ペーパーティーチャー活用の取り組みと若手の離脱で40代に負担が増えるという話の組み合わせ

 どちらもやってることはいっしよ。タコの足をタコが食べる行為です。こんなことしかできないのが教育委員会制度と学校管理職の発想だということです。
 そもそも文科省はVUCAという言葉を好んで使います。良く分からないことを指せるので言い訳には最適の言葉です。教育委員会制度は黎明期に威力を発揮するシステムですがVUCAでなくても改変が必要になったときや非常時には対応できない組織形態です。コロナでいやというほど良く分かったハズです。
 いや、もしかして一般人はコロナでも教育システムがなんとか稼働したのは現場の努力だけであって、教育委員会制度や学校管理職は妨害にまわった方だという事実を知らないのかもしれません。

 現場が判断を仰いでも無視するのは日常茶飯事、結論が二転三転するどころか五転六転した挙げ句逃げたことも一度や二度ではないからです。その首謀者である学校保健の関係者は今は平気な顔で出世してます。
 こんな人間の集まりの教育委員会制度や学校管理職がこれまでの教育課題の集積である教員不足に斬り込むことなんて不可能です。
 教育課題というのはいずれ何らかの形で終息することは確実です。これは歴史が証明しています。そしてその終息は基本的に不充分な成果を伴ってゾンビのように蘇ってきます。これも歴史が証明してます。それに対応するため学習指導要領は改定されるわけです。学力と学習領域、学習方法には明らかに相関があり、そこにチェック機能を働かせなければならないことに異論はありません。しかしコロナ禍でもそうだったようにそのチェック機能がきちんとウエによって稼働したかはかなり疑問です。というかなんもしていないでお得意の先送りをしたことを誰も気づかず咎めずという状況なのではないかということです。
 それは非常にマズイ。
 その負担を負うのも投げ捨てて批判されるのも現場だからです。なぜのうのうとその上で胡座をかいていられるのか?とても不思議です。

 そのあぐらの下にいるのがイヤで教員にならないのにペーパーティーチャーの確保や若手にフォーカスを当てるという的はずれなターゲティングをするのか?よくわからないのです。
 というかここまで鈍感だと、本当はその胡座の下に来やすい人に人材確保の焦点を当てるという方向に舵を切ったのかなとまで深読みしてしまいそうです。まさかそこまで猛々しくはないと思いますが、もしそうなら。それぐらいこの政策たちは的外れも甚だしいものです。この2つを本気でやれば現場は即崩壊します。
 ただでさえ今の現場にはあまり使えない人材で溢れています。そりゃいるだけでありがたいのですが、その人材は現状維持のために必要な人材であって現状を脱却して新しくしていくための人材ではありません。
 厳しい言い方をすれば危機感が足りません。国家の未来を担っているという矜持がありません。将来の子や孫の不具合を直接背負っているという覚悟がないのです。今現場はそんな人材を求めてはいません。少なくとも私はその人材はいらない、そういうことです。
 内側から変えるというのは相当エネルギーを使います。兵庫の局長も内側から変えようとした。しかし頓挫した。方法の問題だけではない難しさがあるんです。それは変えようとしてみた人間にしか分からない困難です。
 県知事のように声が大きいだけでは、たとえ頭が良くてもうまくいかないし、いずれ破綻するということです。彼はおそらく誰よりもそのことに気づいた張本人ということになります。そこには良い悪いではない、実行できるかできないかという、この先にある実現できるできないかという価値があるからです。
 それますが私が成田悠輔さんを評価しないただ一つの理由は彼は何も実現しないから。インフルエンスがあったとしてもそれは実行力ではないということです。逆に東浩紀さんを評価する理由は彼には実行しようとする信念があります。実行力は内側にいた方が良いに決まっていますが彼はアカデミズムの外側にその活路を見出したということです。もし落合陽一が素晴らしい研究結果を伴って大学教育を組織的に変えることができれば年齢に関係なく彼についていきますけどね。その可能性は限りなくゼロに近い。というか今のままでは不可能です。

 もはや(学校)現場で必要なことは、カンファレンスや対話による教職員づくり(人間関係の効率化、円滑化)であり、少数の人間による(学校)業務の効率化であり、少数の人間による(教育)技術の伝承と拡散であります。それらは学校の持つ全てのマンパワーが子どもと保護者に向くための方策であり、そうでもしないと業務に溺れてしまう人間が多数出てしまい仕事にならなくなってしまうからです。

 これはもはや学校組織の延命作業であり、今の学校形態の持続性への個人的なコミットに過ぎないということです。しかしこれがやれていない学校はすでに1学期の時点で崩壊が始まっています。

 これがペーパーティーチャーを増やすとよりたくさん起こることであり、このフォローにまわるのが40代であるということの連関です。延命作業に従事できる能力を持った人間及びその集団というのは学校管理職になる能力を持った人間ではありません。なぜなら学校管理職や教育委員会にいく人間というのはそういう能力を評価されるわけではないからです。

 そうした職につく人間というのは、ただフォローに回れるだけの人間だということです。延命作業に関われるほどの破滅的な行動力というのは現状維持を志向する人間には到底出すことはできないし、そうした危なっかしさを抱えた人間を学校管理職にしたり、教育委員会に迎え入れたりすることが謝罪会見に直結すると思い込んでいるからです。

 実際にはそこまで行かなくて過去の悪行を暴き出したり、無能な老害や無能な女性を論破して追い出したりするぐらいのモンだと思いますがね。まあパワハラ案件で謝罪会見に直結すると言われれば返す言葉もありません。それでも現場が自治体の学校の半数以上が崩壊すればその自治体の教育委員会も一緒に沈んでしまうと思いますが・・・

 頼むからこうしたアリバイづくりの政策をやっているふりをして現場に迷惑をかけることだけはやめてほしい。今やっていることだけで崩壊しないように頑張っている都市部の教職員というのは多数いるわけです。ミドルリーダーなどという予算権も人事権もない、下手をすると発言権もないような位置付けで踏ん張っている人間たちに対して全くフォローも評価もない状況で若手教員や年嵩の能力の足りない教員が離脱するのを防いでいることを知っていただきたい。

 実際問題離脱する教職員より離脱せずにぶら下がっている教職員の処遇の方がややこしくて、負担が大きいことがあるんです。

 結論 まずは足場固めから。今やっていることに対してきちんとフォローを入れてから新しいことをやってくれ。学校管理職が求めていることは学校が求めていることではない。学校を今のままで継続的に気持ちよく運用できるためにできることを探すべきだということ。それが学校への信頼感を取り戻し、学校で働きたい人間を増やすことのできるただ一つの方法だということです。


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