【本要約】哲学と宗教全史
2022/4/16
哲学という思考
なぜ、今、哲学と宗教なのか?
すべての動物の中で、人間が地球の覇者になれたのは、脳がもたらした「 考える 」能力が最大の武器になったからだ。
人間に、理性と感情がある限り、悩みや煩悩が尽きることはない。
だから、哲学や宗教が必要だった。
哲学とは世界のすべてを考える学問である。
ビジネスの世界では、専門分野の知識やデータよりも、異質な世界の出来事や歴史によって、新鮮な発想がもたらされることがある。
人間の知の活動から生み出された哲学や宗教を学ぶことは、ビジネスにおいても有益である。哲学や宗教は、まだまだ人間の知の泉である。
歴史的事実として、哲学と宗教は、不即不離の関係にある。
哲学
叡知への愛。そして知識の探求、特に自然現象の原因、宇宙の事実と真実、さらに存在することの意味などに関わる知識の追求を愛すること。宗教
超自然的な支配力、すなわち宇宙の創造者や支配者 ( 神 ) の存在を信じること。
それらは、人間が死んで肉体が滅びても、滅びることなく存在し続ける霊的な本性 ( 霊魂 ) を、人間に与えてくれる。
宗教 → 哲学 → 自然科学の順で回答してきた。
① 人間は動物なので、次世代を残すために生きている。
② 人間とは、すべての行動や思考を脳の働きに依存している動物である。
人間の意思決定や行動のほとんどは、脳の無意識の部分がコントロールしている。
宗教の誕生
人間は考えるために言葉を身につけた。
「 10万年前、人類の出アフリカの前後に、言語が生まれた 」という学説が有力である。
なぜ、言語が、必要になったのか?
脳が進化して思考するツールを求めたからだ。言語を獲得したことで、人間は世界や自らの存在について、根源的な問いを持つようになった。
最古の太陽暦の一つはエジプトで、ナイル川の氾濫を予知する目的で作られた。人間は太陽の動きと満ち欠けから、暦を作った。そうして、時間の概念 が生まれた。
人類定住 は「 世界を回って狩りをして生きる 」ことから「 自分はもう動かない、周りの世界を支配して生きる 」という意識の変化によってもたらされた。
12,000年前の時代、狩猟採集社会から、定住農耕・牧畜社会への転換した。
周囲の存在を支配していった人間は、自分たちが支配できない自然について、疑問を持つようになる。自分たちは支配できない自然に対して「 何者かが自然を支配している 」と考えるようになる。神という概念 が生まれた。
人間が定住生活をしはじめたときから、人間の脳は進化していない。
哲学の誕生
哲学の誕生、それは、知の爆発 からはじまった。
紀元前5世紀に地球の温暖化が始まったことで、農作物の生産力が向上した。その結果、余剰作物が大量に生産されて、貧富の格差が生まれる。有産階級の人々が、芸術に興じたり、思索を深めることで、芸術家や知識人が、登場してきた。その過程で、知の爆発が起こった。それは、ギリシャで始まり、ほぼ時を同じくして、インドや中国でも、起こった。「 世界は何でできているのか?」という哲学的思考が広がっていった。
何か世界の根源があるはずだ、それは何だろう?
