教育における不易と流行

 主体性とは何かを突き詰めていく作業を行う上で不易と流行という言葉をふと思い出した。教育における不易と流行がそれこそ流行った時期がある。そうか中教審答申や今では懐かしい臨教審答申に使われてたから、たぶん30年近く前のことだと記憶している。

 この言葉自体もかなりコスられた考え方で松尾芭蕉の言葉。
 単純にいうと「変わらないこと」と「変わりゆくこと」の大切さを俳句の異端児が表すために使った言葉。
 それを拝借した感じなのだが、そもそもその後の人間はその言葉をさまざまに解釈して好き勝手なことを言っているという現状。
 なのでこの言葉に正しさを求めるのは野暮というもの。そもそも中教審の解釈が合っているとも思えない。「教育における」という枕詞が話をややこしくしている。

 結局不易が大事なんかい?流行が大事なんかい?どっちなんだい?パワーということ。ほとんどの解釈はこの話に終始することになっているが、私の結論は正直どっちでもいい。

 しかしこの視座、つまりこの不易と流行という考えに対する自分の立ち位置を決めることは教師にとって必須です。というか不易と流行に限らず、さまざまなゲンジツと向き合う場合には避難訓練のような、その状況に応じた自分自身の立場を確定させていくための準備が必要になります。確定させたことは正しいか正しくないかもおよそ関係ない。逆にそれは常に訂正可能、更新可能な状態にしておくことが望ましい。
 避難訓練で確定的にマニュアル化するような愚行を未だに続けている学校をよく見かけるが、これも大阪のとある学校の影響なのかもしれない。万一学校内に凶器を持った人間が入ってきた場合、巨大直下地震が起こった時、短時間にゲリラ豪雨が降った、そんな非日常に対してマニュアルに何の意味があるのか?準備とマニュアルは目的を合一にしていないと存在そのものが危険になる。その時の状況の中で最適な方法を選択することとマニュアルに合わせて動くことは重なる点と線がないことが自明のはずであるということ。
 不易と流行に答えを出すことが重要なのではない。解釈して自分の教育実践に活かす力にしていくが必要であるということです。

 突き詰めていくと主体性の補助として構築している権力という概念にはニワトリが先かタマゴが先かの話に多く行き当たることに気づく。
 これは言い方としては枠組みであったり、パラドクスであったりするのだが、これまでの哲学同様、これをどう考えていくかという姿勢に対して、常に哲学としての新しさと正しさがつきまとってくるのであろうということがわかってくる。

 教育も同様で結論を出してしまったとき、その課題の課題としての役割が終わってしまい、単なる流行として打ち捨てられていくということに他ならない。
 そう考えれば、不易は不易であるかどうかの問題ではなくコスられ続けられるに耐えうる論理構成を構築できたものもしくは簡単に答えを言い切りにくい側面を持つものに限られ、流行はその論理構成の段階で何らかの欠陥を外部から招き入れてしまったために大方の人間から見捨てられることになった状況を指して顧みられているものではないかと思えてくる。

 正直言って今の教育現場では、不易と流行以前に何が正しいことかということ自体が非常に見えにくくなっている。学校ごとによってテンプレートが違い、課題が違い、対応が違う。その対応が違うことによってさらに課題の行き先がさらに違っていく。それは多様性というものではなく、ただただ困難さを撒き散らしているだけのように見える。
 だからこそ今のマニュアル本全盛の時代には危機感を覚えるのである。
 教育に携わる人間に骨太な教育理論に対しての需要が全くないし、長い文章に対して耐えられない人間ばかりからYouTubeやInstagram、Xに人が集まって大所高所から手軽にマウントを取ろうとするための装置として活用されてしまっている。即物的な対応がより物事を見えにくくし、他者を受け入れにくくしている。
 今こそ教育そのものが深く、ねばっこく問題に関わっていける人間の育成に乗り出していく必要があるように思う。

 それは、訳も分からず古典の小難しい文章に挑み撃沈しながら自分でもアウトプットしていくことで鍛えていくという手法を不易でも流行でもない第3の手法として「教育において」構築していく必要があるのではないかと思う次第なのである。
 危機的状況の捉え方が理解し難い状況に陥っているのは、よく分かる。
 正直不易も流行もない。その捉え方自体が二項対立であり、良い悪いという対話から見てよくない状況を生み出している。
 
 結局この考え方に沿った免許更新講習は天下の大愚策に終わり、なぜか目先の流行を追い求める理論をもてはやす筋道を作ってしまった。最も本質を追い求めなければならない不易に至っては「昔」「古い」という本質とは程遠いイメージとともに昭和の教師の茶飲み話として貶められてしまった。

 別の不易と流行というよりは、踏まえて乗り越えた先を考える必要がありそうだ。

 今更ながら、権力の構成とともに不易と流行に対する立場と視座について考え直した週末でした。

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