ミツカルセンセイが生まれてしまうのは私のせいなんだろうかという反省

 老害が若手にダメ出しするのはいかがなものかと思ったが、先日もこのシステムの課題について現場としての意見を述べたので少しまとめておきたい。

 まず彼に対する意見の前に、教育委員会制度の人事考課の課題についてよろしくない点がある。これについてはここまでに述べてきたところである。例えばこれ。

 そもそも働き方改革に訴求力がないからこんなことになっているわけで、まずそこをなんとかすることが重要です。これは彼の責任ではない。どちらかといえば私の側の責任なんです。それについてはもっと頑張らねばならないと反省します。現場の働きにくさの問題として。職員室が働くためのライトさを持ち合わせていない。もう少し風通しの良い自由な場であればこうした働き方改革など求める必要すらなかったはずだからです。
 結局平成型日本の学校教育の三十数年というのは明らかに職員室を閉鎖的な場に設定してきてしまったのではないかということです。私は平成半ばの入職ですが、その時点での職員室の常識というのが「失敗できない空気感」だったということです。
 今でも忘れもしませんが、私が初任者だった頃、電話口で初任者であることを相手に語りかけようとしたときに、目の前にいたその当時の校長は苦虫を噛み潰した顔をしました。余計なことを言うなということでしょう。この人間の狭量さは後程痛いぐらい感じることになるのですが、ウエの人間ですらこの体たらくになっっていたわけです。若気の至りでこうした空気感を打破しようとしたのですが、まあ今思い出しても恥ずかしいくらいの表立った大喧嘩でした。アホらしい。
 私が子ども時代を過ごした昭和型はもう少しおおらかに許される要因が転がっていたと思います。すごくわかりやすく言えばそれはコンプラ違反であったにせよ、そこに愛があったということです。喜怒哀楽があったということです。体罰にせよ、暗くなるまで学校に残すことにせよ、小学生とメシを食いに行くことにせよ、そうしたこと全般的に楽しさ、哀しみと怒りが混在していたということです。
 平成に至るにつれ、コンプラという言葉ではないにせよ、そうした自主規制と他者の監視による統制が行き渡った産物として前出の校長で現出し、教育委員会制度が存在してきたということなんでしょう。それが良かったのか悪かったのかは評価する主体によって変わってくるのでしょうけれども、少なくとも教育する側とされる側にとって弱者道徳が採用されてくる過程とルサンチマンが存在するようになってしまったのは事実だと思われます。
 これが充分に社会に行き渡った結果がミツカルセンセイが必要になると誤解される社会になってしまったことなんだろうということです。結局今の文科省と財務省の改革案であれ働き方改革であれ、全く充分ではなく、仕方なく善意の教育サポート事業が雨後の筍の如く湧いてくる状況になっているということなんでしょう。(正直にいうけれどこうしたビジネスが儲かるわけがありません。保育事業が儲からないのと同じです。こうしたビジネスはどこかで法令違反スレスレか搾取の構造を作らねばならないようにできているからです。よって善意の事業になるのでしょうけれど人は善意ではご飯が食べられません。)
 その一つがミツカルセンセイなのでしょう。しかし医療関係者のマッチングシステムのエムスリーが一時期もてはやされてものの今の低迷を招いているようにマッチングシステムというのはそもそもそんなに素晴らしい未来を提供するものではないと思います。これは明確に文系学問が主導した社会理論だと思っているのですが、同じ文系学問である教育学的に見ればかなり欠陥のある社会システムであるからです。もちろんマッチングシステムにはシステムエンジニアや数理理論などが援用されていることや経営工学が一枚噛んでいるのですが、その基本概念はゲーム理論や枯れた技術の水平思考などの文系的思考であると考えます。そもそもこの理論の援用の射程がおかしい。そして使われ方としてマッチングしさえすればあとは野となれ山となれという発想に基づいているからです。「大洪水、我亡き後に来たれ」発想そのものです。
 しかし恋愛やタクシー、借金ならば後はどうとなっても良いのかもしれませんけれど、一緒に働くとか教育するという場合にはそうはいきません。それがたとえ隙間バイトであってもです。そこには信頼関係や国家の繁栄を担う責任の一端が発生してしまうからです。これは当人に自覚があるかないかの問題ではない。教員にはその覚悟があろうとなかろうと未来の日本の社会性の一端は確実にのしかかってきます。

 その責任を全て負えというのではなく、そうしたことが考えられるだけの余白は常に教育システムとして用意されなければならないと思うのです。今の教育現場にはそれがない。そしてないことが働く前の若者にまでバレている。それはマッチングで回答するような問題ではないということです。そうまでして人を入れてもその人が教育現場で労働としての教職にコミットできる可能性は著しく低いと思わざるを得ない。元々そういう人はこういうことに参画する気がないからです。それが嫌で教職についていない、それができなくて教職を諦めた人たちを無理してそこに「数」として突っ込んでも本質的な機能をしない。「数」に対応できるように「仕事の方を作り出すという仕事を新たに作り出す必要」(日本語がわかりにくいけれども穴を掘って埋めるためのスコップを作る仕事のようなイメージ)に駆られるというムダを仕事とするというのが今の職員室の風景だからです。
 それは毎日出勤する中で自分を高めて、学校の課題に積極的に参画することを求められている場の設定をされてしまっているのが学習指導要領と教育公務員特例法に設定されている学校です。それをやめてしまった時、その周りにいる働く人はさらにしんどい思いをせざるを得なくなる。もしそういう労働環境になってしまっている場合は人が何人いようとも充足されるわけがない。質が高い人員というより、うまくいかないことを受容できる人員の集まりの中で協業できる職員室システムを求めているのではないかと思うのです。それはマッチングシステムや無理やり増やした人員が対応できる話ではない。

 ミツカルセンセイを論じようと思ったけれど、書いていて結局私たち教員がなんとかしないといけない問題なんだよなと思い直した次第。
 こうしたことに大学休んでまで取り組む必要はない。できたらこの経験が彼の今後のご活躍のために幾ばくかの役に立つといいなと思います。そもそも大人の側が藁をも縋る気持ちで自分たちの作り出した問題の解決のためにこうした善意にすり寄るのが許せません。
 私は自分の周りでとにかくコツコツと職員室の風通しをよくします。それが凡事徹底。まず出勤して今から換気をします。(オイ、そういうことじゃないだろ)



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