対話の性質によって授業の配分を変える
「主体的な」対話を授業に取り入れるということが次の学習指導要領では主眼になるであろうことは想像に難くない。もし入らなければある意味でサプライズである。個人的にはそちらの方になれば委員を少しは見直すかもしれない。
端的に言えば、学習指導要領というのは研究発表の場ではないからである。正直今の学習指導要領は理解に苦しむ点が何点かある。
そのつもりはないのであろうが学習指導要領の改定にはなぜか重点的な目玉商品が用意されていて、それに付随した書籍を出版することで流行りに乗って売り尽くしましょうみたいなことが30年前あたりからよく行われている。それに1回お付き合いしたのだがアホらしくなってそれ以来、流行りに乗った教育書は買わなくなった。月に2万ぐらいは紙の書籍代に使うのだが教育マニュアル本は一切買わない。
現行指導要領はまず表現。これが意味がわからない。しかも評価方法がわからない。たまに「表現活動を豊かに」みたいなことを言う奴がいるけれどそれは教育ではないし、すべての子どもに行き渡らせる方法ではないこと語られている。教育という空間はできる子どもだけの自己発露の場ではないのである。
次に主体的に学習に取り組もうとする態度。
すでに日本語がおかしい。経緯もおかしい。意欲・関心・態度がよくわからないからこう変わったのに、結局態度に戻ったのか?
まだまだあるが、長くなりそうなので本題へ。
そうはいっても対話を取り入れた授業を小学校低学年で意識づけるための授業づくりを若手に見せてあげなければならない。年寄りは大変である。
そしてそこは伝達の場であるので、うっすら伝えていく必要があるということになります。がっつり偉そうに言うとパワハラに認定されてしまうので。
対話というものが授業において非常に厄介な産物であることがよくわかっていない人がいます。特に大学教員は理解していない。基本今の指導案というのは結論に収束していくことが前提の設計になっています。子どもの意見や発表内容の予測も結論に対しての有効性の予測しかしていません。そもそも予測される意見を全部網羅していると読む方が大変なので割愛してあげていると事後検討会で「そんなことも予測していないのか」と偉そうに能書き垂れるアホがいるのです。お互いのために児童の活動を書くのはやめた方がいいのはないかと思います。
対話は結論ありきの指導案とは非常に親和性が悪い。教科書会社が作っている指導案はすべて結論ありきのものです。これはこれでいいのですが、行き先や盛り上がりの度合いに予測がつきにくい対話にとっては残念ながら役に立ちません。
対話の行き先を予測できると言い切る人間の作る授業は完全に作為的です。クラスの上位層の意見だけを意図的に抽出する作業をして体よくまとめるだけです。それはクラスルームの学力低位層と意欲低位層を意識的に授業の聞き手に追いやります。
多様な意見を寄せ集めることを意図的に放棄して、たとえ集めたとしても意図的に排除して見せかけの方に収斂していくことを設計していくことで「うまくまとめる」ことをクラスルームの成員に意識づけしていくことになるんです。
となれば、対話を授業の中に取り入れてすべての成員に参加を促す授業というのはある意味での価値観の崩壊を意味するということです。これはブレインストーミングの比ではありません。そもそもブレインストーミングというのはまやかしです。ごまかしです。そうではないことをさもそうであるかように語っているだけです。
そうしたことからもホンモノである対話が重視される理由はわかります。ただ対話を重視しろといっている側がそのことを理解しているかは甚だ疑問です。対話というのは「終わりなき」が前提だからです。授業において終わりなきことをすることがどんだけ怖いことかわかっているのでしょうかね?
慣れ親しむで逃げることは小学校教育においては常道になっています。慣れ親しめばそれで良い。それはやりさえすれば終わりを示しています。これは実際には授業ではやらずに逃げる人間を認めることになります。そういうメッセージ性を含んでいるということです。これは実際には学びからの離脱に手を貸していることになります。もちろん学びへの常時参加というプレッシャーからの解放という側面、いわゆる止まり木的な側面を有していることは前提ではありますが、文科省が学びからの逃亡を是認している以上、この側面が有効に作用する場面は減らざるを得なくなるわけです。
ホンモノの対話を授業に入れ込むことはこうした意図的な排除や学びからの離脱、カオスな状態にも正対する必要に迫られるということです。
授業へのそれらの意図をすべて含んでクラスルームを対話する場へと変更していく授業になければならないということです。
いやーハードルが高い。そして行き先が見えない。授業のまとめとは全く関係ない対話ともまともにお付き合いする覚悟が必要になることは予想に難くないからです。
それでも本時の流れにそれを盛り込むなら、指導案自体がいささか定型からズレたものにならざるを得ないということです。多分異論を挟む人が出来うくるでしょう。まあ老人の利点は若者を馬鹿者と断罪できる点にあります。それを今では老害というのでしょうが。
簡単に言えば対話の場面を授業の中にいくつか設定します。
一つでは多すぎる。これはいつかに語ったことです。できれば3本用意したいところ。3本は多すぎないかい?わかります。よって時間配分は決めません。盛り上がれば2本にします。1本になるかもしれません。単元計画の中での対話の設定ですから全7時間の設定であったとすればそうした中での動きの3本もしくはそれ以上です。
しかもその対話の中から、奇跡が起こってもし設定を上回る対話の観点が生まれてきた場合は遠慮なくそちらを採用していきます。それを恥ずかしげもなく指導案の中に明記します。それは路線変更ではない、想定内の出来事であるということを言っておくためです。クレーマー対策の※イメージですみたいなもんです。
ここでさらに授業としては異常なことを想定します。それは授業の回答としては程遠い意見であったとしても普段の学習からの離脱者から意見が出てくれば無条件にそれを採用して対話の材料にしていってしまおうという目論見です。なんじゃそらと思われるかもしれませんが小学校ではよく行われていることなんですよね。有名なエピソードに乙武さんがあの体で遊び野球に混ぜてもらった時自然と子どもたちの中に乙武ルールができて打たなくも投げなくてもちゃんとゲームに参加できたという話があります。それとおんなじです。小学校では授業中に無理やりそういう方向性を、もっと言えば不平等性をぶちこむことはよくあることなんですよね。多分文科省は認めないことです。でも学校教育が成り立っている要因の一つには現場で授業している教員が制度や法律の不備を可能な限り修正している事実があることをわかっておいてほしいわけですよ。せめて文科大臣と文科官僚には。
それの不平等性と不確実性を指導案に書き込みます。クレーム対策でもありますが、何よりもそれは私のクラスルームの特性だからです。私のクラスルームで授業するということはその特性から目を背ける訳にはいきません。対話を盛り込むなら尚のことです。その発生する不平等は学習に意欲や能力のある子どもに引き受けさせます。それは厳しい言い方をすれば、クラスルームにおける成員の非対称性からの義務ということになります。まあそこまで行かなかくても担任はその労を労うから許してくださいてなもんです。しかしそれ以上に厳しいのはそうした学習からの逃走そのものに対して、それは本人に理由があるせよ、家庭に依拠しているにせよ、必ず何らかの成果を出すことを要求するということ。そしてそれに対する反省(あえてふりかえりなどいう甘ったれた言葉は使いません)を要求するということなんです。クラスルームにどの層にとっても厳しい戦いになるという授業設計なんですよね。もちろん一番厳しい戦い手は授業者なんですが・・・
その全てをそう評価した理由を含めて明記していきます。
まだ書いていないんですが、喧嘩腰な指導案になりそうです。
このnoteを書きながら指導案の骨子がまとまってきました。
長い朝活を終えて今から指導案づくりに挑んでみようと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?