無理して「やらなくていいよ」と言う学校が存在する意味は何だろう~働き方改革の観点から
公立学校がこうした学校になりつつあることを身を持って体験することになるとは・・・
我が子の学校がこうしたことを言い始めた。もちろん公立学校である。
無理してやらなくていいとした結果、何が起こったか?
教科書の内容すら理解できない子どもが目の前で出来上がってしまいました。親はどうしたら良いのでしょうか。そもそも家庭学習に取り組まなくなってしまった。家庭学習は家庭の責任だということには理解できます。
しかし学校がやらなくていいと言ったものを家庭がやらせることは不可能です。そんなダブルスタンダードのロジックでは子どもにですら納得させることができません。
無理してやらせろとは言っていない。
なぜやらないという選択権(選択を委ねる発言も含めて)が学校にあるかということである。
こうしたことはひとつは藤原氏や工藤氏などの学校をヘンにした教育素人、かつ経営市場玄人校長が関係している。彼らが発したメッセージのせいだからである。
もちろんこれまでも自由と平等の関係性については何度か発言したことがあるのでそこは承知しているつもりで話を進めるとする。ついでに教育のおける強制の効果にも言及したことがあった。少なくとも強制は教育における一部分であるという認識に寸分も狂いはない。もちろん強制の手法については考える必要があり、あくまで一部分であり、そこにおける匙加減であるのは間違いない。「指導」が強い教師か「共感」が強い教師かによって教師のリーダー性を分類する極めて単純な手法にPM分類というやり方があるそうだが、このように分類しようとも強制が消えることかないことがわかると思う。(この分類は強弱しかあらわしていないのだが。)
そうしたことに対する現状およびこれまでの学校教育へのカウンター攻撃は学校教育に対する国家的な危機意識と学校教育に対する私怨(個人的事情といった方がよいのか?最近こうした言葉尻を捉えてくる輩がいて困る。そうした読み方では文章全体の雰囲気がヨメないということに気づかないのだろうか?)との両面から発動するというのは今に始まった事ではない。これまでもそうした形で国会議員になってさまざま教育に口出ししてきたのはヤンキー先生だけではないはずである。(確か不登校経験やいじめ体験を語る国会議員がいたと思うが思い出せない。最近エビデンスは何だ?お前もエビデンス言うやんかという輩がいて困る。そうした文章と私のは一線を画していることまで説明が必要なのか?)
こうした関わりは非常に偏った形で政策に影響を及ぼすことになるので個人的はあまりよろしくないと思っている。
それたが、もちろん要因は1つだけではなく、この間タイミングよくそうした教育を取り巻く要因が重なってしまったこともこうした不幸がとても効果的に発動する結果となってしまったのではないかと思う。
一つは教員の働き方改革である。これは皮肉である。親が教員で子どもが小学生。
申し訳ないがこれまでうちの子の担任は経験が浅い若者ばかりが担当してきた。よって教え方が非常にマニュアリックです。特に算数指導の時にそれはよくわかります。子どもは教師の方法に固執するもんだからです。家庭でそれ以外のやり方が出てきても受け入れない。あー指導書通り教えたんだなということです。
もちろんそれは悪いことではない。目の前の子どもを全く見ないまま自分の道筋だけをレール通り進むことだけに注力した授業だということです。それは授業者の初歩としては非常に重要です。なぜならそれすらできなければ間違いなく学級が崩壊するからです。教えることすらできない教員は「担任としては」意味がないことを子どもはとてもよく理解しています。
ここで思うのは小学校において重要なのは担任との混ざり具合だということです。いろんな種類の担任と接することでその人間の持つ特性まで学習していくからです。その中に若くて経験の浅い子がいるのはいいんです。元気もいいし、なにより感覚が新鮮です。しかしそれがずーっと続くというのは昨今の学校事情を勘案しても宜しくない。これは実は別に若手に限ったことではない。自分が主導する形の授業スタイルを崩せない一本調子な教員というのは退職間際の教員にもいるわけだからです。そうしたことが普通の学校組織でこうした教員ではない教員で有ることは(日本語がおかしい)なかなか勇気のいる行為ですが実はそういう教職員も必要です。もちろんそればっかりでも困りますが。
それましたが、働き方改革ははっきりと教員が子どもに掛ける時間を削減しようとすることに貢献しました。いや正確に言えばそこは地域差、学校差、教員の間での差を生み出した。しかもその触れ方は取り組みの急激さに合わせて加速がついてしまうので、降れる行き先の差は開く一方です。余分な部分だけではなく、仕事の範囲内であっても削減してしまう地域の学校が出現し始めたということです。目の前で。しかもその教員は若いので経験も腕もないのに、そういう世の流れだけを受け取ってしまっているわけです。なにも考えず。
さて困った。しかし悪いのはその教職員ではないんです。それは確かです。しかもこうした若手はこの先の未来が心配です。このショーバイは「♪包丁一本の、、、、」の世界だからです。AIやオンデマンドには代わりが務まらないからです。それどころかサポートすらムリです。ここで得た「楽さ」(たぶんこれにもこんな日本語はないと辞書を引いて指摘する阿呆がいるんでしょう。)は後に成長に悪影響を及ぼすに違いありません。しかしそれでもこれは若手の瑕疵ではないということです。
それはこれ以外にも「学ばなくていい」というメッセージを発する「身に覚え」がいくつもあるからです。
こうしたメッセージが教職員の仕事を短期的にさらにラクにする要素があったとしても、長期的に見れば非常にマズイことが起こる予感がします。少なくとも我が家でウチの子がかわいそうなことになっています。
もう少し考察を続けます。
付記 ごちゃごちゃ言いたい読み手がいることは承知しています。それは私が書き手である以上甘んじて受け入れましょう。しかしこちらは書きたいことを書きたいように思い付いたことから順に書くというスタンスは崩しません。
それがスキやフォローはいらない、マネタイズを考えない、これがそうしたことに対抗する私の矜持です。