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非属の才能

20240720

「みんなと同じ」が求められるこの国で、「みんなと違う」 自分らしい人生を送る方法はあるのか?
右肩上がりの経済成長が終わり、群れることで幸せを感じられる「恵まれた時代」が過ぎ去った。ところが、未だにこの社会では、出る杭は打たれ、はみ出し者はいじめられる。横並びが一番重視され、斬新な発想や強烈な個性は「群れのルール」に従って矯正、または無視されてしまう。才能ある人間が生きづらい国それがニッポンだ。もはや今の時代、みんなと同じ必要は全くない。むしろ、違えば違うほどいい。人はそれぞれだ。各個人が自分の道を自由にゆけばいい。「非属」であること――これこそが新しい時代のスタンダードだ。

才能というものは、「どこにも属せない感覚」の中にこそある。「みんなと同じ」という価値観に染まらなかった人間に、非属の才能がある。 

僕たち日本人がどんな教育を受けているかといえば、どんな場面でも空気を読み、協調性を持つことが一番優先されるような教育だ。
しかも、その多くは「協調」などではなく「同調」の圧力だろう。

「どこに属しているか」より、「その人個人」の存在が問われるべき時代になった。そんな時代に幸せに生きることができるのは、「みんなと同じ」といった楽を選ばず、自分の非属の部分に目を向け続けた人間だ。

ずっとまわりに合わせて生きてきた人間には、主張すべき「自分」というものがない。もちろん、「これが人と違う私だけの才能です」と胸を張ることのできるような才能もない。「才能のない人間」とし消耗されてしまうのだ。

こんな僕に、「自分の才能はどこにあるのか?」といった悩みは全くない。子供の頃から、自分の中にの「どこにも属せない感覚」に従って、同調圧力にも負けずに非属的に生きてきたからこそ、自信を持ってそう言えるのだ。

「なんか違うなあ」といつも心の中で思っているあなた。実は、あなたには才能がある。ただ、まわりの空気を読んで、いい人を演じて、その違和感を押さえつけて、ないことにしてきただけなのだ。ところが、本当の才能や独創性といったものは、そういった属することのできな違和感の中にこそある。

洋画に出てくるヒーローたちはよく、「あいつはクレイジーだよ」と憧れを込めて言われている。日本では、「いかれた奴」という褒め言葉があった。ところがいまでは、そんな素敵な「クレイジーでいかれた奴」の予備軍は、アスペルガーだの多動性障害だの、リンゴの選別みたいにくだらない分類をされ、バカげた治療の対象ですらある。本当にくだらない。

はっきりとわかったのは、僕はずっと彼らに嘘をつかれていたということだ。彼らとは、学校の先生であり、同級生であり、同級生の親たちであり、テレビや雑誌のことである。真面目そうな顔で彼らが言う「ふつう」 とか 「常識」とかは、ほとんどが嘘だった。たいした検証もなく信じ込まれている時代の空気にすぎなかった。

自分の人生は自分のもの。
あなたの人生はあなたのものだ。

わがままに行こう。
我がままに行こう。
行列に並ぶより、行列に並ばせてやろうじゃないか。

狭い社会での立ち位置の取り方に腐心し、ひたすらノルマだけをこなしてきた人間は、人生に必須の「逆境」に対処ができない。
立ち止まらざるを得なくなったとき、人は必ず自分の内側にその答えを探し出そうとする。
なぜ、自分は生きているのか?
自分のやりたいことはなんなのか?

軍隊的価値観の「兵隊型」(広く取ると体育会)の人たちの時代では、理不尽な教師や先輩の命令に対して疑問を持ったりせず、ある種の思考停止ができる人間が認められていた。

学校教育の中で「非生産的」と言われる要素の中にこそ、非属の才能は眠っている。

学校は、人生でもっとも同調圧力が強い閉塞空間だろう。「これが正解」「これがふつう」「これがあたりまえ」「これが常識」という同調を、教師は毎日これでもかというほど生徒に押しつけてくる。
やっかいなのは、「それが生徒のためだ」と教師たちが本気で信じ込んでいることだ。完全に協調と同調を混同してしまっている。

