閑話休題 絵本の効能

 我が子と喋っているとすごくくだらない話になる。パワハラを知る絵本なんてどうだろうという話になった。「おまえ    たいのか」(自主規制)。宮西たつやさんごめんなさい。こうして意図せぬ失言は増えていくのだろう。そんなアホなことを考えながら絵本の効能について思いついたことがあった。

 図書館教育というのは2000年ごろから脚光を浴びた経緯がある。
 単純に言ってしまえば全く教育の本筋と関係ないところを水平思考で持ってきて第一人者になるというアレである。私の周りにも何の取り柄もない教員がそれだけを持って教育委員会に行ったり、私学に転出したりした。
 図書館のことが教育のどの部分に接地するのか聞いたときその人はまともに答えられなかったにも関わらず。
 エデュカシオンと対比する発想として魂の解放・活性化を意味するアニマシオン。それはとあるスペイン人が読書教育に援用したことは始まりであったと記憶するが、個人的にはアニマシオンとエデュカシオン、つまり教育、は相反する発想であることから出発していると考えるのでアニマシオンが教育としての範疇には侵食しないと考えている。
 その人間が授業時間内に国語の読み取りとしてアニマシオンを持ち出した時、違和感しかなかった。もちろん今の構造的読みを押し付ける国語教育の風潮自体もあまり好みではないのだけれどもそれにも増してよくわからないことを言っている気がしていた。子どもが何をして、何を言えば良いのか、非常に迷っていたからだ。その時はあまりその違和感を言語化できなかったけれども今なら行けそうな気がする。

 子どもの読みの感想がバラバラになることを是とするか、否とするか。それが学びと遊びが接地する時に重要だと思う。これは今の自由進度学習や主体的対話的を目指した授業にも通底する考え方です。
 結論から言ってしまえば、枠組みとしてバラバラになることを意図した授業と結果的にバラバラになることを許容する授業ではそこに生まれる子どもの感覚が違うのはないかということです。なぜなら遊びというのは基本的にバラバラであるからです。これはいつもいう自由の使い方を授業にどう取り込むかということです。今日はそこが本筋ではないので端折りますが、基本的に集団の学びにおいてバラバラの自由はあり得ない。効率が悪いから。単純にそれだけ。アニマシオンというのはバラバラであることを許容する活動ということです。それは授業として考えるなら意味がないし、それ自体を遊びではないということにも意味がない。
 それが何を目指して何を成果として表せば良いかがわからない授業ほど困ったものはないわけです。特に知識に乏しい人間であればあるほど。遊びというのはいずれどこかで役に立つはずだけれども、それがどこかいつかはわからない。それは読書にも通底する考え方です。それはそれで素晴らしいことだけれども効率的ではないし、一斉にやる必要もない。教え込まなくても小さい子でも一人でやってみることができるし、やっているうちに理解できることがある。もちろん一人ではいつまで経ってもわからない時もあるけれどそれ自体は体の使い方に似ていて一人ひとり違う話であってそもそも方法論して確立されるもんでもないことです。

 それますがこの間やっとボールの投げ方がわかったように気がしたんです。気のせいかもしれませんが・・・もちろん投げ方の指導もできるしそこそこ長い間野球をやってきたのでわかっていたはずなのですが、それとは全く違う感覚で投げられたんです。これは走り方にも繋がっていて私の場合年を取れば取るほど走るのが速くなるという珍事が起こっています。つまり体の使い方を理解していない。それは投げる時の体重移動と内旋を連動させる動き、走るときの歩幅とリズムによって力を入れる部位を変える動きというのが人によって全く違い言語化でだけ対応できるものではないことを示していると思います。
 方法論として確立するよりも考え方や思考法としてのみに留める手法にするということで拡張性を担保するということなんだと思います。しかしこの手法は人によってあまりにも受け入れ難い気持ち悪さを内包していることを否定できません。万人に基礎付ける感覚としては非常に合致しやすいようで全く合っていないということなんです。(いわゆるヌルッとした感じであることです。これを嫌う教員は非常に多い印象です。)

 これがアニマシオンを学びとして採用するということなんだという感じです。これ自体は非常に味わい深い行為のように見えますが構成員の総体としての力量を非常に必要とする、というか強要します。それが初等教育として、公的教育として、適切かどうかは非常に疑問でもあります。
 であるなら限定的に基礎的部分と応用部分をこれまで通り、書く活動を漢字学習と調べ学習(ポスターセッションやパンフレット・新聞づくり)で分離するだけで十分であるということです。読みについては個別性と独自性、およびその意見を具体化する力を育成することに注力するということで良いのではないか?そうであるなら一般的な読解力にさほどの意味がなくなるはずです。日本では読解力というのはより一般性を帯びれば帯びるほど正解であると認識されていますが、そもそも個別を共通理解化できる力こそが読解力ではないかということです。それは教育で養う力というよりはアニマシオンを基底として所持している個人が教育の場に立った時に具現化して本人および集団に作用する(作用しなおす)流れでしかないのではないかということです。それは教育と結合させるのではなく、切り離して別々に存在させることでこそ力となりうる可能性が出てくるのはないかと思うんです。無理して結合させることでより意味がわかりにくくになり、先ほどあげたような気づきの遅さを作り出してしまうのではないかということなんです。一人でならもっと早く気づいていたかも知れないのに、教育されたばかりに気づきを著しく遅くしてしまったのではないか?

 そこから派生するのがこの絵本の効能ではないかという発想です。教育における読みは、文章から想像を廃した読み取りになりがちな点があります。本来は文章の方が想像力を掻き立てるはずなのにそれがエデュカシオンになるのとそうはなっていない。それは教育の持つ限界でもあり、教育の持つ一般性への希求でもあるということなのではないか?それはアニマシオンと比べ、個別性と読みと比べ、どちらが正しいということではなくそれぞれの役割であるということなんだと思います。

 そうした意味では国語の読みの中にも絵本の読みがあっても良い。しかし絵から読み取ることに対する否定があっても良い。絵と文章の連結性についてラテラルな想像があるとともに、絵と文章のデカップリングが根拠として語られることが自由であることも許容されなければバランスが取れないということになると思います。それは読みが自由であるということを指すのかというところがメタに語られる必要があるのではないか?そういうことです。絵と文章がマッチする気持ちよさが絵本の醍醐味であるとともにそれを疑うことができるところに新たな絵本の存在価値を求めるということです。

 本来読みというのは「場の設定」によってその可変性があることにその価値があるということなのに、学校教育ではそうなっていない。そこに読みという価値の深さがあるはずなのになぜかアニマシオンや学校教育におけるエデュカシオンの形式はそうならないように自分たちを縛っていく傾向にあります。

 一言で言ってしまえば「価値の多様性」であることが題材しても絵本の価値であるように読みの客体(主客はさほど問題ではないにしても)としての存在は時間と空間を越えて多様性(というよりも認識の量子力学的理解)を提供していると思います。

 絵本を読むことにまで強制性を持ち込むことは、つまり教育で絵本を読むことの馴染まなさと同義なのだと思います。遊びは遊びとして教育の時間内に存在しない方が良いということと非常に似ています。

 絵本を読むということは遊びである。
 教育が口を出す問題はないけれど、教育するために使いたい知識や技能が散りばめられているということなんでしょう。

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