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ニックネームは禿げ鼠。豊臣秀吉をざっくりまとめ~朝鮮出兵はボランティアで大ヒンシュク。5分で読めます

みなさん、わたしのnoteをご覧いただきまして、ありがとうございます😀

今更ですが、誰しも知っている豊臣秀吉についてまとめてみました。

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣 秀吉)は、戦国時代 - 安土桃山時代の日本の勇士、戦国の大君主です。

彼は天下統一の達成者であり、武家の政治リーダーであり、大天才としても知られています。また、三英傑の一人として称されます。

ざっくり天下人秀吉の人生


彼は織田信長の後を継いで全国を統一し、近代封建制度の基盤を築きました。 彼の幼少期には様々な伝説がありますが、明確には分かっていません。彼は木下藤吉郎として生まれ、後に尾張の戦国大名織田信長に仕えました。若くして織田家で有力な武将となり、羽柴と名乗るようになりました。信長の領土拡大に伴い、彼はさらなる功績を上げ、長浜、但馬国、播磨国を織田家の重臣として支配しました。

信長が中国攻めの最中に明智光秀によって暗殺された後、秀吉は急いで和睦し、京都に戻り、山崎の戦いで光秀を撃破しました(中国大返し)。さらに、織田政権の主導権争いに勝利したことで、自らの政権を確立しました(豊臣政権)。

秀吉は武士として初めて政治の最高位である関白となり、豊臣という姓を授かりました。朝廷の権威を背景に、彼は各地の戦国大名に臣従を要求し、小田原征伐で北条氏を降伏させ、全国統一を果たしました。

統一後に豊臣政権は太閤検地・刀狩令・石高制などの全国的な政策を推し進め、全国の蔵入地や鉱山収入で巨大な財力を手にします。豊臣政権は聚楽第・方広寺(京の大仏)・伏見城などの大規模建築の造営を行ったほか、秀吉は茶の湯・美術工芸・芸能を愛好し、その発展を促しました。秀吉治世下で発展した文化は桃山文化と呼ばれています。

晩年は明の征服を決意して朝鮮に出兵した(文禄・慶長の役)。その最中に実子秀頼が生まれたことで、後継と定めていた甥秀次を排除し、政権の再構築を余儀なくされます。しかしまもなく秀吉は病に倒れ、幼い秀頼を五大老・五奉行に託してこの世を去った。享年62歳。異説あり。

容姿と身体

身長 140cm代の説あり。衣服や甲冑より測定
血液型 O型 書状の血判による検査で判明。

猿面

「猿面の勇者」という言葉が称され、秀吉はその容姿から猿と揶揄されました。『太閤素生記』では、幼少期の秀吉を「猿」と呼称し、父の死後には秀吉に金を遺した際に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」と記されています。さらに、松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と述べています。毛利家の家臣である玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記述しています。秀吉を訪問した朝鮮使節は「秀吉は顔が小さく色黒で猿に似ている」と述べています(『懲毖録』)。ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と述べています。

また、秀吉自身も「皆が見るとおり、私は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、私の日本における成功を忘れるでないぞ」と話したと伝えられています。 秀吉が猿と呼ばれるようになったのは、関白に就任した後の落書「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」に由来するという説もあります。また、山王信仰(猿は日吉大社の使いとされる)を利用するため、「猿」という呼び名が捏造されたとも言われています。

禿げ鼠

織田信長筆仮名消息(重要美術品、個人蔵)。
ねね宛ての書状で、19行目に秀吉を指して「はげねすミ」(禿げ鼠)とある。

「禿げ鼠」の呼び名は、信長がねねへ宛てた書状の中で秀吉を叱責する際に「あの禿げ鼠」と書かれているものが現存している(現在は個人蔵)。
ただ、普段でもそう呼ばれていたかどうかは不明。

六本指

秀吉は指が1本多い多指症だったという記録がある(『フロイス日本史』)。右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」とも呼ばれていた(『国祖遺言』)。多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても生涯六指のままで、天下人になるまではその事実を隠すこともなかったという。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。現在では六指説を真説とする考えが有力であるが、このことに触れない秀吉の伝記は多い

死因

様々な説が唱えられており、脳梅毒大腸癌、痢病(赤痢・疫痢の類)、尿毒症脚気腎虚感冒(そのため藤堂高虎と同様に桔梗湯を処方された)などがある。50代後半頃からは、老衰のためか無意識のうちに失禁したこともあったと記録されている。沈惟敬による毒殺説もある。

