仕事としての個別性を尊重する初等教育の労働形態 チームを排して教育労働の価値を取り戻す
50代になって最近考えることで重要なことは自分にしか語れないことを語る必要があるということ。
読んで欲しいから、良い評価が欲しいからといって云うべきことの内容を変えることはよろしくないということ。これは子どもにも授業中に言っていることである。人に読ませる文章で「主張」の部分について指導することはあまりない。伝えるための工夫としての文体や言いたいことを効率的に伝えるための技を指導することはあっても主張の部分について指導することはない。どんなに拙くともそれは個々が自分で考えなければならないことだからである。
正直この主張について忖度なく語れる教員がいかほどいるかは心許ないのだけれども、そうした集団になれることが重要だと思っている。これを作ることが難しい。そうしたことをもって「チーム」と称するべきだというのは従来からの主張であるが、その主張には何の意味もない。出来上がってナンボだからである。
だからせめて学習集団たる我がクラスルームにおいてはそれを実現したいとは思っている。そろそろうちの子たちもそれでよかったと思うのかを「主張」していただきたいところである。忌憚なく。
今現場に現職のクラス担任として身を置く中で、年下かつ経験年数も下の人間も見るにつけ、私にしか語れないことはなんだろうと考える。私にしかできないことはなんだろうと考える。
もはや偉そうに他人の授業について評論することには意味がない。ただ一言「お疲れ様」しかない。それで良いのはないだろうか?
では何を語るべきなのか?
今やっている仕事の形態や内容、そうしたマインドセットを肯定することであり、そうしたことに対して意味づけを行い、そうしたゲンジツを元に日本型教育実践の価値を高めていくことはないかと思うのです。
そうした現実と逆行するのが、全く非現実的な実践に価値づけを行っているのが大学教員であり、元広島県教育長であり、加賀市教育長や鎌倉市教育長ではないかと思います。こうした人間が語ることに賛同する方がいるのは理解できます。彼ら彼女らも別に悪辣なことを言っているわけではないのだから。
しかしその語りが誰かを幸せにすることはないと思う。なんらかの流行や話題は提供できたとしても現実を無視しては何も生産できないからである。そうした現実を破壊したいとおっしゃるなら非常に立派な志だとは思う。しかし若いなぁしか言えない。そうした若さは労力の割に実りが少ないと云うのは世の常である。それがその方の今後の何かに生きれば良いのだけれども今あげた方々というのは社会的ポジションとしてはもう終着点にいる方ばかりであって今後ご自分の中で何かが変わるわけでも変えられるわけでもない。
かつて寺脇研さんがゆとり教育を先導したのだけれどもその時彼はすでにこの終着点だった。これ以降彼がそれまでの(良い意味での)非現実的な取り組みを越えられるような労作を生み出せていない。これ以上のポジションはもうないからなんだろうと彼の人生を見ていて思う。年上だけど。彼の仕事には敬意を払うけれど、その生き様から学べることは頂点に行き着いてしまった人間の悲哀である。ゆとり教育については彼を叩くのは全くの筋違いだと思うし。
彼ら彼女らにその終着点の覚悟とこれからもステップアップし続ける持続性があるかどうかは、彼ら彼女ら次第なのでけれども「役がそれを許さない」ということもあるのだろうと思う。それは学校管理職をやったことのある人間が組織の一員として言いたくもないことを言い、考えてもいないことを他人に強要しなければならない姿を見るにつけ、そう思うのである。こうした人間は思考的には、すでに「終わってしまっている」のだと思う。年齢に関係なく。
逆に言えばそうしたことにさえ絡め取られなけれさえいれば、何歳になってもみずみずしくいられるということも言えるのではないかと思うようになったのである。逆説的に言えば。
訂正することができる立ち位置というのは決まってしまっている。訂正は誰にでもできる「自由」であるのだろうけれどもその自由を自分で縛ってしまう人間にならなければ良いのではないかと考えるわけである。これが実務家教員を否定する理由としてはなかなかの視点なのではないか?