自分たちの論理で、言葉 ( ロゴス ) で考えよう。
ミュトスではなく、ロゴスで、アルケーを考える。
→ 神様ではなく、言葉で、万物の根源を考える。
■ 哲学者たちのアルケーの答え
タレスは、水
ヘラクレイトスは、万物は流転
エンペドクレスは、火・空気・水・土の4元素
デモクリトスは、アトム ( 原子 )
物質を、細分化していくとこれ以上分解できない最小単位の粒子 ( アトム ) となり、そのアトムが、地球や、惑星や、太陽を構成している。アトムによって構成された物体と物体の間の空間は、空虚 ( ケノン ) = 真空である。
上空の天を、地上の世界と区別しない。天にも、物質世界がある。
ピタゴラスは、数
古代ギリシャ
■プロタゴラス
■ソクラテス
ソクラテスは、外の世界ではなく、人間の内面に目を向けた。「 無知の知 」よりも「 不知の自覚 」が表現として的確である。ソクラテス以降の哲学は、人間の内面に向かい、生きることについての問いかけを始めた。
人間の考えることは、いつの時代であっても、その人が生きていた時代の環境に大きく影響を受ける。
ソクラテスの生きた時代は、戦乱の世であった。
古代のギリシャでは「 神だけが知者である 」と考えられていた。
人間は知者でないがゆえに、知を愛求した。
哲学とは「 もともと人間の知性が神と比較すれば無に等しい 」ことを自覚することから始まる。
■プラトン
プラトンの哲学は、観念論であり、アリストテレスは、実証的な経験論であった。アリストテレスは、理論化することを重視し、そのために論理学を体系化した。
ソクラテス
人間の内面を思索プラトン
哲学の問題提起アリストテレス
学問の問題点を体系立てて整理した、万学の祖
古代東洋
■孔子
天下を治めようとするなら、まず、自分が努力して立派な人となれ。次に家族を愛し平和な家庭を作れ。その次に国を治めよ。そして、天下を平かにせよ。
■墨子
孔子の仁は、祖先と親を尊敬し家族を大切にする思想であり、身分社会の存在を前提にしている。他者への無条件の愛は二の次になってしまう。
墨子は「 男女も、貧者も、弱者も等しく人間として尊重されなければならない 」と説いた。墨子の身分に関わらない平等思想を「 兼愛 」という。墨子は戦争反対あったが、反戦ではなく、非攻を主張した。
■ブッダ
ブッダが出家した頃のインドでは、司祭者階級のバラモンの権威と権力に疑問符が持たれていた。バラモンは、神との意思交換の権利を独占して、民衆からお布施を集め神への供養を続けていた。そのバラモンの権威に反発する知識人が登場し始めた。そのような知識人の一部は、バラモン教の社会から、出家して、新しい教えや生き方を求めるようになった。
人間の自由意志
朱子
■性即理
人間は素晴らしい本性を持っていて、この本性は天の理、すなわち宇宙の真理と同じものである。
朱子は、性即理の論理を「 世の中を律する人間の本性と、天上界を律する天の理は、同じものである 」と解釈した。
王陽明は、朱子の「 性即理 = 事物の本性が理 」なのではなく「 人間の気持ちこそ理 = 心即理 」であると考えた。陽明学の誕生である。
朱子は「 性即理 」と述べ「 理気二元論に立脚して様々なことを学んで世界の理について知り、それがわかったら行動すればいい」と考えた。
知ること、学ぶことが優先され、行動はその後でいい「 知先行後 」という考え方である。王陽明は、理は心にあると考えた。
人間の心の中の本性にはよい知恵があるのだ。自分自身をきちんと把握すればよい知恵に至るのである。だから、自分の気持ちこそが大切なのであって、自分の気持ちに正直に行動すればいい。
格物致知といって、あれもこれもその本質まで考えていたら、人間は何も行動できない。
そのように考えて「 知行合一 」を主張した。「 学んだら即行動せよ 」という教えである。
哲学は近代の合理性の世界へ
ルネサンスとそれに続く宗教改革の過程で、近代の合理性追求への足跡を辿る。
ルネサンスは、フランス語で「 再生 」の意味である。
書物といえば、聖書とキリスト教関連の著作しかなかったヨーロッパに、ギリシャやローマの哲学や文学といったリベラルアーツと呼ばれる書物が、続々と流入してきたことが、ルネサンスのきっかけとなった。
