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バカロレアの哲学

20240718

フランスの哲学教育
「市民」を育てることだ。それはつまり、民主主義社会において、自分自身の理性によって考え、発言し、行動できる人間を育てることである。「思考し、表現する」ことを目指す哲学教育は、そのための有効な手段であると考えられる。

バカロレア哲学では、「思考の型」の試験がある。
「思考の型」とは、一文で表現される問題を決まった手続きによって分析し、解答を「導入・展開・結論」という三つの部分からなる構成に従って書く。

哲学の歴史やさまざまな哲学者の主張を理解すること、覚えることではなく、そこでどのような思考の方法が使われており、どのようにそれを使うことができるかを知る。

「思考の型」は、教養のある「市民」が身につけているべき、思考し、表現する作法の基礎となるものである。それは哲学という、西洋が歴史的に複雑な思考の範型としてきた知を題材として、自分で考え、表現することのできる人間を育てることを目指す。

「思考の型」は、さまざまな意見を表現するための共通のフォーマットである。つま「中身」ではなく「形式」あるいは「ルール」が同じなのだ。その「形式」に従って議論し、自分の立場を表明することができるようになることが目的とされる。

「思考の型」を身につけることで、われわれは自由に考えることができる。
「自由に考える」とは、あらゆる型にはまらないで考えることではないのか、と不思議に思う人もいるかもしれない。確かに、制約がなければわたしたちは自由である。「○○してはいけない」 「○○すべし」といった命令は、わたしたちにとって時には面倒で邪魔なものに思える。
しかし、自由が「何をしてもよい」ということであれば、それはそれで困る。
例えば、社会の成員みんなが「何をしてもよい」と考えて行動すれば、お互いの利害が衝突することは明らかである。
「自由に考える」ことは、利害の対立とは異なる種類の問題を引き起こす。自由に考えようとすると、多くの人はこれまでにない新しいアイデアや表現を作り出そうと頑張る。しかし、これまでにない新しいものを作り出すのはとても難しい。しかも、新しいことは決してゼロからの創造によって生み出されるわけではない。

「思考の型」はどのように評価されるか。
一つ目は問題分析である。問題文の用語・概念の定義、分析ができているか、問題に対する可能な答えが列挙されているか、問題を複数の問いに変換することで、何が議論されるべきかが明らかになっているか、といった点が評価される。
二つ目は構成である。導入、展開、結論という構成が守られた上で書かれているか、それぞれの部分に必要な内容が述べられているかが評価される。

問題を分析することと、肯定意見と否定意見の双方を、論拠を明示しながら検討する。増税でも憲法改正でも構わない。ある問題を議論する時にまず大事なことは、言葉や概念が何を意味しているのかをきちんと定義することであり、それがどのような対立を含んでいるかを明らかにすることだ。それを行なうのが問題分析の手続きである。そして、肯定意見と否定意見の双方を検討することは、自分がどちらの意見に与するかに関わらず、どちらの意見にも合理的な根拠があることを前提に、その根拠を明確に示すことを目的とする。

「理性はすべてを説明することができるか」

①問題の言葉を定義する
「理性」という名詞と「説明する」という動詞が出てくる。それぞれが何を意味しているのかをはっきり定義しておく。この時の「定義」とは、辞書的な定義である必要はない「理性」にしても「説明」にしても、幅広い文脈で使われる言葉である。
議論の中で必要だと思われるとりあえずの定義を考えてみる。理性を「論理的に思考する能力」、説明を「ものごとや出来事の特徴、性質やそれを生み出した法則や因果関係を明らかにすること」としておく。

②問題に「はい」「いいえ」で答えてみる
問題に対して「はい」「いいえ」で答えてみる。
「理性はすべてを説明することができる」(はい)と「理性はすべてを説明することができるわけではない」(いいえ)という答えを考える。「はい」と「いいえ」、あるいは肯定と否定と言い換えることもできるが、この二つの答えは、問題に対する両極端の解答である。どちらかを支持することもできるし、あるいは両者を統合して第三の答えを作ることもできる。しかしこの第三の答えも、「はい」と「いいえ」で問題に答えてみることからはじめて作り出すことができる。
ある問いに対しての賛成意見、反対意見、どちらに対してもそれを支える論拠を明確にしないといけない。正反対の二つの意見を検討した上で結論を出すということは、その結論が片方の意見だけに基づくのではなく、反対意見も踏まえたものであることを保証する。

③問題を問いの集まりに変換する
問題を複数の問いに「分解する」
一つの問題の背後には、いろいろな概念や暗黙の前提が隠されている。そうした問題の前提を明らかにすることで、「はい」「いいえ」それぞれの立場がなぜ正しいと言えるのか、あるいはどのような時に正しいと言えるのかを議論していくことができる。

③-1
言葉の定義に関する問いを作る。
「理性とは何か?」や「説明するとはどういうことか?」という問いが隠されている。さらに、「すべて」という言葉に注目するなら、「『すべてを説明する』とはどういうことか?」と問いかけることもできる。

③-2
「なぜ」「どのように」「仮に〜ならば〜か」といった疑問や条件の表現を使うことで、「はい」「いいえ」の選択肢を比較する際の手がかりとなる問いを作る。
「理性はすべてを説明することができるか」という問いに対して、「なぜ」「どのように」「仮に〜ならば〜か」という表現を使って問いを作る。

