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『誰のために法は生まれた(木庭顕著)』を読む

 著者のことは知らず、タイトルに惹かれ購入した。内容は、著者と学生による問答の形式をとっており、非常に読みやすい。

 それも、『自転車泥棒』や『近松物語』など映画や戯曲の古典作品を生徒に事前に見てもらい、そこで感じ取ったことや考えられることなどを著者が生徒から引き出し、最終的には、法とは誰のために何のためにあるということに結びつける。

 この著作を読んでいるときに並行して、クリントイーストウッド監督の最新作『リチャードジュエル』を見ていた。するとまさに、リチャードジュエルも、個人と法の問題を扱う作品であった。

 法とは何のためにあるのか、誰のためにあるのか、ネタバレになってしまうので、ここでは詳細は述べないが、少なくとも法は、国民を統制するための懲罰やルールのようなものではない。

 私が最も感銘を受けたのが、この著者が、法と国家、そして宗教と自由という問題を扱ううえで参照になる最上のテクストとして、福岡安都子氏の『国家・教会・自由~スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗~』を挙げていたことだ。

宗教に固有の絶対的最終論拠を政治システムが接収してしまうという構想が一つあります。ホッブズのものです。教養をめぐって人々が争う、その争いから徒党が跋扈して政治システムが成り立たないことをこそ最も警戒するという考え方です。しかしそういうホッブズの構想を批判して、決定的な省察をしたのがスピノザでした。・・・徹底的に個人が自らの省察を完遂する、この自由こそが初めて宗教の問題を解決する・・国家ではダメで、政治システムは自由な議論なんだ、しかもひとりひとりを尊重するデモクラシー段階の議論なんだ、というわけです・・・個人の精神的自由と政教分離がどのような理論構造の中に置かれているのか、スピノザに則して初めて解明されたとも言うことができます・・・アメリカ型、いや近代的な政教分離と信教の自由のセット自体、個人を犠牲にする問題に対して弱いですし、理論的に曖昧さを含んでいます。スピノザが如何に偉大かということです。

『誰のために法は生まれた』木庭顕

 最新のスピノザ研究においては、スピノザは言論の自由について唱えた初めての哲学者、デモクラシー思想の先駆者という位置付けであり、定着を見せている。しかしそのことが、著者のような法学界にも及んでいるということは知らなかった。

 やはりラディカルな思想は、どの業界においても古典としてありうるのだということを知ることができたのであった。

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