なお同時代人には「秀吉公は、善光寺如来を方広寺大仏殿へ遷座したことによる祟りで落命された」と認識されていたことは既述の通りである。

逸話


人の心を掴む天才とされており、「人たらし」と称せられる。度量の大きさでも知られ、九州の役において降伏した島津義久に対し、丸腰の義久に自らの佩刀を与え、また小田原征伐で遅参した伊達政宗に佩刀を預け石垣山の崖上で二人きりになった。両名とも隙だらけでありながら秀吉の度量に気を呑まれ斬りつけることは出来なかったという。

他にも小牧・長久手の戦いの後に上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら翌日の拝謁の打ち合わせをした。また家康の片腕であり秀吉との折衝役であった石川数正が出奔した際、自らの配下とした。

賤ヶ岳の戦いの最中、熱暑に苦しむ負傷兵に秀吉は農家から大量の菅笠を買い敵味方の区別なく被せて回り、「誠に天下を治め給うほどの大将はかく御心の付き給うものかな」とも評価される(『賤ヶ岳合戦記』)。また賤ヶ岳の戦い後、小早川隆景に書状で「無精者は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命を助け領地も与える」と報じている。ほかにも関白就任後、秀吉が可愛がっていた鶴が飼育係の不注意から飛んで逃げた。飼育係は、打ち首覚悟で秀吉に隠さずに報告したが、「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい」と笑って許したという(『名将言行録』)。

小田原征伐の際、鎌倉の鶴岡八幡宮の白旗の宮を訪ね、源頼朝の木像に向かい「小身から四海を平定し天下を手中にしたのは貴方とこのわしだけであり、我らは天下友達である。しかし貴方は御門(みかど)の御後胤で、父祖は東国の守護であり、故に流人の身から挙兵しても多くの者が従った。わしは、元々は卑賤の出で、氏も系図もない男だ。だからこのように天下を平定したことは、貴方よりわしの功が優れている」と木像の肩を叩きながら言ったという(『川角太閤記』)。

以外に残虐行為もしていた

秀吉は「大気者」だったともいわれているが、狭量な面もあり、世評を気にした。北野大茶会や華美な軍装などの人々の評判が上がる行為を頻繁に行った。一方、聚楽第に自身を非難する落書が書かれた際は、犯人を探索し7人を鼻削ぎ耳切りにした上で倒磔に処したのち、老若男女63人を磔、最終的には130人に刑罰を下している(『鹿苑日録』)。

人を殺すことを嫌う人物とされる秀吉であるが、実際には元亀2年(1571年)に湖北一向一揆を殲滅したり(『松下文書』『信長公記』)、天正5年(1577年)に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、子供は串刺しに、女は磔にして200人以上処刑している(同年12月5日の羽柴秀吉書状)。

母親思い

母・大政所への孝養で知られる。小牧・長久手の戦いの後、家康を上洛させるため母と妹を人質として家康に差し出したが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させている。天下人としての多忙な日々の中でも、正室・北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出している。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、臨終には間に合わず、ショックのあまり卒倒し、しばらくはまともに喋ることもできなかった。大政所の三回忌では「なき人の形見の髪を手に触れ包むに余る涙悲しも」という句を詠んでいる。

戦国大名は主君と臣下の男色(衆道)を武士の嗜みとしていたが、武士出身ではない秀吉は衆道への関心がなかった。当時比類なき美少年と評判だった小姓の羽柴長吉に対しても「お前に姉か妹はいるか?」と聞いただけだったと言われる(『老人雑話』 )。

ルイス・フロイスは、秀吉の外見以外については、下記のように記録しています。

・優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。
・極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。
・抜け目なき策略家であった。
・彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くこと
・長じているのを自慢としていた。
・ほとんど全ての者を汝(うぬ)、彼奴(きゃつ)呼ばわりした。
などと記しています。

上杉謙信と対決するために北陸へ出兵した際、軍議で大将の柴田勝家に反発し、勝手に領地へ引き上げ、この無断撤退は信長の怒りを買った。また中国攻めでも、宇喜多直家の寝返り・所領安堵を信長の許可なく勝手に認めてしまい、再び信長に怒られている。

