心理的安全性がはかられない職員室のグルーピングの現実
一つには教職員組合の存在があると思うのだけれども、やはり難しい側面が強いと思わざるをえない。これは人間は立場によって己の発言がある程度規定されてしまうということです。特に日本はその傾向が強い。
自分の意見が組織の意見になるというよりは組織の意向が個人の意見になってしまうということです。しかもそれは個人的な本音であるとすら本人が勘違いしているレベルであることまであるということです。自律化した意見というのは存在しなくなってしまいます。
それがラクであり、安全であるという発想が組織を防衛すると信じているし、組織が自分を守ってくれるとまで考えている。それが悪いということではなく、その発想の人間が集団を形成してしまうと価値観が固定化してしまい、いじめがあろうが不正があろうがそれには目をつむってとにかく組織と個人が守られると信じることに邁進する組織になってしまうということです。そんな組織では公益通報などどんなに法律が整備されても起こるはずはありません。不祥事で潰れることができる組織体にならまだしもその文化のまま永続してしまう公務労働や潰せないほど巨大な大企業ではそれがさらに文化として根付いてがんじがらめになってしまうということです。
組織は必ずしもイノベーションする必要はないにしても、どこかでそうした価値観に対する「軽さ」を持っていないと(作られた)同質性の塊になってしまう可能性が強い。せっかくのマンパワーが発揮されず受動的な労働が蔓延してしまい生産性が下がってしまうという流れに入ってしまいます。
それが今の学校現場でもあってそれを創造しているのが長年職員室を支配してきた「長く仕事をしてきた」人間ではないかと思うのです。働き方改革がターゲットとするのは業務の内容ややり方ではなく、そうした人間の持つ「意見」とした方が良いのはないか?対話にならない文化ではないのか?その結果としての今の(とても広い意味での)労働環境ではないのか?そういうふうに考えて日々実践しているのですが、これが絶望的にうまくいかない。やればやるほどドツボにハマっていくわけです。
語るの綺麗にできてもそれは実践としていつも困難を伴います。
備忘録として雑駁に問題点をまとめておきます。
まず本音と建前の問題です。個人の本音を聞き出すことは非常に難しい。そもそも先に述べた集団に属する話とともに、大人の作法として、そして教育の成果として本音は言わないというのが日本人の美徳だからです。そこはなんとかしたい。ということで本音を引き出すには対立しかないというのが私の結論なんです。対立すれば本音の一端が出てくる。それには怒らせるとか極端な意見をぶつけてみるとかいうことです。割とAとBという個人間ではやりやすいやり方です。
もちろん親友になってしまえばいいのですがそれはまた個別の集団化を生み出すので全体的な民主主義とはまた別の話になってしまう。全体的な民主主語と全体主義とは違います。(それますが日本の職員室は全体的な民主主義を目指しそうな手法を使って全体主義を実現してしまっていることが全国的な研究発表の場でも語られることがあるのではないかというのが個人的な解釈です。取り違えてしまっている。全体主義的な取り組みを民主的な職場と規定してしまうことはうまくいくかどうかの結果には直結せず、見栄えに直結しているのではないかという私見です。独裁的でも全体主義でも民主主義でもうまくいく時はうまくいく、そういうもんではないでしょうか?広がりも深まりもない短期的な全体主義の連続に職員室の集団の暗部を見るわけです。)
なのでストレングスファインダーなどチームビルディングの手法がよく実践されるのだと思うのですが、それは実は作られた雰囲気ではないだろうか、本音を出すことにはつながっていないのではないかということです。もちろんないよりはいいのですが、そこに持続性があるかどうかは継続的な取り組みになるための原動力が必要なんです。当たり前だけどこれが難しい。定例化した脱け殻というのがありがちです。一概に悪いというのではなく、それを如何に自覚して合意してできるイニシアティブが存在するかということです。管理職にはそれは明言できない。そもそもそれを感知できるかどうかもあるけど。
そしてそれがカルチャーとして定着し、杓子定規な人間(というか精神的に余裕のない追い詰められた人間です。すぐに好きか嫌いかをクチにするお子ちゃまみたいなところがあります。)と結び付いた場合、あまり良くない決定的な場面が訪れます。意見の共有の仕方に問題が生まれていくのです。ある特定の人間や小集団がクローズな形で愚痴や悪口を伴って意見形成を行おうとしてくるのです。もう少し簡便に言えば個人を籠絡していくことで意見形成を行おうとする行為です。これは根回しとは違って(やってることはほぼ同じように見えることがややこしいところです。)、敵がい心やメインでありたいという欲望(それは自分にできないとか理解できないことの了解に対する自己防衛であるのだけれど)だけが先立ち、建設的な議論や解決を志向しません。
別に多数派にならなくても声の大きい人間の集まりになれば良いだけなので、そこに注力していきます。そうした集団の特徴は自分たちの主張で対立に勝利することだけが重要だと思う部分に意見の内実が特化していくということです。これさえ勝ち取ることができれば自分たちの勝利が確定することについて特に感情的に、そしてエセ論理的に強調していくわけです。それをきちんと他人に斟酌させるだけの感情的なイライラも自己内できちんと大きく育てていくのです。これは保護者にもよく見られる論理形成過程であってクレイマーの本筋でもあります。
こうした関係性の一端が職員室内で具現化してしまうと皆が「はいはい」と諦めてしまう。
その結果としての本音の表出は対立における集団内への良い影響を及ぼすかというとそうはならない。一つの正解、一つの決定を勝ち取るためもっと言えば個人の正当性を勝ち取る闘争という悪純化のループにハマってしまうからです。
で、結論。
個人が個人の道徳規範に基づいて他者の意見を判断材料にして以降の行動を策定することが自立した個人の動きであることを承認するループにならなければならない。
だけれどもそうしたカルチャーがないのに建設的な批判を出してもそれは結局建設的にはならない。という気づきがあったわけです。またしても。撃沈だなぁ。無念。