③-2-1なぜ
理由を問う質問が作る。

「なぜ理性はすべてを説明することができるのか?」あるいは「なぜ理性はすべてを説明することができるわけではないのか?」という「はい」「いいえ」の立場それぞれに対応した問いを作る。このように問われた場合、二つの立場の正しさを、論拠に基づいて示すことが、問いに答えることになる。

③-2-2どのように
方法や手段、様態を尋ねる。
「どのように理性はすべてを説明することができるのか?」という問いを作る。これは理性が説明する際にどのような働きをしているのかを問う。反対に、「理性が説明できないのは、どのようなものか?」 のように言い換える。

③-2-3仮に〜ならば〜か
仮定に基づいて推論すると、どのような結果になるのかを問う。この形式は、「何」「なぜ」や「どのように」 と組み合わせて使うことで、問いをより明確にすることができる。
「理性はすべてを説明することができるか?」に対しては、「仮に理性がすべてを説明できないならば、それはどのような場合か?」や、「仮に理性がすべてを説明できるのならば、どのような帰結が予想されるか?」などと問う。

③-2-4〜と〜はどのような関係にあるのか、〜と〜の差異は何か
問題文の中に複数の要素がある時には、このような形の問いによって、それらの要素の間の関係を問う。「理性が説明できるものと説明できないものはどのような関係にあるのか?」あるいは「理性が説明できるものと説明できないものとの差異は何か?」 のように問う。

④-1導入
「理性は人間にとって世界を理解することを可能にする唯一の能力であり、それこそが世界のあらゆる事象を説明可能にしてくれる。しかし、一方で、理性によっては説明できないものも存在すると考えられる」
この文章の一文目は「はい(理性はすべてを説明することができる)」を言い換えている。前半で理性を定義した後に、その力について述べている。そして「しかし」という逆接の接続詞で始まる二文目は、「いいえ(理性はすべてを説明することができるわけではない)」を、理性が説明できないものの存在、という視点から表現している。両者は対立する答えだから、どちらも正しいということはありえない。つまり、両者の間に矛盾が存在することを指摘しなければならない。

④-2展開
理性がすべてを説明できない、限界を持ったものであるとしても、そうした限界が存在することは理性によってしか認識できない。理性は理性自身について考えることもでき、それによって初めて、理性の限界は明らかになる。つまり、「理性はすべてを説明することはできないが、理性の限界自体も理性によって明らかになる」という、理性の能力と限界を関係づける第三の立場について論じる。

④-3結論
結論は、展開での議論を要約してから、問題に答えるための部分である。

人は欲望を持っている。働くのはその欲望を満たすためだ。しかし欲望が鎮まっている時に人は退屈を感じる。この退屈は、満たすべき欲望が激しければ激しいほど強く感じられる。退屈を逃れるにはどうしたらいいのか。もっともっと働くか、あるいは、労働すること自体を欲望として働き続けることだ。仕事と欲望が一致して、さらに働き続ける状態に陥った、いわば仕事中毒の人間がここに生まれる。

技術は人間の知性の産物であり、単純な道具であっても思考を物質化したものだ。
しかし、技術が進歩すればするほど、技術がどのように働いているのかは見えにくくなっていく。例えば、現代の技術の産物はあまりに洗練されており、使用者はその仕組みを知らずに使用することができる。自分が持っているスマートフォンの中身について熟知している使用者がどれほどいるか?思考は技術の産物の中に具現化していて、使用者自体が思考することはほぼない。

技術は自由の概念自体を変えてしまう。これまでにわれわれが定義し、そのようなものとして経験していた自由の概念が、技術によってその限界が試され、異なるものへと変化する。技術は自由を増大させたり減少させたりするだけではなく、自由であることそのものを変えてしまう可能性を持っている。

「教養がある」とは、知識の量の多寡を指すだけでなく、新たな知識を手に入れるための方法を持っているかどうか、そして知識を手に入れる方法を複数持っているか、ということも意味する。

知を生み出す多様な方法を知る効果
知の対象である自己、他者、世界に対する「差異の認識」を与えてくれる。自分と他者がどのように異なっているのか、そして世界そのものや世界の中の事物や組織はどのような原理に従ってできており、どのような点で似通っており、どのような点で対立するのか、そうしたことを知るために、どのような方法があり、それはどのように使用されているのかを認識する。
差異の認識の上に、「差異への寛容さ」は成り立つ。あるいは逆に、差異に寛容であるからこそ、他者や世界を知りたいと思うのかもしれない。私たちは、これまでに遭遇したことのないモノやコトに出会った時に、それがあまりにもそれまでの経験や常識と異なっているために、それについて知ることを拒否したり、それについて考えることをやめたりすることがある。しかし、差異の存在を受け入れ、それについて知り、議論する時に、偏見から離れることができる。

「なぜわれわれは歴史を学ぶことに興味を持つのか?」
歴史を学ぶ理由の一つは、過去に何があったのかを知り、その過去とわれわれがどのような関係にあるのかを知る。言い換えるなら、歴史を学ぶことによって、われわれは、われわれが今あるようになっている「理由」を知る。「われわれは何者なのか?」という問いが、歴史を学ぶ意志の出発点にある時、それは「原因」である。









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