1347年からヨーロッパで大流行した疫病ペストは、ルネサンスの原動力となった。ペストはヨーロッパの人口の1/3を死滅させた。
神の手から自分の人生を解放していく生き方が誕生した。
神にすがるか、神の手を離れるか。
ペストの流行は、ギリシャやローマの古典の復活と共に、人に、神と人の生き方の関係を考え直させ、ルネサンスの潮流を呼び起こす大きな引き金となった。
自然を観察し思索する人が哲学者
自然を観察し創造する人が芸術家
■マキャベリ
マキャベリは『 君主論 』で政教分離を訴えた。
■カルヴァン
カルヴァンは、信仰の拠り所を聖書に求め、ローマ教皇権を否認する点では、ルターと同様であった。
従来では、ローマ教会は、死後に天国に行くか地獄に行くか、それは、最後の審判のときに決まる。だから、生きているうちに善行を積み重ねて、最後の審判にパスすることが肝要である。しかし、善行の判断は、ローマ教皇であるため、ローマ教会への寄進やお布施が善行となり、信者たちはそれに従った。
トマス・アクィナスによって構築された神を頂点とする世界の秩序は、ルネサンスと宗教改革の波に飲まれ壊れ始める。
神を絶対視せず、合理的に物事を見つめて考える知性の働きの大切さに、人間が目覚めた。
ルターとカルヴァンが提起した問題も、合理的な思考が根底にあって初めて成立した。
信仰上位の世界から、合理性と自然科学の世界へと時代は踏み出していく、近代の幕開けである。
■ガリレオ
ガリレオやケプラーが地動説を唱えた。
■ベーコン
フランシスベーコンは、帰納法を体系付けた。
帰納法には神が介在する隙間がない。
神の論理や既成の論理で物事を判断しないで、人間が生きている現実世界のファクトだけから論証し結論づける。
まさに、近代科学の方法論の誕生であった。
ベーコンは「 自然は有限なので、実践的な観察や実験を数えきれないほど積み上げていけば、自ずから自然の核心に到達できる 」と考えた。このようなベーコンの帰納法に始まるイングランドの哲学の流れを「 経験論 」と呼ぶ。その特徴を端的に表現した言葉が「 知識は力なり 」である。それは神ではなく人間の力を指している。
■ロック
ロックはベーコンの経験論を進化させた。生まれてきたときの人間は、まだ、何も外界の印象を受け取っていない、白紙のような状態で、いかなる生得観念も持っていない。教育を受けて経験を積むことで、人間は賢くなる。
ルソーの思想
人間は、本来、善の気持ちを持っているのだから、それを引き出すのが教育だ。
ロックの思想は、ルソーと対立する。
ロックは『 統治二論 』の中で、人間は生まれながらに自由平等である ( 自然法 ) という前提に立ち、社会契約論を展開した。
国王や政府が権力を行使できるのは、市民の信託によるものである。もしも、政府や国王が市民の意志を無視して、市民の自由や財産 ( 所有権 ) や生命を奪うのであれば、「 それに抵抗し政府を変えることが許される 」という論理であった ( 抵抗権 ) 。
王権神授説を信奉するジェームズ2世を追放した名誉革命の正当性を弁護した。ロックは自由主義や民主主義の父とされる。
■ニュートン
ニュートンは「 完全な神が創った世界には完全な法則があるはずだ 」と考え、万有引力の法則を発見した、理神論者である。
■ヒューム
人間は五感の感覚器官によって、外界の事物を見分けたり感じたりすることで学習する。この働きを知覚という。
ヒュームは知覚を、2つに分けて考えた。「 印象 」と「 観念 」である。
最初は「 印象 」しかない、キレイやおもしろいなどだ。
「 印象 」を重ねていく中で、一つの「 観念 」が生まれる。
「 印象 」から「 観念 」は生まれるけど「 観念 」から「 印象 」は生まれない。
「 観念 」とは、人間が感知した「 印象 」から生まれるもので「 観念 」のみが独立して存在するわけではない。
因果関係を「 必然なことだ 」と考えてしまう。しかし、原因と結果については、人間が経験に基づいて未来を推測する心理的な習慣に過ぎないのであって、本当に因果関係が存在するのか?
