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「煙‐けむり‐」の文化人類学 無為から豊かさを生む、呪術的なものとしての煙 

 煙草の先から燻る煙を、「らりるれろ」という形をしながら立ち昇っていくと表現したのは若い頃の中上健次だったか、村上龍だったか、とにかく美しい表現だと思った。書き言葉を主体とする小説ならではの表現である。

 煙草は、文学や映画のような芸術表現において欠かせないアイテムである。私も小説を書いていたからわかるのだが、登場人物たちの言葉にできない感情を表現するうえで、煙草を吸わせることは打ち出の小槌のようなものなのだ。悪く言えば、煙草に逃げている、ともいえるかもしれない。

 主人公の苛立ち、憤り、焦燥、虚しさ、漲る思い、高揚感、深い悲しみ、挑発的な思い、これらはみな、煙草で表現できるのである。たとえば、「男は荒々しく煙を吐き出した」「女は唇を尖らせながら煙を吹いた」といったように。

 あるいは、誰に吸わせるかでもバリエーションが増える。若い無謀さを持った男性か、普段はまじめだけど、少しやさぐれてみたいと思っている男性か、スマートで頭の切れる女性か、暴力性の匂いがぷんぷんするヤクザ者か。

 これは映画も同様であろう。映画と煙草は切り離せない、といってもいいくらいではないだろうか。例えば名作『ローマの休日』『ティファニーで朝食を』のオードリー・ヘプバーンも、コミカルに煙草を吸うシーンが印象的である。

 デンマーク出身のフランス女優、アンナ・カリーナは、巨匠ジャン・リュック・ゴダールの初期映画のヒロインとして欠かせない存在であったが、『女と男のいる舗道』『気狂いピエロ』などでは、コーヒーを飲むのと同じように当たり前のようにして、煙草を吸っている。

 煙草を吸っている男とキスをして、男の煙をカリーナが吐き出すというシーンがあるのだが、この「煙リレー」、若い頃の私は、同じようなことをしてみたいと憧れていたものだ(笑)。

 女性が煙草を吸うというのは、どこか不良っぽさ、小悪魔的な印象を抱かせるのであり、演出として不可欠なもののように思える。むろん男性においても同様である。ギャング映画、クライム映画・・松田優作のくわえ煙草は男ならだれもが痺れるのではないだろうか。
 
 このように、芸術表現において欠かせない煙草は、日本の落語においても重要なアイテムとして登場する。古典落語にはキセルでの喫煙が主題になっているものが多くみられる。『あくび指南』はよく知られた噺の一つだが、この噺の中でも、師匠が弟子にあくびを指南するというので、そのお手本をみせるときに、キセルに見立てた扇子を手に、煙が糸のようにのぼっていくさまを想像しながら「舟もいいが…一日(いちんち)乗ってると、退屈(てえくつ)で…退屈で…」と、最後に大あくび、というシーンがある。

 歌舞伎においても同様だ。役者の心理状態を表現したり、というのは映画と同じだが、歌舞伎においては、役者が間合いを取ったり、重要な身振りや仕草、セリフの筋目の合図だったりと、煙草が重要な小道具として使われる。

 その昔、「たばこは生活の句読点」というキャッチコピーがあったのだという。確かにそれはその通りで、喫煙者においては今も、仕事と仕事の合間、あるいは何か大きな達成感を得たあとの合間に、「区切り」として「小休止」として煙草を吸うということがある。

 煙草が生活の句読点というのは言い得て妙で、生活というものが一つの文章、メロディであるならば、煙草は心地よいリズムを作り出すための句読点、休符のような役割を持っているといえる。

 まずは煙草だけに限って、映画や日本の伝統芸能などの芸術領域における煙の役割を見てきたが、それは人間の感情、心理といった形ないものを、何か感情がうごめいているかのように、心の葛藤があるかのように表象するものとして「煙」は使われてきた。

 このことはたんなる心理描写にとどまらず、その煙を燻らせている、煙草をくわえているという身体的描写もまた、見る者(読む者)に、かっこいい、クールだ、ワイルドだ、タフだ、ずる賢そうだという印象といった視覚情報も与えているのである。

 こうしてみると、煙、あるいは煙草、といったものには、どこか魔法の杖のような「呪術的」な要素があることがわかる。

 呪術とは、現代科学からはかけ離れた、超自然的な方法によって意図的に現象を起こすものだとされるが、そもそも煙草というもの自体、喫煙自体が非合理的なものなのであり、とりわけ現代においては、煙草に向けられている一般生活者(消費者)からの目は厳しく、喫煙者は肩身の狭い思いさえしている。

