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奇界遺産
20240713
人類最大の無駄、あるいは人類最大の天賦
<芸術>や<オカルト>が、この世界においていかなる意義をもっているのか?
この世界における存在意義、有用性である。
スプーン曲げであれ、 古代ギリシアの彫刻であれ、チュパカブラであれ、現代美術のよく分からないオブジェであれ、この世界に存在し、それを必要としている人々がそれなりに存在する以上、そこにある程度の有用性や意味があると考えるのは、決して間違ったことではないはずである。
それでもなお思うのは、やっぱりこれって本当に必要なんだろうかという疑問だったのだ。 必要、というのはもちろん根源的な意味である。この世界にあったほうがいいかどうか、とかそういうレベルの問題ではない。大げさに言って、それが人類の存亡にとって必要かどうかという意味においてである。
「ネアンダルタール人が滅び、現世人類たるホモ・サピエンスが生き残ったのは、洞窟のなかに獲物の壁画を描き、それを槍で突くという魔術的行為を行ったからである」
今から3万年前に滅びたネアンダルタール人の遺跡からは、埋葬の痕跡といった精神文化の萌芽こそ見られても、壁画までは発見されていない。
壁画、すなわち<芸術>であり<魔術=オカルト>の始まりであるそれは、その時点において、いわば<究極の無駄>であったに違いない。 岩に絵を描き、槍で突いてみたところで、お腹が満たされるわけでもなく、むしろエネルギーの浪費にしかならないのだから。 最初に岩に絵を描いて槍で熱心に突ついていた奴は、多分、仲間内から狂(猿) 人扱いされたはずである。しかし結果的には、この絵を描くという狂気じみた行動を通じて、狩猟の成功がただの運任せから期待を伴う予知的なものとなる。やがてそれがある段階で自然の因果と同調し、制度化したもが、祈りや儀式となった。その結果、このホモ・サピエンスは儀式を通じて未来を想像する力を獲得し、安定した狩猟の成功や、 自然の変化に対応することが出来たから、現代まで生き残ったというわけである。つまり、はじめは<究極の無駄>として生まれた呪術的想像力こそが、他の動物たちを押しのけて、生存と進化へ向かう道を切り開いたというわけだ。
<芸術>と<オカルト>、一言でまとめると<余計なこと>には、実は人間を人間たらしめてきた謎が、もしかしたら隠されているかもしれないのだ。確かに現代においても、人間だけがUFOやUMAを見るし、変な建築物やオブジェを作るし、見えないものを見えると言い、そこにないものを信じてみたりする。これは人類最大の無駄どころか、むしろ人類に与えられた最高の天賦である可能性すらある。つまり<余計なこと> それは人間が人間であるために、絶対的に<必要なこと>だったかもしれないのである。
※
感想
こんな写真集を見て、
「行きたい」
と考えるまでは、みんなできるけど、
「じゃあ本当に行こう」
というのは、みんなできない。
「写真じゃなくて、この目で本当に実在するのかを確かめたい。この絵の世界を体験したい」
本当に実行に移してしまうのが、私たち旅人なのだ。いつか見に行くし、不可能だと考えていない。
世界のすべてを観てみたい。
まだ行ってない国が100ヵ国以上ある。
ずっと旅して生きられたなら、どんなに幸せだろうか。
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