主体性には結果論が含まれる というか結果論が全てではないか?
主体的というのは態度なのであろうか?これは子どもが主体的な授業を作るときに考えたことである。
学校の評価項目の中には意欲・関心・態度という項目が以前にあった。これがよくわかりにくいということで、主体的に学習に取り組み態度という評価項目に変わったのである。これはわかるようなわからん話である。
やる気があるかどうかなんて誰にもわからない。本人にもわからないかもしれない(場合もあると思います)。ましてそれが結果につながるような推進力を生み出すかどうかなどということは前もってわかりようのないことであることの方が多いと思います。
今の授業づくりはこれを前もって意図や狙いとして授業に盛り込むこと、もしくは方法論として授業に取り入れること、子どもの活動として観覧者に見せつけることを前提としてしまっています。
目指すのはいいけれどそんなこと実際にできるのかな?それが慣れ親しむという初等教育によくあるタームであるのは良いけれど、それを中等教育にも採用することが可能であるのか?という疑問があります。これはダメではないか?私の仮説です。それではもはや授業として成立しない可能性すらあります。高等教育でいうそうした共同研究のような状況を授業の進化した形として捉えることは逆に授業を貧しくしてしまうのではないでしょうか?ということです。
しかし実際には個別の学力から見て有意に差があるなぁと思えることは実際にあります。(主体的な)授業が上手く行った場合にはこの単元そのものが通常に授業を進めた場合に獲得したと仮定する学力と比べて上回ると授業者が感じることがあります。(あくまで主観的な評価に過ぎませんが)
それは非常に単純に言えば、主体性を授業によって持たせたこと→推進力は生まれて自己調整学習ができる→その成果として学力が向上する、という流れの話なのだろうといえます。この流れ自体に異論があることもあるでしょうし。そういう意味では主体性というのはわかったようでわからん話です。しつこいですが。
私の見立てでは主体性を育てる授業形態というのはこうした経路を目指しているものと主体性そのものを教え込むこと(すごく言い方を悪くしていますが、私はこちらの方が真っ当な「主体性の教育」だと思っています。)を目指している経路に分かれると思います。
しかしこれは「どう」目指そうとも、結果から逆算して主体性が積み重なったかどうかということにはならないのではないかということです。結果論であり、その場限りの推進力ではないのかということ。恒常的な推進力ではなく、ロケットのように推進力を捨てながらけれども目的地に辿り着く。主体性を問題にする人の中には目的地につくことにあえて着目せずに捨てていく燃料タンクのことについて語り続ける人がいるということではないでしょうか?
目的地に辿り着くから次の目的地が生まれる話と燃料タンクをどうやって積むかという全く違う方向性の話が混同されて、主体性、主体的という言葉に押し込められて議論の俎上に乗っている。だから対話をしても深まらない。これが教育現場には「共通言語」がないという事なのだろうと思います。
話し合いたくない相手No. 1は話している途中で自分の立場を都合よく入れ替える人間です。それが訂正を伴っていればいいのだけれども、相手を論破するためだけに、自分の正当性を主張(自分だけは悪くないと言いたい)するためだけに、自分の意見を集団の決め事として採用させるためだけに、意図的無意識に関わらずそうした立場のズラしをする場合建設的な話し合いにならないからです。私が最近話し合いに関わり合いになりたくない理由がこうしたズレに敏感になってしまい対話の「場」で生きにくくなってしまったからです。少しのズレにも敏感に気が付いてしまう。正直職員会議で発言する人間にはそうした人間しかいなくて、困ります。さりとて発言しない人間は何を考えているかわからなくて困ります。話していて心地よい人間というのは非常に減ってしまっているので引きこもらざるを得ないという事です。私のような人間も周りから見ればメーワクの塊のような人間なのでしょうけれども。
それましたが、共通言語もない、成員も育っていない、その他諸々のブラック要因、ないない尽くしの教育現場です。教育議論がなぜ不毛なのか?、教育現場がなぜ対話とともなって革新されないのか?、そもそもなぜ対話が持たれないのか?そうしたことの大きな原因は今挙げられているブラック要因ではなく、共通言語がないこと、育っている教員が異常にマイノリティであることであるのでないかということです。
これについては独立行政法人という名の文科省の外郭団体「教職員支援機構」が明確に取り組もうとしていますが、残念ながら上手くいかないと思います。理由は単純、大学教員に聞いているからです。大学教員を例外なく除外しない限りはこうしたことを考える前提は生まれません。
問いの立て方は良くても方法論が拙いというのは学問の世界では良くある話です。これはとても良い間違いなのですが、結果が伴わず潰されるというのが日本のアカデミズムです。日本のアカデミズムは問いは拙くても方法論さえ整っていれば研究として認めるという不思議な進路に基づいて成り立っています。だから今のアカデミズムがダメなのです。それでは当たり前にイノベーションにはならない。革新的発見につながらないからです。そうした教育を受けてきた大学教員はそれが拙いことに気がつかない。だから平気で便所の落書きを量産することに勤しむのです。誰かがそんなもの役に立たないよ(私も今言ってあげています。)と言ってあげても「そんなことはない」の一言で済ますのです。それは子どものやり方です。
話を元に戻すと主体性というのは、学習を終えた後に具現化する、発見される、効果への燃料タンクのようなものではないかということです。それはどこに落ちているかよくわからないし、目的地に行きついてもいないけれど、目的地についた後にそれが間違いなく役に立ったことがわかるものではないかということです。
ということはパラレルワールドが具現化しない以上、基本的に主体性の効果について比較検証を行うことは不可能であるということです。同時に言えば目的地にさえ着いてしまえば、そこに燃料タンクがあったことにしてしまうことが可能です。
これが初等教育現場の通知表の評価でよく行われる学習効果さえ上がっていれば主体的であったという評価と、目的地に到達していなくても見えない燃料タンクの存在を無理やりこじつけて主体的であったとする評価なのだろうということです。
要するに出来レースの結果論を以て主体的であると言ってしまっているのではないか?それは教員が悪いのではなく、そんなものを教育の中心スローガンに据えた文科省が悪いのであって、それを促した中教審が悪いのであって、それを主導した大学教員が悪いのであって、それを育てた日本のアカデミズムが悪いのでしょうというわけです。
こんな建て付けのグラグラしたものを一生懸命考えてなんとか住める建物にしようと頑張っている教員が可哀想だと思うんです。ほとんどの教員はやる前からアホらしいと思って回避しているのですけれど・・・根が真面目なもんで意地でお付き合いしてしまうんですよね。つくづく損する性分です。はぁ。