参加者主体の研修づくり
これは実は「主体的・対話的で深い学び」並みに矛盾した話です。
なぜなら研修における学びは主催者が方向性を決めなければ状態がカオスになってしまうからです。
方向性があっても参加者に委ねてしまうとズレてしまう確率が非常に高くなってしまいます。しかもズレた状態を放置しておくと参加者の不満が高まります。どうしても研修参加者というのは受け身の状態であることが多いからです。またズレた状態を放置するとどうでもいいことでお茶を濁して時間が過ぎるのを待つことにつながります。
教職員研修が持つ特異性になります。
他の研修には明確に技術や知識の認定があります。
例えばプログラミング言語の研修では、その知識と技能さえ身につけられれば良いわけで講師と受講者の間で非常にわかりやすいwin-winの関係が構築されます。それに加えて同じ職種でのコミュニティ形成が行われる助けにもなりますし。
しかし教職員研修では獲得される知識や技能は固定的ではありません。そもそも国語の授業のやり方、算数の教授方法に正解はありません。やってみないければわからない部分というのが確実に存在するからです。しかも信頼関係がなければ如何に型通りやっても授業はうまくいきません。
偉そうに学校に踏み込んできて信頼関係もないのに飛び込みで見知らぬクラスの授業をやって悲惨な事態に陥ることをよくみます。こんなことがなぜ平然と行われるかというと子ども関係なしに教師がやっていること、つまり教授方法を見るということをやっているんですがそのことには私はほとんど意味がないと思っています。おそらくこうした連中は固定的に「正しい」教育技術というものが存在しているという前提で話しています。
こういう話をするとカウンターで「お前は不可知論だろ」と言われます。お前平田だろ的なノリだなと思うんですが年齢と趣味がバレるんで苦笑するだけにしているんですがこうした中途半端な聞き齧りで他人を批判する奴がこの界隈には多すぎて困ります。
ダイナミズムという発想は確かに理解し難い感覚だと思います。かくいう私も若い時は理論だけで現状をスパッと斬るという宮台真司みたいなことをやっていました。それに対してダイナミズム的な苦言を言う年寄りと戦って学生に向かってどっちが理解しやすいかみたいな煽りをやっていました。やってることが宮台真司や成田悠輔と一緒すぎて笑うんですが、確かに若者はわかりやすい方が好きよねということです。それは良い悪いという話ではない。そういうもんだということです。というかそうでなくてはイカンということ。なぜならその対立の過程こそがダイナミズムであるからです。ダイナミズムというのは結論が変容することを許容しながらその過程について論じていくことです。すごくまわりくどい。今ふうにいうとモヤモヤするんです。でも考えてみれば「現実」はモヤモヤすることばかりです。モヤモヤすることをスパッと切って時間短縮できた時に人は得した気分になるのでしょうけれど省察してみればそれが必ずしも良い結果をもたらしたかどうかは疑問であることもある。タイパという言葉はこのお得感に着目して生まれました。一つの目安としてのタイパは悪くないけれどがダイナミズムであり、タイパだけに固執することが宮台の発想だとすれば思考の方向性としての違いがわかるかと思います。どちらが正解かという話ではない。
しかしながら若者だけでなく、こうしたダイナミズムそのものを受け付けない、受け付けるだけの度量のない人間というのが結構多い印象です。実は主体性を尊重したいなら、主体性の土壌というのはとても大事です。これは要素とはまた違ったモノです。主体性の評価基準を考えるときに何が表出できていれば主体的かを考えたことがあるのですが、厳密に言えばそれとも異なってきます。
気長にコツコツと今に集中して楽しむことのでき、マイナスな方向に他人を巻き込まない人間にこそ主体性が宿るということです。コロコロ対象が変わること、ネガティブな発言をすることなどはそうした土壌ではありません。例えばすごくネガティブな発言をして会議の空気が悪くなることはよくあることですが(無能な上役というのはこれを不規則発言と断じて切り捨てようとするか、その人間を解きほぐそうとして冗談にはしる)これは誰かが悪いというよりは会議というものをものを決めるためだけに儀式にしてしまっているその組織に問題があると考えた方が良いです。ということ。
それぐらい対話に傾斜する覚悟がないのなら主体性を論じることはできないということです。
誰かに言われたことをやるという話に主体性を求めることは無理筋です。今の教育現場では子どものそれを求めています。というかそういう疑似的な取り組み、私に言わせると「偽の発見」というのはこれまでの日本型学校教育ではフツーのこととして存在していました。それを受けて教え込み教育という批判が一般的に行われていたことの不思議について誰も異議を唱えなかったことの方が私にとっては不思議です。こうした矛盾自体がダイナミズムの産物であることを踏まえなければその存在自体を無かったことにするという解決方法しかできないのです。