「みんなの常識」があまり当てにならないのは歴史が証明している。僕たちは「国のために死ぬのが美徳」という常識が一瞬にして「消費こそが美徳」になった国に住んでいる。

協調はしても同調してはいけないのだ。

「なぜ日本の教室は40人なのか?」という疑問に対して、「軍隊の小隊が40人だったから」という話を聞いたことがある。日本の学校は未だに戦争を引きずっている。朝礼もセーラー服も丸坊主も、軍隊の名残以外の何物でもない。

ムラの掟と場の空気を最優先し、とりあえず無難に生きた人間が歴史を変えることなどあり得ない。

祖母は中学生だった僕に、「みんなはいろいろ言うと思うけど、おばあちゃんは玲ちゃんは漫画家になれると思うよ」と言ってくれたのだ。
たった一度の発言だったけれど、この言葉が僕のいまも続く自信の根拠になっている。

時代の空気や周囲の常識などより、ただ本人を信じてあげればいいだけの話だ。何気ないひと言が時空を超えて、その人を支え続けるかもしれない。

100万円近くするエルメスのバーキンはいつも予約待ちで、買うのは大変だというが、苦労して手に入れたそのバッグを友人に褒められたとしても、よく考えてみると、褒められているのはバーキンであり、その人自身ではない。みんなが価値を認めるブランドで武装すれば、自分自身の価値も上がるとでも思っているのだろうか。「バーキンが買える経済力」を自慢したいだけなのかもしれない。バーキンはただの鞄、ダイヤモンドはただの石だ。

ずっと欲しかったブランド物のバッグが「高揚感は手に入れるまで」だったように、学歴や資格やモノは、いったん手に入れてしまうと、思っていたほどの幸福感や充実感を与えてくれるわけではないことがわかってしまう。

問題は、医者や弁護士や東大生や電通マンになる試験はあっても、ブルース・リーになる試験はない。みんなに偉いと言われる「タグ(値札)のついた何か」にはなれても、「その人でなければならないという唯一無二の存在」には絶対になれない。

「天才は1%のひらめきと99%の努力」という有名なエジソンの言葉があるが、それはかなり真実に近い。自分の子供に凡人のタグをつける親たちは、「天才という絶対的な才能は100%先天的なもの」だとでも思っているのだろうか。1%の 「わかりやすくない才能の芽」を見つけてあげるのが本来の親の役目のはずなのに、そのように勘違いしている人間には、自分の子供の才能は決して見えてはこない。

天才の構成要素は、ちょっとした才能と大いなる努力、そして、群れの価値観に流されず、「自分という絶対的なブランド」を信じ続ける”自分力"なのかもしれない。才能の比重は意外に低いのだ。

父がよく言っていたのは、「自分の価値観は自分の世代で終わり。自分の人生は支えてくれたかもしれないが、子供の人生は子供が考えるものだから邪魔はしない」という種類のことだった。父は、僕にどうしろこうしろとは言わず、「自分の人生は自分で決めろ」と言っていたのだ。子供を未完成な人間と見るのではなく、ひとりの独立した個人として尊重してくれていたのだ。

子供は「小さな人」なだけで、すでに立派な個人だ。「子供の問題」のすべては「大人の問題」だ。大人が自分の人生をどう生きるかで、その子供がどうなるのかが決まる。子供へのしつけが甘いから問題が起こるのではなく、大人の自身へのしつけが甘いから問題が起こるのだ。
「君を信用しているよ」
この簡単なひと言が、子供をブランドいらずで幸せに生きられる「自分力のある人間」にしてくれる。

大きな群れの価値観に従って生きるのは楽だけれども、世の中にはそんな思考停止の魚の群れをからめ取ってやろうと、いくつもの定置網が仕掛けられている。
しかも、その漁はマスコミと一心同体になって行われ、両者はその取りぶんを分け合っているのだ。
「これを買え」
「これを食え」
「ここへ行け」
「これを見ろ」
企業と連動したキャンペーンのCMは、壊れたサルのおもちゃみたいにくり返し流され、報道番組の中にまでそれは侵入している。テレビ局は自社制作の映画の宣伝を「これでもか」といわんばかりに垂れ流す。
「みんなはそうしているみたいだ」
「もう間に合わなくなりますよ」
思考停止の群れは見事に網へと追い込まれ、行列を作る。

