無駄の研究 走る子ども
子どもは走る。低年齢ほど走る。小学校の廊下はさながらF1サーキットである。ぶつかること間違いなしの方向にハンドルを切ってきちんとギリギリ交わしていく。すごく不思議なのは、子どもって左右を見たとき広く空いている側より、狭い方を選び、そして一度選んだらそこがたとえふさがろうともそこ目指す初志貫徹型がとても多いことです。ここでぶつかるのはいわゆる勘の鈍い人間だ。昨今は集団で確実に危険視されている人間もぶつからないことが多い。その子を見た瞬間にみんなが避けていくからである。さながらベンツS-Classが走る細い道のように。今ではそうでもないけれど。
昔メガネがとても高価だったころ、教師はメガネっ子ガードを常に発動させていた。子どもには金銭的な価値観は通用しないからである。
これは今でもそう。だから走るのである。なぜ走るのか?そこに道があるからだ。なくても走るけど…
若干、若手エッセイ作家風に入ったけれど、無駄を研究しようと思い立った大きな理由の一つであります。生徒指導上廊下を走らないという取り組みを山ほど見てきたけれどうまくいった試しがない。積み重なりも継続性もあったもんじゃない。学びとは一体何なのだろうかと真剣に悩んでしまうレベルである。致し方ない、本人たちに走っている自覚がないのである。
走っていない「つもり」。いつの世も誰に対しても「つもり」へのアタックほどややこしいことはない。教師の仕事をしている「つもり」、ちゃんとやっている「つもり」というのはなかなか厄介である。保護者の子どもが見えている「つもり」、わかっている「つもり」というのも。認識の違いと言ってしまえばそれまでだけどそこをなんとか乗り越えるために熟議するというのは、すでに結論の出ている話ではないのかな?と思いますがその合意はどうしたというのはただの愚痴なんでしょうか?
それましたが、そうした走らない取り組みがうまくいっていると言い張っているところはよほど実態が見えていないか、許容し過ぎているか、教育以外の別の要因があるのだろう。もちろんいい意味ではなく、監獄もしくは収容所のシステムという意味で。
これらは家庭教育や子どもの性格による行動原理によってもだいぶ変わってきます。基本的に急ぐこと=走ることと考えている筋というのが必ず存在するからです。(駅では大人もメッチャ走ってます。学校とおんなじでアレは危ない。人の多いところで走る奴が私は信じられません。自分の都合で他人を危険にさらす行為だからです。歩きスマホ同様。そして私にぶつかってぶっ飛ぶ人たち。細いけど無駄に体幹が強いので、睨まれるのであやまりますけどぶつかってきたのはそっちですよ。)そしてそれを繰り返し繰り返しきちんと学ばせているからです。これはそこの筋だけが悪いとは言えない。時間にシビアな社会システムが1つでもあれば、それに付随する家族システムはその影響を受けざるを得ません。例えば保護者の就業時間がシビアであれば、家族システムはその時間的制約によって急がされざるを得ない。もちろんそれは電車の発車時刻が時間通りであればさらにそれにも影響を及ぼされる。そういうものです。社会的な時間の流れ方というものが発見されることが必ずしも悪であるとは限らない、問題はそうした社会システムの善なる部分とその他のシステムがどのようにすり合わせを行い、最も良い方法を探していくようにしなければ社会全体の利便性が上がらないという状況が存在します。社会というのはどういう負担の配分で最大限の利益を発揮を実現するか?という利益最大化の方法探求ゲームの側面があるからです。いかに家族の方でそうした社会に対応する方法を探っていけるかというのも大きいということ。ライフハックとのたまう方もいますが、そこに一般性はありません。それは開放的な個別な家族システムがどういう未来を選択するかと非常に強く連動するのではないかと考えます。それぞれの非常に個別的な選択をする小集団ということです。子どもには選択権がないとか家長に全ての責任をおっかぶせるとかそういう時代でもなくなっているのではあるけれども、それでもその成員の事情というものを愛の力で最大限に尊重しながら方向性を決定している。子どもの走るという行為にもそうしたことが多少は別にして関わっているということです。