Aという印象の後にBという印象に出合うことが重なると、人は勝手にその関係を「 必然だ 」と思ってしまう。しかし、それは、心の中でしか成立しない連想の必然性である。本人のみが信じる虚偽の観念である。
白紙である人間は、外部からたくさんの印象を取り入れていき、多くの観念を身に付けていく「 知覚の束 」である。
■アダムスミス
『 国富論 』
「 分業 」と「 交換 」を文明の基礎とした。
「 富の源泉は労働にある 」と考えた。
政府が経済を保護し統制する重商主義を批判した。
人間の利己心を基軸として、自由放任主義による市場こそが、自由主義経済の基本とした。
個人の自由 ( 私益 ) と、社会秩序 ( 公益 ) が調和することを理論化した。
■デカルト
人間は白紙で生まれてくるのではなく、ある種の生得観念 ( 経験によらない人間が生まれながらに持っている観念 ) を持って生まれてくる。
人間が不完全なのに完全を求めるのは、完全を知っている神が教えてくれたからだ。人間を創るとき、神は人間に生得観念として、誠実で正しいもの、すなわち完全なものについて教えてくれた。だから人間は生まれながらにして完全なものを求めることができる。これがデカルトの説く神の存在証明である。
それゆえに人間は、生得観念に従って、きちんと学んで努力すれば、神が創る世界と自分が考えた主観の世界とを一致させることができる。このように理論を展開し、デカルトは神を信じる信仰の世界から独立した形で、自分自身で構築した哲学によって、神の存在を改めて証明した。
自分の存在こそが絶対的な真理である。この真理こそが、人間にとって世界にあるすべての真理に優先する、かつての神の存在のように。
人は神から完全に自由になった。
デカルトは近代哲学の祖である。
トマス・アクィナスは、哲学は人間と自然の世界にだけ通用し、死後と宇宙の世界については通用しないと述べた。神の恩寵によって創られた世界の実在を、信仰によって信じる以外に世界の真理を求める道はないとした。
デカルトは神の信仰とは無関係に、真理として、コギト・エルゴ・スム「 我思う、ゆえに我あり 」を置いた。そして独自の哲学の体系を打ち立てる中で、神の存在証明を行った。このことは、人間の自我を神の名によって束縛することを許さない、純粋な自我の世界の確立であった。
哲学の世界に「 機械論 」という考え方がある。自然界における様々な運動は、特別な目的があるわけではない運動の連鎖であるから、それは「 機械と同じである 」という考え方だ。
近代の機械論もデカルトから始まった。この世界では人間以外は精神を持たない。しかし人間の身体について考えれば、それは他の動物や植物と同じく物体である。動植物も人間の身体も、原理上は機械に等しい。宇宙も人間の身体も同一の法則によって支配されている。
人間の精神や意識と、物体としての人間の肉体は、別のものである。精神や意識は神に与えられた生得観念によって、努力し勉強すれば完成度を高くすることが可能だが、肉体は不変である。人間は精神と身体の2つに分かれている。心身二元論である。
■スピノザ
自然は完全なものである。移り変わる天候や季節は調和が取れていて、美しい自然こそが完全なものである。だから「 自然が神だ 」と考えた。その考え方を「 神即自然 」と表現した。
「 神即自然 」では、人間も自然の一部であるとし、完全なる精神と不完全である身体が別ではない。身体が死んだら精神も死んでしまうのだから、デカルトのような心身二元論は成立しない。
近代から現代へ
世界史の大きな転換期に登場した哲学者たち
アメリカの独立 ( 1776年 ) の最大のポイントは「 人工国家をつくった 」ということだった。
アメリカは世界中から集まってきた人々が独立させて新しく誕生した人工国家である。
アメリカ人のアイデンティティは憲法である。社会契約説が述べる通り、世界で初めて社会契約国家が生まれたのがアメリカである。
■カント