こんな「こうしろ、ああしろ!」の応酬につき合っているうちに、たちまちお金が尽きる。するとご丁寧に、無人のサラ金マシーンがお出迎えというわけだ。なにも東京湾に沈められるところまでいかなくても、今度はその支払いのために仕事は辞められないし、残業も断れない。気づくと「35年の住宅ローンを抱え、お盆には大渋滞の高速道路でイラついているオレ」といった悲惨なことになっている。全く身動きができない状態に、「どうしてこんなことになったんだ?」と振り返ってみると、なんてことはない、ただ「みんなと同じ」ことをしてきただけだった。

「権威」や「安定」が人生のおもしろさを奪ってしまう。

「いかに王道から逸れて生きていくことができるか」ということに挑戦し続けている。本当に魅力的なものは、そもそも道のないところにあるのだろう。

人は無意識に思考や行動をパターン化させてしまう。

僕は経験至上主義的な傾向があるのだけれども、人生を変えた出会いはたいてい「なんとなく直感」で決めたときに訪れることが多い。これは理屈じゃなくて、長い人生で得た実感だ。仏教では、どうやらそれを「縁」と言うらしい。

基本的に民主主義は多数決の文化だ。 選挙に限らず、 多数決でものごとを決めることが多い。
文化祭の出し物なども、多数決で決める場合がほとんどだろう。多数決は、一見、公平なやり方に見えても、多数決をすれば多数派が勝つに決まっている。多数派が導き出すのは、「あのとき、ああしたからうまくいった。だから今回もうまくいくに違いない」 という成功体験に支配された群衆の論理にすぎない。多数派とは自然に生まれるものというより、往々にして、一番権力を持った人間が作るものだ。例えば、学校では、声の大きいボスが「俺の言うことに逆らうなよ」という空気を教室に形成して、クラスメイトはなんとなくそれに逆らえず同じ意見になってしまうようなケースが多い。

ブームと呼ばれるものは、みんなが見向きもしない道をお構いなしに突き進んだ人からはじまることが多い。時代を動かすような流行は、少数派から生まれる。

変わり者のいない群れは、多数決と同じでいつも同じ思考・行動をくり返し、環境や時代の変化に対応できず、やがて群れごと淘汰されてしまう。
学校や会社などでは、変わり者は「百害あって一利なし」とまで言われてしまうが、皮肉なことに、停滞した群れの未来はたいがいこの手の「迫害されがちな才能」にかかっている。変わり者は一利なしどころか、百利を生む可能性を秘めているのだ。

どうすればモテるようになるのか?男に生まれると、そんなことばかりを考えて生きることになる。
「話を聞く能力」や「女心の理解力」、そして「勇気」と「想像力」あたりが大筋の回答なのだろうが、決定的に言えることは、若い女性の遺伝子は常に「次の時代に生き残れる遺伝子」を持った相手を探しているということだ。
相変わらず、有名大学卒や医者や弁護士を結婚相手に望む女性も多く存在するが、若い人ほど、相手がどこに属しているかより、どんな個性 (才能)を持っているかに視点が移っている気がする。「配給待ちの長い行列に並んでいるオス」と「前人未到の山に分け入って獲物を探してくるオス」の違いを、彼女たちは遺伝子レベルで本能的に嗅ぎ分けているとも言える。
彼女たちの本音は、圧倒的に成功したオスが自分の想像を超える素敵な暮らしをプレゼントしてくれる、といったところだろう。配給待ちの列でつまらない人生を生きているオスは、ただ単に生活の保障を得るための相手くらいにしか見てもらえない。
おそらく、彼女たちは、遺伝子レベルで有用なエラーを起こしているオスを求めているのだ。
そして、そういった遺伝子の持ち主は、いわゆるエリートと言われる男たちよりも、夢追いフリーターや群れから外れた男たちの中にこそ存在することに、彼女たちも気づいている。
動物行動学者は、その時代の若い女性が下す判断が遺伝子的に最も正しい選択だと言う。つまり、群れの中、限定の優等生に、今のメスの遺伝子は「NO」を突きつけているのだ。ダメ男はダメと言われながらも、女性を惹きつけてしまうなんらかの魅力を持っているわけで、それが「生活力や肩書きがない」というハンデをも超えるならば、そのオスは大化けして、誰もいない圧倒的な新天地を見つけてしまう可能性がある。その昔、名を上げる作家や芸人は、食えない時代、ヒモとして女性に食べさせてもらうことが多かったというのは、よく聞く話だ。メスの遺伝子はとても優秀で、何が人間にとっての価値かということを見抜いてしまう。

