『哲学者たちのワンダーランド~様相の十七世紀~(上野修著)』スピノザ関連書籍の紹介#3
著者である上野修氏は、現在のスピノザ研究の第一人者である。岩波書店から刊行されている新訳『スピノザ全集』の編者であり、スピノザ協会の代表を務める(2024年現在)。
上野修によるスピノザ入門書は、國分功一郎と同じく講談社現代新書より『スピノザの世界』が出ているが、個人的には、より面白くよりスピノザ哲学の理解が進むのは、本書『哲学者たちのワンダーランド』の方である。
スピノザだけではなく、同時代の大哲学者、デカルト、ホッブズ、ライプニッツについてもあわせて論じられているため、それぞれの思想の特性や差異が明確になるのである。
ホワイトヘッドは十七世紀を「天才たちの世紀」と名付けた。十七世紀はヨーロッパにおける近代思想の夜明けともいうべき時代である。微分積分のアイザック・ニュートン、天文学におけるガリレオ・ガリレイ、地動説を理論づけたヨハネス・ケプラーといった人らによる「科学革命」が起きたのもこの頃であるし、三十年戦争を経て、ウェストファリア条約により「主権国家」という近代的概念が形成され、次の時代の産業革命と市民革命を準備した、中世から近代への転換期であるともいわれている。
だが、上野修は本章の序章において、この時代を「世界の底が抜けた時代」と表現する。どういうことか。
世界が「どこにも中心のない無限宇宙」になる、というのは十六世紀の神学者ジョルダーノ・ブルーノを想起させるが、この無限という考え方自体が、当時の西洋社会においていかに危険思想であり、異端なものとしてあったかは、ブルーノ自身が火炙りの刑にされてしまったことからもわかる。
だが、そんな「無限」が、あちらこちらで口を開き始めたのが、この十七世紀なのだという。
当然、これら底の抜けた無限の思想は、世間から危険視されていた。
そのことについては、以下の記事の中でも触れているが、彼らは何も体制や宗教を否定していたというわけではない。スピノザは教会権力から危険人物扱いされていたが、彼自身はキリスト教もイエス・キリストも肯定しているのだ。
しかし、本当の問題は「誰」が体制や宗教を脅かす存在であるか、ということではないと上野修は言う。問題は、彼らとともに出現した「無限の脅威」にある。ライプニッツはそのことがよくわかっていた。
そう、ライプニッツは彼らの「無限」を封印し、世界を修復させることを試みていたのだ。
このイントロダクションにより、本書『哲学者たちのワンダーランド』は幕を開ける。次いで無限の思想を解き放ってしまったデカルト、スピノザ、ホッブズらのそれぞれの思想に触れ、そしてライプニッツの修復は果たして成功したのか、というところで本書は終わる。このストーリーを読めば、まさに十七世紀における、これら「無限」の知性がどのような様相であったのか、その解像度が高まる。上野修が結論する内容もスリリングなので、そこについてはぜひ本書を読んでほしい。
ところで、デカルトと異なり、スピノザの哲学を特性づけているのはなんといっても「神即自然」のテーゼである。哲学の王道は「私」が「世界」を問うことにあるが、スピノザ哲学においては、「私」あるいは「個人」という「主体」が見えてこない。ヘーゲルはスピノザ哲学には主体がないと否定的に論じていた。
しかしスピノザは、かつてライプニッツにこう明確に告げている。
「世間一般の哲学は被造物から始め、デカルトは精神から始め、私は神から始める」のだと。(『エチカ(上)岩波文庫』)
このことは、スピノザ思想に触れればわかるように、彼にとって人間や個人という存在(被造物)が、神の一部、あるいは局所的な位相でしないということを意味する。考える主体があるとすれば、それは人間が考えるのではなく、神が考え、神が思惟しているのである。