知性の認識には、理性や判断力が伴う、即ち、理解力である。カントは「 人間は感性と知性によって世界を認識する 」と考えた。人間は、白紙のまま生まれてくるが、動物との違いは、知性という能力を持って生まれてくる。
人間は、経験に先立って、空間と時間を理解している。後天的な経験によらず、先天的に与えられた才能をアプリオリという。すべての物質は時間と空間の中にあり、目に映るものは、感性によって経験し認識することができる。
「 物事には原因があって結果がある 」という因果関係を理解し認識することは、感性では、できない。感性だけではなく、アプリオリとして備わっている知性と合わせることで、可能となる。
人間は、感性と知性で構成される認識の枠によって、対象を見ているに過ぎない。
人間は、世界の存在物そのものを永遠に捉えられない。
人間が見ているのは、真の対象ではなく、認識の枠が捉えた現象である。
人間は、世界に存在している事物の真実の姿を、永遠に知ることはできない。
人間は、認識の枠組みで、対象の現象を認識しているだけである。
「 認識は対象に従って決定される 」のではなく「 対象は認識によって決定される 」
自然界に「 地球が太陽のまわりを回っている 」という自然法則がある。自然界に自然法則があるのだから、人間界にも同じような法則が存在するはずだ。
自然界には自然法則があり、人間界には道徳法則がある。
認識の枠によって事物を認識するのは頭脳の役割だから、純粋理性
道徳法則は、行為即ち実践に関する役割なので、実践理性
純粋理性は認識の枠によって認識する。
実践理性は道徳法則に従って人間を実行に移させる。
純粋理性に、知性があるように、実践理性では、自分の実行力に関して独自の行動原理がある。
行動原理は、信念と捉える。
信念は、学習を重ねていけば、道徳法則と一致する。人間が、勉強や学習によって自らの信念を高めていけば、自然法則について真実が見えてくるし、自分の有する信念も深まり道徳法則に近付く。
人間の実践理性が、権威や欲望に左右されず、自分の信念に従って行動するようになることを「 自律 」と定義した。
自律を達成したとき、人間の信念は道徳法則と一体になる。
自立した人間のことを人格と呼び、自律した人格が集まれば、理想社会が実現できる。理想社会を目的の王国と呼んでいる。
■ヘーゲル
「 すべての有限なるもの、永遠不変でない存在は、その内部に相容れない矛盾を抱えている。この矛盾はテーゼ ( 正 ) とアンチテーゼ ( 反 ) によって構成される。矛盾は静止したままでは止まらず、対立し運動を起こして、その存在はテーゼとアンチテーゼを綜合した新たな段階の存在となる。この新たな存在をジンテーゼ ( 正反合 ) と呼ぶ。そしてこの新たな段階の存在もまた、新しいテーゼ ( 正 ) とアンチテーゼ ( 反 ) を内包している」
■ベンサム
最大多数の最大幸福 = 功利主義
■ジョン・スチュアート・ミル
功利主義 → 質的功利主義
■ヘーゲル
歴史は人間が自由になるプロセスだ。
■ショーペンハウアー
歴史を動かしているのは、人間の盲目的な生への意志である。人間も動物なので、子孫を残すために生きる。生存競争が歴史を動かしているに過ぎない。人間の本質は意志にあり世界はその表象である。
■エンゲルス
哲学者たちは世界を様々に解釈したに過ぎない。
大切なことは世界を変えることである。
■ニーチェ
「 働いても働いても、どうしてこんなに貧しいのだろう 」と悩む人々にキリスト教は語りかける。「 あなたは貧しい。けれど天国に行くのはあなたたちだ。金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るのより難しいのだ。だからお金持ちのことなど気にするな。彼らは地獄に行くのだと思え。天国への道は貧しき者に開かれているのだよ。」
これはニーチェのいう「 奴隷道徳 」である。