「 ここではないどこか 」を求める気持ちは、人間が本来持っている生存本能の一つなのだろう。

寒い夜の海岸で焚き火を見つめながら「死にたい」とつぶやく若い女性に、男は言う。「焚き火が消えたら、嫌でも目が覚める」
人はある程度、満たされていると、自分自身がどのような状態にあるのかわからなくなってしまうものらしい。

新しいことにチャレンジすれば、結果は必ず「失敗」である。
「いつも成功してます」って奴がいたら、そいつは新しいことをやんない奴だ。たまたまやってうまくいくのは「千三」といって1000回に3回らしい。ということは、新しいことをやれば99.7%は失敗するということだ。それなのに、一度失敗しただけで「俺はダメだ〜」と思い込み、「やっぱり前例のないことはしないほうがいいんだ」と考えてしまうと、もう未来はない。
消えゆく焚き火をただ眺めるだけの人生が待っている。「失敗から本当の成長がはじまるんだ。もし失敗しても人のせいにすればいいんだよ」

新しいことに挑戦する際、心得ておくべきことがもう一つある。それは、他人の意見を聞き入れてはいけない、ということだ。人間がものを話すときには、ほとんどの場合、相手を操作しようという無意識が根底にある。これが群れのルールに集約されたとき、例の「漠然とした同調圧力」になるのだ。

新しいことに挑戦する際、大切なのは、すぐに生産性や順位などの結果を求めないことだ。もちろん、まわりの言うことなど99%聞かなくていい。「自分が楽しいか?」とか、「何か今までに感じたことのないことを感じるか?」といった感覚を大切にして、お金にならなくても続けるべきだろう。群れの空気より自分自身を信じて、人の評価を無視して自分なりの努力を重ねていけば、いずれ自分の隠れていた才能がなんであるかがわかるときがくるはずだ。

「どいつもこいつもバカに見える」
そんな世界で、とりあえず自分をどけて一通り受け入れる方法がある。行き詰まったら、視点を切り替えてみればいいのだ。視点が7つくらいあると、気持ちはだいぶ楽になる。
最初はまず、「相手からはどう見えるか?」たったこれだけで、自分だけの世界からは出ることができる。次は、「10年前の自分から見たらどう見えるか?」「死んだ後の自分からはどう見えるか?」といった類いの「時間軸を変えた視点」だ。
さらに、もっと自由なところに視点を置くと、物事はますます違ったものに見えてくる。
・窓の外の鳥からの視点
・アフガニスタンからの視点ー外国人
・トリケラトプスからの視点
ときにタイムスリップをした未来人になり、ときに白鳥座あたりからやって来た宇宙人になり、ときに魔法で人間にされた諫早湾のムツゴロウになって世界を見る。過去の人はそれを「俯瞰」や「対極的見方」と言って重要視してきた。

俯瞰的にものごとを見ることができるようになったら、自分の世界を飛び出して、相手の世界に飛び込むのだ。次は他人の話を聞いてみよう。

大阪のある少女が、おばあさんにこう言われたという。
「耳はお財布耳にしなさい」
人の話は一度中に入れておいて、必要なときに出せばいいということだ。話を聞くことができない自分人間は、会話に「でも」と「だって」が多い。否定から会話に入る人間が本当に多くてうんざりする。言いたいことがあっても、これでは誰も聞いてくれなくなってしまうだろう。
話を聞く時間は自分の意見をあえて言わず、ひたすら相手の言わんとすることを聞く努力をするのだ。もちろん、話を聞いていると、少なからず自分とは対立する考えを相手が言い出すこともある。当然、自分と違う価値観なのだから、「共感」はできない。ところが、こういうときこそ、新たな視点や価値観を身につけるチャンスなのだ。

非属の人たちの多くは、自分の世界を大切にしているだけでなく、その自らの世界をエンタテインメントとして相手に提供する術を知っていた。自分の中にある非属の才能をみんなのためにわかりやすく翻訳したり、調理したりすることが、幸福な人生を送るためには必須なのだ。


 










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湯浅淳一
あなたの琴線に触れる文字を綴りたい。

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