とはいえ、この「神」という表現がまた、ことをややこしくさせているのだと上野修は言う。スピノザが示す神とは、人格神でもなければ、意思を持つ存在でもないので、主体とすらみなされないし、みなしてはいけない。スピノザにとっての神とは、「自然」の別の表現に他ならず、現代風に置き換えるのであれば、「現実」そのもの、あるいは「世界」そのものといって差し支えないだろう。私は「世界」という表現の方がしっくりくるのだが、この場合の「世界」というのは、万物の生成そのものを意味しているのであって、世界=社会でもないし、世界=地球でも、宇宙でもない。
本書でも、スピノザ紹介の第8章「私ではなく無頭の神が・・・」において、このあたりのことを触れている。
「思考が勝手に考える」とは何か。ここは、だいぶ躓いてしまいそうなポイントである。われわれはあまりにも、<自己>であるとか、<私>であるとか、そういった概念に染まり過ぎてしまっているからである。
(國分功一郎はスピノザを読むときはOSを変えないといけない、と言っていた)
スピノザのこのスキャンダラスなテーゼについて、私の力で詳細を論じることはかなりの困難だし、詳しくはぜひ本書を読んで頂きたいのだが、スピノザという人は、どうやら、自己とか私とか人間の精神に対しての絶対性を認めていなかったということはわかる。認めないどころか、眼中にも置いていなかったのかもしれない。
当然ながら、あらゆる人間、あらゆる生命、あらゆる物質は、さまざまな事象、さまざまな他者との諸関係のうちにおいて存在している。それなしに存在することができない。
スピノザは一人の人間の「自然権」(人間が生まれながらにもっている権利)など、無力であると言っていた。自然権は他者との関係性においてはじめて意味を持つのであり、他者との共和、協調において増幅するのだから、人間がよりよく生きていく上では、他者との調和は大前提であるのだと。そのような前提から、スピノザは国家が成立することの必然性を論じるのであって、そのことからも、スピノザは人間を個であるとか、私であるとかという単位でみていなかったことがわかる。
どんな人間も、生命も、物質も、現象も、すべては神=世界なのだということであるから、人間の思考が存在するのは、思考を生み出す身体があり、その身体は、生物学的な他者と他者との性の営みにおいて産出され、さまざまな環境下において育まれ、あらゆる別の生命を食すことによってエネルギーに変え成長する。その身体の成長とともに精神も形成され、私という自我が芽生え、世の中を思考する機能が備わり、だがその思考もいろんな場面でいろんな状況で、いろんな感情に左右され、他者の影響でいろいろと変容し・・・と無限に遡行できてしまうくらいに、あらゆる因果関係において成立しているものなのだ。
論理的な部分は端折るが、世界とはそのような因果関係そのものの意であり、私とか個人とか、あるいは人間とか個々の生命とかいう「区分」は、人間が局所的に切り出し、そう名付けている「概念」にすぎない。もちろんその概念は、生活していくうえで便宜上必要な実践であり、人間が戦略上身につけた叡知であろう。だが、その「区分」が、固定概念になる時、社会には「目的」であるとか「意味」であるとか「価値観」であるとか、あるいは「区別」といったようなものへと転換されてしまう。
それゆえに、われわれはそういった固定概念のうちに作られた自己において、「私の人生」「私の精神」「私の考え」「私の気持ち」などと、ついつい主張しがちだが、厳密には、世界という因果関係の諸部分である私が、因果関係の中において、因果関係の諸条件に依存したうえで、因果関係の結果でてきた考えを、その都度その都度、出力している、というだけにすぎないのではないか。それというのはつまり、私が考えているのではなく、やはり「因果関係」そのものが考えているのだ、ということとイコールではあるまいか。
不思議な感覚だが、私はこの世界で生きているのだが、同時に生かされているというのと同じように、自分の意思で自発的に考えているつもりだが、考えさせられているだけなのかもしれない。
難解ではあるが、スピノザの思想や本書はそういったことを教えてくれる。
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