「学びの転換」本当に必要か?

 これは学びの転換がいるか?いらんか?だけの単純な話。そしてそれは誰が実行するかというさらに単純な話。
 これに教育長や民間人が関与できると本気で思っているんだったらあまりにも思慮が足りないと思う。それは偉いとか偉くないとかは全く関係のない話。ダイバーシティは結果の話であって、計画段階で発動してしまってはただの家父長制と変わらない。男尊女卑を女尊男卑にしただけの話である。

 さらに問題の根本を主体的という話にすり替えているように思うけれども、教育現場での「叱られるから」という発想の強要は二重の意味で危険である。
 それは表題のような「強制」に値する危険とともに、教師の側からの「見捨てる」ことにつながるからです。そんなにめんどくさいこと言われるぐらいなら何にもしないほうが具合が良い。何にもしない方が主体的だと言われるならそうしたほうが良い。という方向に教職員を誘導することになるからである。まさにこうした変な礼賛が教職をそうしたつまらない仕事に貶めている。労働条件が良くなくても味わい深い労働であったからこそ優秀な人材が集まっていたのに、その数少ないプラスの面をこうした人間たちが切り崩してしまったとのである。良かれと思って。善意の押し売りです。

 問題はそれが意図していない発言でもそれにつながってしまう蓋然性についての話があまり理解されないところに教育問題の度合いの大きさがあるのだろうということです。同時に期せずして「ビジョン」さえ語っているだけでなんとかなると思っている底の浅さにも課題があるんのではないかと考えるわけです。ビジョンというのは元来枠組みの話であって結果に対してのコミットを持つものではない。打ち上げるだけ打ち上げて結果に関しては知らないよという「わかりやすさ」重視の発想にならざるを得ません。ポピュリズムに堕している場合は尚のことです。ビジョンを示すことが必要なのではなく、やりきる覚悟が必要なのです。

 こうした発想をやめて結果をビジョン化していく発想をとっていってくれるのならまだ「内なる力」と呼べるのかもしれないけれど、どんな耳障りの良い言葉を並べ立てたところでそれは教師にとっての無言の強制以外の何物でも無いことになってしまいます。それが抽象的であればあるほど教育現場ではただただ無視されるだけの対象になることが多いです。それは身をもって体験しているからです。子どもには空気読めとか文脈理解しろと言っておきながら、自分たちは抽象を具体化する力がない、そういう不思議な人たちの固まりなんです。

 前にも言ったと思いますが、この教育長の方々には黒子に徹する気が無い。自分たちが表に出て出役として目立って発信することしか考えていない。たしかにアピールすることは大事だけど、少なくとも私には中身がないことと目立ちたいこと以外伝わってきません。教員全員ができっこないことばかりを言っている。自分たちの組織の都合の悪いことは語っていない。ダイバーシティはもはや組織にとっては都合の悪いことではなく目先を反らすためにしか作用しない言説に成り下がってしまっている。
 この先に何を求めているのか知らないけれどせめて教育をその子どもたちにとって一生に一度しかない瞬間をそうしたくだらないことのための踏み台にするのだけはやめてほしいということです。

 不登校の数におもねったり、学びから逃走に対して及び腰になったり、来るかどうかもわからないVUCAやAIの脅威に過剰に恐れ慄いたりするのではなく、目の前の一つひとつの課題に向き合う子どもや教師を裏から支えるというフツーの業務に全力を注いでくれればそれで良いです。教育委員会制度が今のままであるのならこれ以上の成果は望むべくもありません。
 そんな目立ちたいのなら教育行政自体がこれまでと違う形で活動する主体であることをクチではなく、行動で示せるぐらいのことをしてはどうでしょうか?それが自然と報道されたのなら素敵だよねという評価は勝手に生まれてくると思います。

 まあどうせ失敗して無かったことにするのでしょうけれども。
 そして任期を終えた後になんにも残らなかった市を見てクチだけの耳障りの良い自慢話を語るのでしょうけれども。

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