ありのまま教師論
教員のありのままを労働の姿としてどうやって許容するかということが単純にブラック化を回避する道筋であることに気がついていない人間が多すぎると思う。これは現場が見えていない人間を選別するのに役立つ視点であるということは大変皮肉な話ではないだろうか?
金持ちになりたくて教員になったとするならそれは当人がモノを知らなさすぎる。もともと教員の給与は必要十分というレベルで良いのだろうと思う。
しかし少なくとももしキャリアアップを目指すなら管理職でない方が良いことぐらいは理解した方が良い。そこはなにかしら政策を打つ方が良い気がする。
優秀な人材は業界にとって一定数必要である。少なくともその獲得を目指すことは悪いことではない。政策上。教育に優秀な人材が集まらなければ即教育の質が下がるからである。いや質は下がらなくとも上がっていかなければ徐々に渋滞して社会の発展から置き去りにされていく。高速道路の渋滞も先頭は止まっているわけではないからだ。
大学は実際そうなっている。大学教員に優秀なヒトが集まりにくくなっている。居るには居るのだが、大学の数に見合わないし、目端の聞く人間はより条件の良い外国や別の職業に流れている。誰が好き好んで無能な老害の下で講座制の奴隷状態を我慢してまで才能に溢れる時間を無駄にしようするものか?ということ。
また札ビラで頬をはたいて優秀な人材を集める手法は古今東西うまくいった試しがあまりない。少なくとも長続きはしない。使い捨ての手法として外資コンサルなどでよく見るけれど・・・そこは思案のしどころだと思う。これまでの経緯を見ても優秀な教員を集める条件としての金銭の問題は二の次になるのは必定ではないか?ばらまきは無駄遣いにしかならないことは、コロナの布マスクや学校現場への大型テレビ配布など枚挙にいとまがない。
給特法の問題はマスコミが面白がって、他者を攻撃することでメシを喰っている人間に同調しただけである。社会問題という括りにすればジャーナリストを気取る人間にとっては格好のメシのタネだからである。これは名古屋大学の彼を見ていれば良く分かる話である。論文書いても誰も見てくれないけどテレビやYahooのコメントならたくさん見てくれるもんね。だからダメなのだ。大学の教員がその程度の知的尊敬しか得られていないというループに自ら望んで身を投じている。そのループの中にいる以上優秀な人材が見れば魅力的な仕事に見えるわけがない。
そこで教員の場合には・・・というのが最初のご提案である。
単純に言えば教育システムが教師の枠組みを決めてこういう教師になりなさいと示すような現行の考え方ではなく、教育システムの方がさまざま人材のあるがままを受け止められる懐の深さを持ち合わせることで個別最適化(この場合の個別最適化は個別の能力を最適の状態に持っていけるようにシステムの方が合わせるという意味での個別最適化である。元々この言葉はバラバラを意味するものではなく、集約を意図していたハズなんですが。)してくれるようにするという考え方に変えてみてはどうでしょうということである。
今の教師の枠組みはミシェルフーコーが指摘したように上からも下からもガチガチに枠組みを固定しようとする権力性のみが特に強く作用するという現状です。
これは日本の教師教育が研究結果として語っている状況とは全く違う流れです。これほど研究が清らかなことを言い、現状が薄汚れているシステムというのはなかなか存在しないのではないか。つまり理論と現実の乖離が甚だしいということです。
実は教職が不人気になった一因は、もちろんイメージの問題が大きいのだけれども、こうした労働の場としての息苦しさがバレてしまったことも大きいのではないかということ。
本来なら表に出なかったようなことが表に出ちゃってるわけです。好例は文科省が打つ政策の数々。もちろん皮肉です。これ全部生身で?
何度も言いますが小学校と中高では一人の教員がやる内容が単純に教科分8倍です。それが毎年1個ずつくらい新たな取り組みとして増えていってます。文科省のせいで。
単純に6年間の中高に比べて学年数で×2。そして教員定数から換算して×2分の3。なんだかウォーズマンがムリヤリ1000万パワー出したときの悲壮感に似ています。
文科省がなんかやりますというとき、その内容がゲンシツと齟齬がないように調節するのは学校個々の仕事です。ただ学校管理職にはできません。そういう知識と技能がある人はそんな仕事には就かないからです。
この辺は大学教員に優秀な人間が集まらない構造ととても良く似ています。だからキャリアアップには使えないんです。モノを知らない人は教職大学院の実務家教員をキャリアアップの先に使おうとしますが同じく無理筋です。文科省が博士3倍とか教員に修士必須とかいうのは不人気であることの裏返しです。昔はググれなかったのでそうした公的詐欺行為にダマされる人もたくさんいましたが、今はそうはいかない。そうしたものに先行きがないことをみな良く分かっている。
それましたが最初のご提案。学校現場で働くことが多様性に溢れている人材を受け止めるシステムになるように制度設計にしていく方が良いのではないかということです。それは給特法の改正やGIGAの二期より費用のかからない、しかも効果が見込める上に教職員のライフワークバランスの構築になるだろうということです。そしてなにより後世に何も残らない無意味な行為より高い効果や制度を残せてなおかつ検証できる余白もあるということになります。なによりこの改革は現場の教員が関わる必要がありません。現場にメーワクがかからないということです。もちろん積極的に提言することは良いと思いますが、現場の意見を取り入れられるように制度設計されていればなお良いでしょう。
もし自分の強みを生かし、ありのままの弱みや自己都合を受け止めてくれて、きちんと見合った評価と労働スタイルを保証してくれる職業があるとするならば、それは働く人にとって魅力的ではないかということです。特に子育て世代においては。こうした部分に教職がフォーカスして食いつくことができれば、人を集めるだけでなく、今居る人間が退職するリスクも回避することができます。嘘にまみれた教職の魅力みたいなパンフを作らずにすむし。
しかし教育現場をそういう風に変えていくには制度だけ整えてもダメです。それだけでは厚かましい人間だけが美味しい汁を吸って肥太っていき、きちんと若者や必要な人間に制度が行き渡る前にそうした人間たちは教職から離れていってしまうからです。きちんと制度を作った後もその運用について公平性の担保や制度に磨きをかけることを怠ってはなりません。実は教員はその辺に対してどれくらい本気で取り組んでいるかを評価しているからです。教職を離れる教員に対して、教育委員会や教職員組合は驚くほど慰留をしません。そうしたことも離職者が多い理由の一つでもあるんですよね。
教育委員会は制度としてシステムとして教職員をケアしていく必要がこれからはあると思います。そうした意味で組合ごとの小さな共済組合のようなものは解体して、保険会社のようなところと提携して大きな共同体に集約して教員に対するケアの一端を制度として膨らませていく必要があるということです。リロクラブ、イーウェル、ベネフィット・ワン、リソルライフサポートといったものとも積極的に共同していく必要があるでしょう。
理論的にも、システム的にも、コモンとしてもあるがままの労働者として教職員という実践を志向していくことがこれからの教師教育に基づいた教師文化を作っていくのではないでしょうかということでした。