崩壊する日本の公教育 という認識について

 先に断っておけば、私もこういう認識をして表現としてこう言うときはある。だけれども、文章というのは同じ内容を語っても真意と論理構成が全く違うということはこうしたときにふと感じることである。
 だからパクった、パクられたという話にはあまり興味がない。きちんと読めばどちらが深く論理的であるかがわかる(はずだ)からである。私はたとえパクった方の文章でもそちらの方が伝わるように出来上がっていればそちらの方が文章としては良いと考えるタイプです。もちろん道徳的、学問的には非常に問題があるし、経済的な問題が絡めばそれは犯罪になってしまうのだろうけれども。ただ残念ながら概ねパクった文章には深さも進化もありません。パクり方によっては(オマージュに近づけば近づくほど)深まる方向に進んでいくのでしょうが、そうなってくると元の文章とは論理構成に伴って内容が変わってきます。知識量でヒトを測ることに警鐘をならす人の中には、知識と見識の量から文章が深まるという点を見逃していたり、忌避していたりする場合があります。脳の持つ繋がりを表現する力を軽視しているんです。こうした思いつきや表現力が突発的に表出されることやそうしたものを全体的に受け取ることは現時点ではAIにはできない。私は未来永劫できないと思っています。それができるようになるということはAIが人間を越えずちょうど人間になってしまうか、人間が知的に退化して安物になってしまうということに他ならないと思うからです。

 前置きが長くなりましたが、おんなじことを考えても言語化は全く違うんだなぁということを考えさせられました。さて本題。
 システムを保護するものとしての公教育という意味で「崩壊する」と言い方ならば同意します。けれども教育現場、教員が崩壊しているということについては賛同できない。別に強がりでもなんでもなく、現場に身を置いてみてそう思う。
 例えば財務省があげた今回の案が報道通りであるならば、財務省は教育システムを保護する気はないということになる。予算の使い方、配分において教育システムの保護としては適切ではないというだけのことだと思う。それが財務を保護するということとは相剋しないと私は思うのだが、そうしなかった理由は政治的な理由であって教育システムのことまで考慮したからではないということだけ。それは現場には、教員には全く関係のない話です。それで現場の明日が変わるわけでも、現場の未来が変わるわけでもない。システムとしては、人材面や質の担保などの継続性や制度改善から見て悪くなりそうではあるけれど、現場は「ありもの」で何とかする活動であるというこれまでのスタンスは変わらないからです。それはシステムがどうこうできる簡単で、単純な領域ではないです。たまに教育においてシステムの成果を誇る政治家や首長、役人がいますが、屁理屈にも程があります。そんなわけないでしょ。

 この記事で一点だけ言っておけば、部活動は教育の一要因に過ぎないだけであって少なくとも結果が先立つべきものではないはずであると思います。(端的に言って私が中学校が不要だと思う一因です。もう一つは高校全入のための予備校化。これらに効率的な教育的な価値があると思えません。もちろんそれ以外の活動には価値があるのだけれどもこの二つの配分が学校生活や子どもの活動様式に大きい)
 なぜが中学校では部活動が学校教育の教科内容並みに重要視されてきた経緯があります。部活動調査に関わった時、設問設定の時に感じた違和感そのものです。教員が負担感を感じるのはそれに対してさらに重要性が加味されているからであって、私の経験の感覚からすれば中学校教育において部活動がそこまでの重さの必要なものに感じたことがなかった(高校教育においては一切感じなかった)からである。
 
 部活動に参加すること、参加することに楽しさを感じること、活動に教育的意義を感じること、ここまでは良いと思う。ここから活動をより充実させることへと接続することがよくわからない。部活動という活動がより進化を目指すのは結果の話であって、必要な過程の話ではないはずなのに、いかなる結果であってもそうした過程を踏んでいくことがどの質問項目においても必然になっているということ自体が私が関わった部活動調査での学生なりの疑問であった。
 教員になって長い時間を経た今なら、教育現場を俯瞰して言語化した今なら、それがどういう意味であったのかが幾分理解できると言える。それは教員は子どものためというマジックタームのために無限に労働の範囲と専門性の範疇を広げていくことにより自己の存在を確かめるという習性があり、保護者、同僚、地域などその周囲はそれをどうにか継続させようとする力を無意識に働かせてその習性を再生産しようするからです。ある意味の共依存(昔流行った懐かしい響きです。当然相互関係のない関係性などあり得ないのだから共依存とは当たり前のことを言っていただけの話です。)関係を色濃く無意識のうちに備えていると言えます。こうしたことはさまざまな言葉で形容されます。勝利至上主義、体罰や行き過ぎた指導の容認、多忙化、生き甲斐・やりがい搾取、ブラック、押し付け業務、出世・主任への道、校務分掌上の分担、産休育休・介護休業の悪用、などなど。とにかく学校内において地位を築いたり、輪番でやりくりしたり、弱い人間に押し付けるために画策したり、ムラを作って自分の都合を強調したりすることになりました。中学校が小学校に比べて子どものイロが薄く、教師の指導ではなく都合が色濃く出ている理由はその辺りにあると思います。

 できる範囲でできる限りのことをする、つまりありものでなんとかするというこれまで通りのスタイルで構わないし、それで崩壊もしない。少なくとも現場は、小学校現場において子ども主体であること、子どもに力をつけていくことは至極当たり前のことであって、そのために多少の摩擦は致し方ないです。誤魔化すのではなく語りかけていく。そのために無理をする必要はないし、まして業務内容の拡張など必要ない。

 もし崩壊を主導するならそれは文科省であり、財務省であり、教育委員会制度であるという私の従来の主張も変わらない。現場はそんな中でも愚直にこれまで通り子どもに向き合っていくだけである。それに対して的外れな指摘をする文科省にお付き合いする気もないし義務もない。教育委員会制度にしても然り。もし過度に要求を通そうとするなら転職するだけである。我慢の範囲を越えるか越えないか、それだけが境界線である。もうすでに文科省−教育委員会の学校管理システムについてはボトムアップする余地は残っていない。崩壊を経た後の再編になるか?それとも・・・

 兎にも角にも、給与や待遇、業務改善がいかようになろうともこれまで通り専門性を持った主体として教育を進めていくだけの話です。いいも悪いもありません。
 教えに浸れるかどうかは外部要因ではなく、教員の心がけ次第であるということです。たとえ阻害要因があったとしてもそれはさほど大きな障害にはならない。教育公務員特例法や地方公務員法、教育基本法はそうしたストッパーとしての役割は最低限果たせているとは思います。とりわけ現場の雰囲気は教師主導で作られていくという枠組みも今は機能していると思います。
 少なくとも崩壊の危険性を対話する余白は必要でも、崩壊はしない。そう予測するということです。

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