 しかしそれでもこの非合理的な「商品」が、合理性を極めている(ようにみえる)資本主義経済の市場に出回り、交換、売買されていることも、考えてみれば不思議なことである。煙草のような嗜好品の交換は、それ自体が呪術的であるという面白い論文がある(参照:『人は嗜好品を介して何を交換しているのか』太田心平)。

 まさにこの論文のタイトル通り、煙草のような嗜好品を介して、われわれは一体何を交換しているのか?なのである。哲学者の國分功一郎氏は、『嗜好品を「人生に必要」で、「毒」にもなるものと表現している』と、森鴎外の小説『藤棚』の言葉を引用している。國分功一郎が警鐘を鳴らすのは、行き過ぎた合理主義的な世界であり、それが現代人の生活サイクルにも及んでいるということである。

みんなお酒も飲まない、タバコも吸わない、甘いものも食べない。それでいて狭苦しいジムに行き、ずっと止まらない機械の上をラットのように走っている。あの姿はどこか止まることなく消費を続ける消費社会のアレゴリー(寓意)にも思えます。修行僧のように健康になり、体型を維持し、汗をかくことが、ステータスシンボルになっている。19世紀から20世紀の頭にかけては、資本家はだいたい太っていて、お腹が出ていることは裕福の象徴でしたが、いまは肥満が貧困の象徴になっていますよね。エグゼクティブはみんなジムで鍛えて、スラッとしている。そうした流れの中で、嗜好品はどんどん肩身が狭くなっています。

嗜好品は思考に不可欠な「孤独」を生み出す』より

 この合理性を究めたところに何が待ち受けているかというと、生きることの息苦しさに他ならない。一部のエグゼクティブは、合理的に金を稼ぎ、経済を回し、身体面・健康面、休暇の過ごし方といった時間の使い方も含めての合理主義、健康第一主義を徹底し、それらの価値観こそ優れた人生観であるかのように考えている節があるが、それらの価値観は思考や志向の一律化をもたらし、自動機械化した世界へと進んでいるように思えてならない。まさに「ずっと止まらない機械の上をラットのように走っている」ような生活世界である。

そうなったときに、人類の幸福はどこにあるのでしょう。人間の人間らしさには、ある種の野蛮さが含まれていると思うのですが、みんながそれを消し去っていこうと、ピューリタン的になっている。この状況を打開するためにも、嗜好品のようなものの価値が、再び理解されていかないといけないと思うんですよ。人がストレスをやり過ごすために何かを必要とするということは、当たり前で自然なことです。そうした余裕がある生活を取り戻していきたいと思っています。

嗜好品は思考に不可欠な「孤独」を生み出す』より

 煙草や酒のような嗜好品が交換しているものとは、非合理的なものではあるのだが、無為なもののように思える時間を、豊かにみせる、思わせる、といった仕掛けである。煙草にも酒にも、そのような「無為」と「見せかけの豊かさ(悦楽)」が併存している。しかし、この「無為なる豊かさ」を作り上げることが、現代人においてはますます必要であり、それこそが人間らしさを確保することなのだと、國分氏は言うわけである。

 煙草や酒をなくした世界に、映画や文学というクリエイティブな世界はありえるのだろうかということは、愛煙家、愛酒家である私も、あえてそう問うてみたい。

 この、「無為なる豊かさ」を生み出す煙草、それは「ない」ものを「ある」かのように見せるという点で、呪術的である。とりわけ、煙は、表現において形ないものをあるかのように見せる、意味のなさそうな時間を豊かなものであるかのように思わせるという点で、その呪術性はアルコールや紅茶といった他の嗜好品よりも際立っている。

 何よりも、この「煙」という現象自体が、それ自体が呪術的、神聖的な何かなのである。そのことを、われわれは日常生活と対比される非日常的な空間・時間において体験している。

 葬儀がそれである。葬儀は、死者との別れの儀式である。その際に、お焼香をあげる。お焼香とは香を焚き、故人や仏を拝む作法のことであるが、お焼香の香りは仏の食べ物であるとされ、故人や仏に食事を楽しんでもらい、仏への敬意を表すという意味がある。邪念を清めるという意味もあるが、故人を浄土へ導くという意味もある。香の煙が立ち上る様子は、よい香りがあの世へ導いてくれるものと考えられている。

 死者はもうこの世にはいない。この世の人間とは言葉を通わせることができない。しかし、お焼香における煙によって、現生の人間とあの世の故人とのコミュニケーションを媒介するのだ。このような発想は、古代の人類社会からすでにみられる。仏教の場合は、現生の人間と死者をつなぐものであるが、世界各地において煙は神とコミュニケーションをするための媒介物であると考えられている。