秀吉の国内政策

朝臣体制
秀吉は天皇・朝廷の権威を自身の支配のために利用したというのが定説です。

秀吉は関白の地位を得ると、諸大名に天皇への臣従を誓わせることによって、彼らを実質的に自分の家臣とした。織田家との主従関係はこれによって逆転しています。また、天皇の名を使って惣無事令などの政策を実行し、これに従っていないということを理由として九州や関東以北を征服するなど、戦いの大義名分作りに利用します。これらの手法は、かつて織田信長が足利義昭の将軍としての権威をさまざまに利用したことや、義昭と対立した際に朝廷と接近したことと共通するものです。

さらに秀吉は、関白としての支配を強固にするため、本来は公家のものであった朝廷の官位を自身の配下たちに次々と与え、天皇を頂点とした体制に組み入れた。この方策・体制は「武家関白制」などと呼ばれています。

日本統治のシステム

豊臣秀吉は、大名同士の私闘を禁止するために「惣無事令」を発令しました。また、僧侶や農民などの武器所持を放棄させるために「刀狩令」を全国的に実施し、私的な武力行使を抑制するための「喧嘩停止令」や海賊行為を防止するための「海賊停止令」も発布されました。

これらの措置は、「豊臣平和令」と総称されることもあります。なお、これらの私的な武力抗争の抑止は、関白としての立場から、天皇の命令(勅定)に基づく私闘禁止(天下静謐)を指示する形で行われました。 また、地方ごとに標準の尺を統一し、全国的な土地調査が行われました。これを「太閤検地」と呼びます。

同時に、日本全国の税制も「石高制」に統一され、国家予算の算定と税制の定められました。さらに、楽市楽座や関所の廃止なども進められ、全国的に展開されました。また、兵士と農民の区別を明確化する「兵農分離」や、百姓の逃亡を禁止する措置、朱印船貿易、貨幣の鋳造なども取り組まれました。

後世の評価


江戸時代の評価

江戸時代においては、公には秀吉の神格化は否定されていたが、民間では豊国大明神を起請文の対象とするなど、一種の秀吉信仰も残存していました。 小瀬甫庵の『太閤記』は広く愛読されています。元禄6年(1693年)に発禁処置となったが、宝永年間(1704年 - 1711年)には広く出版されており、早いうちにこの措置は解除されたものとみられます。

寛政から享和年間に刊行された読本『絵本太閤記』は庶民の間で大流行し、現代まで一般に知られる秀吉像を形成する大きな役割を果たし、これを翻案した浄瑠璃・歌舞伎の『絵本太功記』は人気演目の一つに。『絵本太閤記』は文化元年(1804年)6月に発禁措置となり、これを受けて『太閤記』も発禁となり、安政6年(1859年)に解除されるまで続きます。

朝鮮出兵については無謀な義のない戦であると林守勝や貝原益軒などの儒学者からは批判されますが。一方で軍学者の山鹿素行や国学者本居宣長は神功皇后以来の壮挙であると高く評価しています。頼山陽は秀吉が明による冊封を拒絶したことは尊王の志によるものであると評価し、勤王家としての秀吉像が幕末に広まることに。吉田松陰も秀吉を国外に武威を示したと高く評価し、通商容認派の儒学者である大槻磐渓でさえも朝鮮出兵を高く評価していました。また一般でも『絵本太閤記』では日本側の勇戦が強調され、近松門左衛門の『本朝三国志』では、「加藤正清」が遼東大王(朝鮮国王)を捕らえ、大王が命乞いをする場面が描かれるなど、朝鮮出兵が負け戦であるという認識は持たれませんでした。

近代の評価

慶応4年(1868年)閏4月、明治天皇は大阪に行幸した際に、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお彼を寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であるとして、秀吉を祀る社檀の造営を命じる御沙汰書が下され、同年5月には、秀吉の社に鳥羽・伏見の戦いでの新政府軍の戦死者を合祀するよう命じられた。明治8年(1875年)には、京都東山に豊国神社が再興されるなど明治政府からの顕彰が行われた[217]。また、大正4年(1915年)には秀吉に正一位の贈位が行われたが、この際には国家の平定、対外的な国威発揚、聚楽第行幸の際などの皇室への尊崇などが評価されています。