キリスト教は、支配層や富裕層の圧政に苦しみ、彼らに対して貧困層が抱いているルサンチマンを巧みに利用し、天国を餌にする形で貧しき人々を信者にしている。貧しき人々は運命を甘受して神に身を任せてしまう受動的なニヒリズムに落ち込んでしまっているのだ。ニーチェによるキリスト教の批判である。
■フロイト
これまでの哲学者は、哲学を理性、人間の意識をベースにして構築してきた。いわば、人間が頭で考えたことだ。
フロイトは「 夢は無意識の表出であるが、その無意識の思考が、人間を動かしている 」と考えた。
哲学者は、理性で考えたことを言葉として、意識の世界を、精緻に論理化してきた。
フロイトは「 脳の意識されている領域ではなく、無意識の領域が人間を動かしている 」と主張した。
「 無意識の領域を動かしているのはリビドー ( 欲望 ) である」と述べた。
20世紀の哲学の世界
■ジャンポールサルトル
自由な人間が主体的に行動することで世界は変革できる。
→ アンガージュマン
歴史というものは、長い目で見たら進化する。
→ 進歩史観
■レヴィ=ストロース
変革の歴史で動いている西洋社会だけが、人類の社会ではない。
秩序だった近代国家だけが人間社会ではない。
サルトルのアンガージュマンに対して、レヴィ=ストロースは「 人間は社会に行動を規制されている 」と論証した。ソシュールは「 言葉が世界を分ける 」と説いたが、レヴィ=ストロースは、さらに一歩が進んで「 社会の構造が人間の意識を形作る 」と唱えた。
戦後の日本という社会が、現在の日本人をつくり、江戸時代という社会が江戸時代の日本人をつくったのだから、同じ日本人でも、全く異質である。それぞれの時代の構造が、それぞれの時代の日本人をつくったのであって「 どの時代にも通底する日本人の本質的は一切ない 」と言い切った。
自由な人間も、人間の主体的な行動も存在しない。
人間は社会の構造の中で、そこに染まって生きると、主張した。
常に進歩があるわけではない。先進国ばかりではなく、未開の社会もあるし、人間は社会に合わせて生きていくことしかできない。→構造主義
構造主義の本質は、方法論にあって、「 研究対象の構造、すなわち、構成要素を取り出し、その要素感の関係を整理統合することで研究対象を、理解しよう 」という試みである。
社会の構造が人間の意識をつくる。
完全に自由な人間なんていない。
おわりに
既に、自然科学も脳科学も、そして構造主義の論理も「 人間の意識は、自分たちの存在する社会のコピーであって、自由な人間の意志など存在しない」と断言している時代だ。それでも多くの人々は密かにつぶやいているのだ。
「 そんなことは信じたくないよ 」
刑法は、今でも過失と故意の2つに犯罪を分けて、刑罰の基準を定めている。しかし「人間の主体的な自由意志の存在は、ありえない 」と考えられている時代だ。それでも、刑法では「 過って 」とか「 意図的に 」とか「 犯罪行為を自由意志の存在を前提に峻別する 」という虚構の上に、その体系を構築している。
それは自由意志の存在を認めない場合に、犯罪をいかに裁けばいいのか、その知恵がまだつくれないからだ。「 人間が自由意志を持っている 」と考えたほうがわかりやすいからでもある。
結局、現在の人間社会は構造主義や自然科学、そして脳科学が到達した人間存在についての真実よりも、昔から主流であった本質主義的な概念、日常的な概念を上手に利用して虚構に立脚した上で社会の秩序を保っている。それは、人間の生きる知恵なのだ。
哲学も宗教も、人間が生きていくための知恵を探し出すことから出発した。
生きていくための知恵とは、不幸といかに向き合っていくかの知恵ともいえる。
不幸と呼ぶべきか、宿命と呼ぶべきか、人間は常に病気や老化や死と向き合って生きている。これらの避けられぬものと、いかに向き合って生きていくか。このことが数千年の歴史を通じて、いつも人間の眼前にあった。
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