 たとえば、メキシコのマヤ人の社会では、宗教儀礼で使われるろうそくの煙は、祈りの言葉を天の神に伝えるといわれている。あるいはシャーマンが恍惚状態に入るときに煙がしばしば用いられる。煙がシャーマンを忘我状態に導き、神や精霊を呼び寄せ、神霊との交流をもたらすとされる。

 アメリカ大陸では煙草の煙がよく用いられる。ブラジルのボロロ人は、トウモロコシの収穫祭のとき呪医(じゅい)が踊ったり歌いながら煙草を何本ものみ、陶酔状態になる。北アメリカの多くの先住民の間で、神や精霊に対して煙草の煙を捧げたり、猟の前に煙草の煙で動物霊を慰撫(いぶ)する。
 コマンチの人々は煙草の煙を大精霊と太陽に捧げる。ブラックフットの人々は、煙草の煙の形で自分の守護霊を知る。

 煙草は敵となる民族との戦いなどの儀式においても欠かすことのできないものであった。煙は神託をもたらすものとして、火にくべて炎の動きや煙の形から、戦いの勝敗、未来や吉凶を占ったりもしていたのだという。戦争や紛争のあと和解するときにも、しばしば喫煙が行われたそうだ。

 煙草の煙は、煙が天と地を媒介するもの、つまり、神や霊的世界と人間やこの世とを媒介し、両者の交流、通信を可能にするものとして用いられてきた。煙が天へ昇る性質が、そのような発想、インスピレーションを人間に与えたのだと考えられる。

 その他、煙における実用的、医療的利用としては、実用面では、害虫を追い払ったり、狩猟動物を穴や、やぶから追い出すために使われ、医療的利用としては、悪霊に取り憑かれた病人を治すため煙で悪霊をいぶり出すなどの行為がみられる。南北アメリカ大陸では、シャーマンが煙草の煙を患者に吹きかけて病気を治すことが多い。

 東南アジアの各地に、産婦に煙をかけて清め、悪霊を払う習俗がみられる。日本においても、狐や犬神などに憑かれたとき、松葉やトウガラシや硫黄を燃やして憑き物を落とす。お寺にいったとき、煙で体を清めるということは今でも行われている。

「煙」は古来より、人類において、神と通ずるための神聖な儀式など宗教的なものとしての使用のみならず、害虫や獣を追い払うな、つきものを払うなどの実用的な側面があった。他にもまだある。忘れてはならないのは、食材を煙で燻すという「燻製」の技術だ。燻製は食材の腐敗を防ぎ、保存食として長持ちさせる効果をもつ。人類の知恵としてずっと受け継がれてきているものである。

 そして煙草は、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達した際に原住民から受け取り、スペインに持ち帰ったことでヨーロッパに嗜好品として急速に広まったといわれる。当初は観賞用や薬草として扱われてたが、やがてインディアンがそうしていたように、喫煙の習慣が広がった。日本には16世紀半ばにポルトガル人が「鉄砲」とともに持ち込み、江戸時代に喫煙習慣が広まったのだという。

 こうして、「煙」の役割は、宗教的な側面、実用的な側面から、煙自体を嗜むという娯楽的な側面としての広がりをみせていく。商業的なものとしても大きく、煙草は一気にグローバルな巨大産業となった。

 昨今のわれわれは宗教的意識の希薄さ、喫煙行為自体への嫌悪、排除といった点から、煙を「無いもの」であるかのように扱う、あるいは「見えない」ものにしようという潮流があるように思えてならないが、これら「煙」が持つ神聖性、呪術性の効用をあなどってはならない。

 過度な合理主義の徹底、合理的なものしか認めようとしない価値観は、この非合理的なものに足元をすくわれてしまうのである。なぜなら、人間自体が合理的な存在からは程遠く、きわめて非合理的なものによって突き動かされている存在だからである。
 
 煙はまさにそのような非合理的なものとしてあるが、非日常を作り上げることによって、生きるというサイクルにおいての句読点、小休止の役割を持つ。葬儀における宗教的側面としての煙の使われ方もまた、日常から非日常との懸け橋となり、死者と交流し、弔うという点で、故人との関りの句読点としても捉えられるだろう。

 喫煙(嗜好品)に関していえば、煙がつくりだす句読点としての時間。無為なる豊かさとしての時間という効用が認められる。たとえそれが、刹那的なまやかしにすぎなかったとしても、われわれはそれを必要としてしまうのだし、窮屈な人生の余白をつくるという意味でも、必要とすべきものなのである。


参照資料
・『たばこの歴史・文化』ホームページ
・『煙草と塩の博物館』ホームページ
デジタル大辞泉など各辞典の「煙」の用語解説


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