無駄の研究 見栄えを越える失敗体験

 運動会や発表会など発表の場というのは何を見るべきか?
 経験の浅い頃はとにかく見栄えを最低限のラインに無理矢理整えようとしていた。

 しかし最近は失敗した方が良くないかな?そう思うようになった。出来のいい子どもにさせるのではなく、自信がなくできそうもない子どもにその役割を託す方を選択することが極端に多くなった。

 失敗を恐れないメンタリティというのはそう持てるものではない。それは偉いとか偉くないとか歳をとったとか権限があるとかそういう話だけではないのかもしれない。(権限はあっても失敗できないというのは官僚機構の宿痾のようなものであることは割と周知であるからである。)
 そうした自分を省みて、諦めをかかえて行動できるかどうかにかかっているのではないだろうかと思い直した次第である。

 一つはっきり言えるのは見栄えにこだわることに教育上の意味はないということである。全く意味がないわけではない。見ている観客は我が子、地域の子が躍動する姿を見て感動する、胸が熱くなる、そうした感情が去来するだろう。そして指導した教職員にはそこまで持っていけたという満足感が漂うだろう。それが両者を結びつけ信頼感を高めていくならそれは結構なことではないだろうかと考えるのはとても一般的な感覚だろうと思う。

 しかしそこに教育的な意義があるのだろうか?長く続く固い信頼関係があるのだろうか?カルいのである。内輪ウケに過ぎない。
 できる子にただできることをできるままにさせたところでその学習集団に高まりはない。平常運転だからである。頑張ったねと褒めたところで褒められた方は軽い喜びがあるだけでそんなに意味はない。どちらかといえばウソ褒めされている方に近いのではないだろうか?
 それだったら失敗しそうな子に失敗する体験を与えることも成長の一助になりはしないか?上手く言った褒めてあげればいいし、失敗したら慰めてあげればいいだけでの話である。そちらの方がよっぽど教育的な行為に思えるし、子どもとの繋がりに意味があるような気がする。
 成功は子どもの手柄、失敗は教員の責任。それでいいんじゃないでしょうか?どうせ失敗したって首まで切られるわけではなし。(教育顕彰はされないから出世はしないけどそんなことは子どもが成長することに比べればなんの価値もないことである。それを理解し評価できるようになれば教育長も教育委員会の主事も政治家も少しは見直すのだけれども。まあ不倫やハラスメントに勤しむような連中には死ぬまでわからない教育的な価値です。)

 もしこの教育的価値が国民的合意になることがあればその国は教育立国を名乗ることができるだろう。今この合意にだいぶ近いところにいたのが2000年前後の北欧であったのではないかというのが私が世界の教育をフィールドワークによってリサーチした上での結論です。これまでのノルウェーのPISA結果を支えたのはこの残火ではないかというのは、そのリサーチに基づく私の仮説です。
 今の日本の教育議論というのは常に輸入した事例にコメントをつけるだけの根拠しか立場を強くしていない。これは日本が古来よりやってきた輸入発展型の学問形態であるのだろう。しかしこれからの高度情報化社会ではこうした手法だけでは先細りするだけである。こうしてできた業績には鮮度はあっても深みはないからである。

 見栄えや上辺だけの感傷に浸るだけならそれに教育的な意味は薄いのではないか?かなり古くから鼓笛隊を保育に取り入れたり、非常に高度な技術を散りばめた音楽会を催したりする自己満足の集まりに疑問しかなかった。それって保育者や音楽教師の壮大な自意識の過剰に過ぎないからである。どうあっても結果にしか意味のない教育において子どもがつかむ力を見栄えで塗り固めてしまうのは使用価値のあることには思えないのである。

 これは実は成功体験であったのではなく、無駄であったのではないか?そう見ることができると話が変わってくるのではないかと思う。
 実は見栄えが自信につながるのではなく、そうした無理やりの押し付けが反面教師として働いたり、そうして得た技術が非常に後になって趣味に繋がったり、職業的な技術に繋がったり、人間関係を生み出していったりすることにその価値を起点を置くのならば、それこそ私の考える無駄の先に存在する教育的価値なのではないかと呼べるのではないかということなんです。

 しかしそうしたかなり時間的に長い先で作用するかどうかも不確かな見栄えにだけ固執するような無駄を教育の中に持ち込むぐらいならもう少し子どものためになるような射程の短い教育がいくらでもあるのではないだろうか?そう考えると無駄にも蓋然性の高い無駄と可能性の段階にとどまる無駄があるのではないかということに気づく。

 せっかくいくらでも失敗できてレジリエンスの化け物である子ども時代に本気の失敗を、悔しさを伴う失敗を、でも清々しい失敗を、記憶でどこかにつながる失敗を、させてあげられる教員でありたいと残り少ない教員人生に向かって思うわけです。それは表に出るのではなく陰ながら最大限信じて応援することなのだろうと思います。

 

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