現代の評価

近現代にも秀吉を題材とした小説・映画などは数多く、それらフィクションで描かれる秀吉像は、武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされることが多かった。NHK大河ドラマでは秀吉が単独の主役となったのは1965年の『太閤記』と1996年の『秀吉』の2作品です。『秀吉』での竹中直人演じる秀吉はこうしたイメージに近く、下品で野蛮な振る舞いをしながらも他人を出し抜き、出世後は華やかに明るく振る舞う姿が描かれています。一方で2014年の『軍師官兵衛』で竹中が演じた秀吉は、老いて醜悪となった秀吉像が描かれていました。

2016年の『真田丸』で小日向文世が演じた秀吉は気さくで明るい人物でありながら、政治的には利己的で冷徹な判断を下す二面的な人物として描かれ、2020年の『麒麟がくる』で佐々木蔵之介が演じた秀吉は底知れぬ欲を隠し持つような狡猾な男でありつつ、ひょうきんな態度で周囲の人を魅了するといったように、二面性を持った人物として描かれています。

海外の評価

朝鮮半島・中国大陸では侵略者として否定的な印象を持たれているようです。当時の中国や朝鮮の史書では、秀吉が中国出身者だったという説が書かれたものがいくつかありますが、これは日本に滞在していた中国人らが広めたものと見られています。

制度

豊臣政権が成立した天正10年頃から、政権及び家政を司る奉行人組織が生まれた。この時期には前田玄以浅野長政石田三成増田長盛長束正家片桐且元富田一白らの奉行衆や、蜂須賀正勝黒田孝高小西行長らの城主が奉行として文書を発給しています。

『太閤記』には関白就任とともに五奉行の職制が定められたとされるが、事実とは見られていません。秀次の切腹後には、「御掟」と「御掟追加」が発せられ、徳川家康前田利家上杉景勝宇喜多秀家毛利輝元小早川隆景がこれに署名しています。この6名の有力大名は、小早川の没後の状態から「五大老」と呼ばれている。通説では「五大老」が秀吉没後の豊臣政権の最高意思決定機関であり、「五奉行」がその執行機関であると考えられてきました。

秀吉の遺言には、五人の「年寄」が、豊臣家の財政を司ることが記述されており、「年寄」に対してこの遺言を守るよう命じられています。

従来は「年寄」は「五大老」を指すとされていたが、遺言では「年寄」が家康と利家に相談するよう書かれており、この文書では「五奉行」を指すとされています。また関ヶ原の戦い直前に出された「内府違いの条々」では、「五人之御奉行五人之年寄共」という記述があり、「年寄」のうち二人が押し込められたという記述があります。これに該当するのはいわゆる「五奉行」の石田三成と浅井長政であり、これらの書類では「年寄衆」が三成らの奉行人、「御奉行」が家康ら有力大名を指すとみらます。

一方で、一部の同時代史料には前田玄以・増田長盛らを指して奉行としているものもある。三鬼清一郎は奉行と年寄の語が明確に分けられていくのは寛永期以降であると指摘し、同時代的には用語の区別が明確に意識されていたとはいえないとしています。

制度

五大老
徳川家康前田利家上杉景勝宇喜多秀家毛利輝元小早川隆景前田利長(利家死後)

三中老
生駒親正中村一氏堀尾吉晴

五奉行
前田玄以(筆頭)、浅野長政石田三成増田長盛長束正家、(宮部継潤富田一白

十人衆
一白
寺西正勝毛利吉成堀田一継佐々行政石田正澄片桐貞隆石川光元山中長俊木下延重

両兵衛
竹中重治黒田孝高

一門衆
豊臣秀長豊臣秀次豊臣秀勝豊臣秀保小早川秀秋宇喜多秀家木下家定杉原家次、浅野長政、木下勝俊青木一矩杉原長房

賤ヶ岳の七本槍
福島正則加藤清正加藤嘉明脇坂安治平野長泰糟屋武則片桐且元、(桜井家一石川一光
七将
福島正則、加藤清正、池田輝政細川忠興浅野幸長加藤嘉明黒田長政、(藤堂高虎蜂須賀家政

与力衆
宮部継潤一柳直末田中吉政木村定重小出吉政亀井茲矩谷衛友寺沢広高新庄直頼斎村政広別所重宗

信長親族
織田秀信織田信包織田長益織田信秀織田信高

辞世の句

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」。


参考資料
Wikipedia
各、秀吉にまつわる書籍。

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