こうしたことを理解できない教職員の学びは残念ながら主体的にはならない。子どもと教職員の学びを同じ俎上にのせて議論するということはそういうことです。もちろん無理な人、好みじゃない人、そもそもできない人、さまざまいるでしょう。しかし教職員研修の参加者が主体性を発揮することを目指す枠組みづくりというのはこれから進んでいくでしょう。子どもにやれと言っておいて教職員が逃げることは許されない。その場合重要なのは研修時間が業務として保証された上で学びとして成立していることを証明する評価方法が共通理解されていることになります。もちろん研修終了時点での実現性だけが評価ポイントになるだけでなくこのことを踏まえて実践してわかったことがあればそれはいくら後であってもこの研修の評価ポイントになります。そのつながりこそが流動性の高いグループ属性にもなり射程の長い主体性の育成ということにもなります。本来はこうしたことが教育実践研究の対象であるべきで継続性と長期的展望に基づく研究というものが独自の視点で一般化していくためのビッグデータということです。これはいわゆるコペルニクス的転回で実はものすごく評価されていた実践者は大したことがなくて、全く肯定されてすらいなかった実践者にフォーカスが当たるということも大いにあるわけです。しかしそれはこれまであった流行りや一時の心情的な盛り上がりの先にあるようなことではなく学問的な事実の積み重ねや熟議によって形成される評価基準によって生み出される必要があるということです。
これまでの教育実践はネームバリューや附属学校、大学との共同研究や既存の実践論文、出版、自治体や教育委員会の宣伝などの見た目や出自が重視された劇場型の評価によって「盛られた」ものしかない状態だった。なくはないのだがそれ以外は不可視化されることが一般的であった。今これらの中から異端で表に出なかった教育実践や教育に対する向き合い方がSNSなどを通じて漏れ出始めています。こうしたものは常識から外れていればいるほど受け入れられやすい。より差異が生み出せれば出せるほど価値に繋がるというのは多様な社会における特徴です。よってちょっと極端でキャッチーにならざるを得ない。実際にそんなことをやり続けてたらこっちも子どもも大変です。しかしこれまでの教育実践のつまらなさも今のような尖った実践観もどちらも俎上にあげて上下左右に解釈しまくることによってそれらの実践の意味づけや評価基準の生成につながっていくし、そうしたことを主体的に心理的安全性を携えてコミットしてことがこうした研修になっていくのではないのかということです。
参加者主体というのは丸投げではなく、結果が伴う必要がありその過程において自己の創作物があり、他者との意見交換や相互評価が高い次元で混じり合うことが確定的になっていなければならない。結果考え方が肯定的否定的、右より左より、ロジカルラテラル、現実的非現実的、どの方向に進んだとしてもそれは尊重されることは最初の前提として保証されていなければならない。
そうした丸ごとの活動の中に身を置いてかつ、そこで生まれる創造物については正解不正解に関わらず認めれる必要があるということ、これが実は小学校教育の主体性としても認定される必要があるということと同型になるのが学びにおける「主体性」の要素なんだろうということです。
極端に言えば、議論を尽くされた上で1+1が2ではないという結論が創造物として練り上げられたとするならそれは認めれるべき評価基準であるべきだということです。
おそらく今学校の主体的・対話的な授業において一番問題になるのはこの部分であろうということです。こうした部分について非常に狭量な評価しかしないのが学校管理職や教育委員会であり、大学教員であるということです。ダイナミズムを理解できない人間がこの辺で合ってるか間違っているかだけにこだわってしまって大きな流れや学びの柔軟性にはコミットしようとしないわけです。結果だけにこだわらないことは結果を打ち捨てることではなく、結果すらも次の学習のための踏み台にしてしまおうとすることだということです。間違っていることを合っているというのではなく、間違っているけれどそこに達するまでの過程の向き合い方を主体性として認め、評価するという観点こそがダイナミズムの中における主体性の見方なのだということです。
ただこれについては学習の対象や方法、協働の仕方について学習者の自由を無条件に認める必要があるため、指示待ち人間にとっては非常に苦行を強いられることになります。実は学校管理職や指導主事の中にも「これでいいですか」「これはこうですか」が口癖のように出てくる指示待ち人間というのはたくさんいるのでこれについてはこうした研修が一般化するにつれてこうした人間を学校管理職にしないような評価方法につながっていけば良いなあと思う次第。
ここに挙げた以外にもこうした研修スタイルには最大の課題があって、まだまだブラッシュアップする必要があります。でもこうでもしない限りは少なくとも日本型学校教育がこれまでと違うものに変わることはあり得ません。それは大多数を占める労働としてだけ教育を行なっておけば良いと考える教職員の層に対してこうした意図を理解させることに非常に大きな困難が伴うからです。それを可能にしていくことがどんな方法よりも教育を変えることに効果があることを少なくとも優秀な研究者間か官僚間で共通理解にしていかなければダメだということです。そしてそうした人間がそのやり方を考え実行していかなければならないということになります。
それは私の役目ではない。びっくりするくらい人望がないので。