化は実感できても、その逆を感覚することは絶対にできない。
その誰にも不可能なことを、今、自分は体験し、味わっている。
わずか二年半でも、こうして若返ってみると、分厚いコートや手袋、長靴下、重い帽子を全部脱ぎ捨てたような”軽やかさ”を感じる。
ーー若さというのは凄いものだな…。
初めてそのことをまざまざと理解できたような気がした。
「なんだか面白いですね。そういう話を聞くと、人生って『もしも、あのとき』の連続なんだなって思う」
「もしも、あのときの連続か、確かにその通りかもしれないね」
「だけど、女性が結婚を考えるときは、それはそれ、これはこれと公私の峻別をきっちり付けるのが一番大事なんじゃないかな。どんなに魅力的でも結婚が難しい相手に深入りし過ぎるのは正しい選択じゃない。それは単に情に溺れているだけだからね。情に溺れるのは悪くはないが、一時の事にしないと。情というのは腐りやすいからね。食品で言えば生鮮食品みたいなものなんだ」
「情は生鮮食品…」
妻の中にはさまざまな"理念型"というものが存在している。
夫婦とはこうあるべし、親子とはこうあるべし、家族とはこうあるべし、サラリーマンとはこうあるべし、男とは、女とはこうあるべし、という彼女なりの理想像がきっちりと保持されているのだ。
そしてその"理念型"に現実を近づけていくのが彼女にとっての"幸福とはこうあるべし"なのだった。
親子の縁、きょうだいの縁と言っても所詮はほんの一時、その場限りのこと、というのは事実ではあろう。だが、それは夫婦とて同様であり、とどのつまりは血を通わせた血縁の重みは何ものにも代えがたいという一側面も厳然とあるのだ。
何しろ前の世界〟では娘が事故死するという驚天動地の悲劇が起こったのだ。その悲劇の量を100とすれば、"今の世界"ではその100が0に変わった分、別の様々な〝悲劇"が合計100を目指して沸き起こっているのかもしれない。
やはり一人の人間の人生において、悲劇の総量は決まっているのかもしれない。
僕の人生も他にあって、その世界では愛する娘の成長を楽しみに生きている幸福な自分がきっといるんだ。だけど、こうやって娘を小学校2年生で亡くすという人生もある。僕の場合は、そっちのつらい人生を選んだけれども、そのつらい人生を僕が引き受けたからこそ、別の世界では娘と仲良く暮らすもう一人の僕の人生が保証されているんじゃないかって。 そして娘が僕や妻の中でいまだにこうして生き続けているのは、僕の代わりに彼女を大切に慈しんで育ててくれているもう一人の僕がいてくれるからかもしれないってね。
発生する悲劇の総和はいかなる世界においても同じ量になる―エネルギー保存則のような法則がこの無限に広がる世界を貫通している。だが、一方でその無限の世界に住む人間一人ひとりには"悲劇の偏り"というものがあって、その偏りは、それぞれの世界で別々に生きる無数の"自分自身"が意識的に作り出しているのかもしれない...。
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