またしても前置きが長いが(思いついたことを思いついた時点で書いてしまう悪い癖です。)こうしたことをから見る今の現場の教職員のゲンジツに意味づけを行いたいと考えた次第です。
その中身というのが
まず、とにかく業務として行っている「実践を無条件に承認する」ということです。これは学校内において他人のしてることをとやかく評論しない、批判しないというマインドセットでいるということです。昔をそれをしていましたが、そこに生産性はなく、建設的でもないという結論に至りましたということです。やっていることは同じでも相対的に個々の事例にコメントして改革を進めていくのではなく、枠組み自体を破壊することに注力していくということになります。そのためには「一旦すべてを承認する」という姿勢を持たねばならないということです。下手でも承認、休みがちでも承認、文句しか言わなくても承認、そういうことです。
次にその上でその立場を科学的に解釈していく。なるべく科学的に。それは先行研究や私の経験とつなげて、かつ文章化するということ。喋ってしまうと時間が無駄になってまとまりに時間がかかってしまうので書いちゃいます。読む読まないは相手の自由、別に見返りやレスポンスを求めない。対話であることの方がお互いのためには「知り合うこと」もできるし、「深まり合う」こともできる。それが対話のメリットでもあるんだけれど、いかんせん多くさんの時間がかかる。そして人間相手には好き嫌いというものが存在するということがあります。好きな人と話すことは苦にならなくても生理的に合わない人と話すことは、たとえ中身がためになっても精神衛生上良くないからです。それを強要することにためらいをおぼえられる年齢にやっとなりました。必ずしも対話に全てがあるとは考えていません。そもそもそうした小難しい事を求めていない人の方が多いでしょう。そうしたことは私の書き物に対して私がnote上でのビューやスキを求めないということと同等なのです。ゲンジツ学校現場で起こっていることに対しても同様のスタンスで書いていければどういった反応があるのか?それには先行研究が述べてきたこと、私の経験を交えて書ければ、かつ短くエッセンスを搾って書ければ良いと思います。
さらに、こうしたゲンジツの総体として学校を組み直していく事を提言していくことになります。基本的に学校というのは年度当初に作り上げたられた前年踏襲の枠組みをどれだけ「再現」できるかということにだけ力が注がれています。基本的にこの枠組みについての検討は年度末にしか行われません。その検討は常に前年踏襲することを前提に検討されることになります。この枠組みでは個人的にやりたいことというのがまずやれません。よしんばやったとしても、それはその枠組みの中での成果物としては採用されません。これが学校現場で管理職が騙る「再現性」の正体です。とりわけ無能な教員の語る再現性はすでに再現ですらないということを今年だけですでに四度体験しました。これが若手に染み込んでいくことだけは避けたいのですが、それを一生懸命理解し、具現化しようとする研修に出会うたびにモドしそうなります。こんな無駄なことに労力を割いてブラックはないだろうと思うわけです。ある意味での「批判」なのですが、これは先に述べた「個別の承認」の対極に存在する「一律を目指す枠組みに対する非承認」であると考えます。
こうした見方の存在理由として、学校管理職や教育委員会の評価の視点というか「まなざし」のおかしさを感じます。平等と価値付けとでも言いましょうか?たとえば不登校に対応しないことは教員としては悪いことではない。これを悪いことだと一方的に価値づけて評価する人間が悪いのである。体罰がよくないことは別にいわなくても良い。それは当たり前のまなざしだからである。こうしたズレたまなざしを持つことそれ自体にセンスがないしそれを口に出してしまうこともセンスがない。
こうしたセンスのない人間の作る枠組みから脱出することが今の教育現場に必要なことだと思います。だからこその集めた実践をまとめて見えてきたものから学校の枠を決めるという順序の転換が必要なのかなと思うんです。
弁当箱に合わせて中身を決めるのではなく、食べたいものを寄せ集めてから弁当箱を作るイメージです。順序が逆なんです。そして弁当箱は別に四角である必要がない。そもそも図形である必要もないし、穴が空いていても良い。そういうことです。
尖っていて今までの教育方法とは違うように見えるイエナプランやシュタイナー教育だって最初の枠組みを決めるという発想からは抜け出せません。実はこうした新教育だってオルタナティブ教育だってこれまでの教育のシステムと全く同じなんです。まして教育長がなんとかしようとしている教育なんて教育長が枠組みを決めたいだけの話でしかありません。そんなもんに何の価値があるのかよくわからないということです。
そうした枠組みありきの「チーム」を拝していくことで教師が、教師という仕事が個別の営みとしてのプライドを取り戻せるのではないかというのが今の私の取り組みの方向性です。失敗してもいいんです。失敗しそうな取り組みにしか価値はない。これまで通りの主張です。
これが学校改革につながるのか?
研修の成果としてやらないといけない仕事の取り組みとしてちょうどいいネタになりそうです。
ちょっとワクワクしてきた。そしてこれが私にしか語れないことなのである。