仮の往生の伝についての試みの文
フォローさせていただいている星野廉さんが、吉井由吉氏の「仮往生伝試文」の「物に立たれて」という章を繰り返しさまざまな視点から考察される中、私もこの本を読みはじめてみた。
正直なところ今までになく不思議な文体でなかなか読み進めていない。
そうかといって、簡単に読むことを諦めてしまう気持ちにもなれない。
私は乱読であり、同時に2,3冊の本を平行して読んでいくタイプだが、「仮往生伝試文」はなかなか読み終えない。
全く読めないわけではないが、登場人物の主語が特定しにくく、古典や人からの言い伝えられた内容が多層的に展開するので、物語としてその意味を理解しようとするとそこで止まってしまう感じがある。
「仮往生伝試文」の最後の吉井氏の著者から読者へと佐々木中氏の解説を読んで改めて「物に立たれて」を読むと最初より少し近づいたような気がした。
いずれにしても私においてはかなりハードルが高い内容であるのは間違いなく、少しづつ味わっていこうと思う。
最近の星野さんの投稿の中で、この物に立たれてという内容が俳句と共通する要素があるという視点で考察されており、とても興味深く読ませていただいた。
俳句は五七五という言いたいことが言えない形式であるため、主語があいまいであるのは事実で、そういう意味でも主体と客体との境があいまいな傾向が強い。
そして俳句には切れがあることで、読み手にイメージを膨らませていく余白が生まれる。そして読み手をある意味裏切るような月並みでない展開という要素も重要である。
俳句も現実的な季語に託し、できるだけ写実的に表現するという視点においても、吉井氏の極めて目の前の描写が写実的であるという点も共通するものがある。
ものに託すことで、切れを通して立ち上がってくるものがあると感じている。
そういう視点で改めて吉井氏の「物に立たれて」を読むと日記形式で、十二月二日、三日と書かれてはいるが、その内容は、国内であったり、海外の街に場面が展開されたり、古典を引用されたり、夢や過去に遡った内容であったり、そこに連続性が一見内容に思われるが、俳句と同様にその異質な内容同士で切れが生まれ、そこに余白が生まれていくように思った。
星野さんの別の投稿でも吉井氏をコラージュと語られていたが、まさにそのような感じで色々な要素の文章が置かれているという感じ。
私は古典は読んできていないので、古典の引用の中に含まれているものがつかめていないが、その引用と日記の中に含まれるものとの響き合いがきっとあるに違いないと思うのである。
始まりと途中と終わりのあるものを、始まりと途中と終わりのないものとして読む(散文について・05)|星野廉 (note.com)
星野さんもその部分を以下のように適切に表現されている。
そうなんです。言葉として読めるものでありながら読めないという状態。
星野さんは直近の投稿の中で「夢と言葉、言葉と夢」という切り口からも考察されていた。
私も過去2年夢日記を重ねてきたが、夢のイメージを言葉で表現するという行為は、なかなかハードルが高い。
というのもそもそも夢そのものが混沌としたカオス状態であり、そのイメージは無意識の象徴とも言われている。
反面、その混沌としたイメージからどの要素をどのような言葉で表現するのかというプロセスもまたその人に問われている話で、何だか今回の吉井氏の文章にも重なるような感じがする。
以前に異国に暮らす作家という投稿で、小津夜景氏等海外で暮らす作家たちの異国語と日本語との境界が薄れていく中での詩や物語に関して考察した。
吉井氏もまたドイツ文学の翻訳のお仕事をされている中、物語やエッセイを書かれてきた。
まだ、私も吉井氏に関しては雲を掴むようでありながら、奇妙に惹かれていく感じで何とも言葉では表現しにくいが、夢の中で時間や場所を飛び越えて
生まれてくるイメージ、象徴と重なる感じがする。
今までの出会った作家のように一気に集中して読破はしていけそうもなく、またその必要もないと思うが吉井氏の「仮往生伝試文」以外に何冊か借りて少しづつ味わっていこうと思う。
難解な吉井由吉冬籠