もちろんそれだけにはなく、子どもそれぞれのパーソナリティや欲求も関係してきます。遊ぶだけ遊んでから時間が足りなくなる性分であるとか、のんびりできるだけのんびりしてしまうとか、そもそも時間的なことに気づけない発達段階で留まっているとか、周りの時間の流れを感知することができないとか、そういうことです。そうなってしまって時間が足りなくなってしまうとあとは走ってリカバリーするしかなくなるからです。他にリカバリーのしようがない。こうしたことが重なれば走ることで時間を節約することができるのだからギリギリまで好きなことをしておくことができることを学んでしまう。これは大人でも同様です。
また子どもの欲求の発露のシステムにも関わっているとも思います。一番になりたい、他人とは違うことをしたい、違うところに辿り着きたい、そうしたことに到達したことを他人に認めてもらいたい、いわゆる承認欲求です。あまり好きではない理論なんですが。自分勝手の発露を他者責任に持っていきかねない危険思想です。実際、学校では福祉職がこうしたことを平然と無関係な子どもに押し付けることがあります。教員なら当たり前に承認欲求の全てを受け止めろみたいなことまで言います。こうした人間は教員はヒトではないと言ってしまっているようなもんです。人権侵害も甚だしい。
それましたが、体育館の入り口で鍵が開くことを待っている子どもたちの集団に対して一気に鍵を開けると必ず反対側の壁に向かって勢いよく走り出します。例外なく。横の壁に向かって走り出す子どもはいません。より遠く(ように見える、もしくは感じられる方)へ進むことが他者との違い、かつなるべく早いことが達成感へとつながります。
ほかにも、最近体重が増えてきたことを省みるにつけ、こまごま走ることの大切さに気づくわけです。こうしてスリムな子どもの走り回る姿を見るにつけ、なるべく教師として泰然とすることを旨とするということが体力増進と体調維持に反していると感じざるを得ません。バタバタと走っていた頃は嫌でも体重が落ちていたからです。そうした運動側面の効果をあるのではないかと思います。これは遊んでいる(ときに付随して走る)ことが目的を持って走るより苦しさを感じないとする研究ともかみ合います。子どもはからだづくりや体力増進のための本能として走らざるを得ないのではないか?動物の生存本能として側面も捉えとしてあります。元来阻害してはならないものなのかもしれません。
非常に雑駁に考えただけでも走る子どもに対する考察はたくさん思い付きました。やはりこれは自己内対話の結果と言えるのかなと考えます。無駄という視点から論じるからこそ新しいアイデアになるという気がします。もちろん無駄なアイデアやズレもあるでしょうが、こうしたことをアイスブレーキングやブレインストーミングのような視点ずらしに終わらせずにしっかり育てていく必要があると思います。データが全てではないとはいえ、データを駆使するというのは非常に重要な力点だとも思います。
こうした無駄を省く必要があるのか?どういう方法があるのか?
これはそれらを走らないことと連動して捉えられる教員が今の学校現場にどれほどいるだろうかということにも関係してきます。こうしたことにコミットできない大学教員に教員養成を委ねることが教員になりたい希望のタネをつぶしているというのは私の仮説です。ダメ押しは「デキる」教員(この皮肉の言ニュアンスは教育現場でうまくいかなくてもがいている教員には伝わるはずです。能力に見合っていない尊大な態度を見せびらかすタイプの教員です。)がそれらしく屁理屈で現場を乱して、教育委員会や学校管理職、実務家教員に出世することが教職のイメージを暗くしてしまうということです。これらが相俟っていることがブラック化の大きな部分です。長時間労働や働かせ放題というのは全員がそうではなく、実はうまくマネジメントできている人間の方が、福利厚生や特別休暇の恩恵に浴している人間の方が、多いわけです。特に職場の雰囲気の改革は思った以上に進んでいるのが実態です。うまくいっていない教員は本当に辛く苦しい状況なのでしょうけれど、その実数は多くないということです。こうしたイメージや戦略にも貢献するためには、同時に対抗するために、こうした在野の無駄の研究やそれによって生まれる対等な対話はやっておくべきなのではないかと思います。単純に子ども観の地平を拓くというありきたりな考えではないけれど、実際に拓いていく覚悟を持たなければならないと思いました。