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さびしい町


古井由吉氏の追悼集を通して松浦寿輝という詩人、作家を知った。
松浦氏の「わたしが行ったさびしい町」は異国、気まぐれな旅、エッセイ、作家というキーワードが当てはまる。
私はネイタルチャートで3室という文学、表現を司る部屋に太陽と水星があり、反転する海外、精神世界に関係する9室に木星と海王星が存在しているため、ストレートに心惹かれる内容であった。

著者は大学で教鞭に携わりつつ、詩や評論等を発表され、学会等の仕事も含めて実に多くの海外を訪れておられる。
そして、本書のタイトルにもなっているとおり、たまたまひょんなきっかけで通りすがりで訪れた町での出来事が情緒あふれる文体で綴られている。
私も旅はあまり計画的でなく、そのときどきの出会いに委ねる傾向があり、とても共感しながら読ませていただいた。


著者はさびしい町というのを以下のように語っている。
名所がある観光地でもなく、その土地で暮らす人がいて暮らしの息吹きのある町。

さびしい町というのは結局、どうということもないふつうの町のことらしいと改めて思い当たる。逆に言うなら、ふつうの町はどれもこれも多かれ少なかれさびしいもので、それはこのうつし世での生それじたいが本質的にさびしいからだろう。「窓に/うす明りのつく/人の世の淋しき」(西脇順三郎「旅人かへらず」 人は「人の世」のふつうの町で生きふつうの町で死んでゆく

わたしが行ったさびしい町より引用


ともかくわたしがここまで書き継いできたのは、自分の人生の「変哲もない一日」のこと、その積み重なりのことだった。そんな一日、そんな日々が過ぎていったことの背景に、これもまた同じように変哲もなかったあの町の風情、この町の空気があり、そうした風情の切れはし、空気の残り香が、そこからかなりの時間が経過した今、まなうらに揺らめく残像のように、あるいは肌をなぶる感触のように、ふと蘇ってくる。それだけのことなのだ。

わたしが行ったさびしい町より引用


変哲もない一日は、まさにその人における日常であり、旅におけるさまざまな出会いも非日常でありながらこの日常の延長線上であるのかもしれないとう意識に包まれていく。


さらに著者は、本書の最後のあたりで夢と記憶との関連性を考察されていた。私も夢日記を重ねており、夢と現実との共時性等には関心があるので興味深く読ませていただいた。
それぞれの人の心象風景は、当然ながらそれぞれの人のフィルターで色合い、濃淡がつけられ、同じような体験を通してもそのひとりひとりの心象風景はみな違っていく。
まさにひとりひとりのネイタルホロスコープが異なるように、ひとりひとりの心象風景は、その人のかけがえのない物語として育まれていくのだと思う。


わたしの過去はわたしの記憶という心象のうちにしかないという一時に尽きる。そして、心象でしかないという点に関するかぎり、それは眠っている間に見た夢の記憶とそう大した変わりはしないのだ。思い出と夢ー前者はほぼ間違いなく確実に実在したものをめぐる心象であり、後者は完全に非実在のものをめぐる心象であるが、心象でしかないという点では両者は等価である。結局わたしたちは、昨日見た夢を目覚めた後に思い起こすのとまったく同じように、かつて体験した過去を思い起こしているだけではないか。

わたしが行ったさびしい町より引用


本書の最後に松尾芭蕉の「野ざらしを心に風のしみ身かな」を引用され、
芭蕉が感じている「さびしさ」は、誰にも存在する普遍的なものであり、さびしさを通してこの世に生まれたことの意味が開示されていると語られていた。

古井由吉氏の晩年の闘病生活での日常や過去の思い出を情緒的に綴られたエッセイ「この道」と同じものが流れていると感じた。
「この道」は言うまでもなく松尾芭蕉の「この道や行人なしに秋の暮」からきている




住み慣れし街を離れし冬ざくら

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