教員の業務過多は世界共通。しかし・・・

 結婚するかどうかは個人的な事情なのでさておき。
 こうしたことでいきなりの死を迎えることに関しては、それがどんな人であれ無念だと思う。若い人がそうなることには特に強くそう感じる。50過ぎるといつ死を迎えても仕方がないと思うようにしているので、それが突然の死であってもそれは受け入れるしかない。多分喚き散らして醜態を晒すことになるは間違いないのだが。

 だからと言って、業務過多を減らしましょうということにはしません。

 私が捉えたい課題はここ。

仁川教師組合の関係者は「教育庁は支援スタッフを配置したと述べるが、予算をつけただけで、実際の運用はこの教師が担っていた」と指摘している。

上記Yahoo!ニュースより

 現場がこうなってしまうのはそれを管轄する省庁と教育委員会制度(+管理する職)が機能していないことにあるのだということ。

 おそらく「中の人」は機能していると言い張るだろう。そう機能しているのは上部の制度に向かってはしっかり機能している。こうした省庁はウエの意向に従って仕事をすることになるだけのことである。これを指して私は広い意味で官僚制と理解しています。官僚制の理解には諸説あります。中央集権が良いか悪いかの話なのですが・・・。
 これまでのアカデミズムはこの官僚制を批判する装置になっていた時代がありました。2000年ごろまでかな?その頃までしかアカデミズムに関わっていなかったのでそうした理解なのかもしれません。それ以降は新自由主義や小泉改革、地方分権、ポピュリズムの流れに沿って官僚制が批判されにくくなってきたのではないかと私は感じているのです。

 官僚制がなくなったわけでもなく、話題に上らなくっただけでそのデメリットがなくなったわけではありません。もちろん官僚制のメリットもあるので誰かのようにぶっ壊すだけではいけないとも思います。
 特に教育行政における官僚制の悪弊は結局今起こっている教育問題の全ての根底にあるのではないかと思います。それはいつでも先手を打つではなく、課題に対して後手に回るだけの対応だからです。
 教育問題の改善を個々の問題への対応にしてしまうことは「後追い」になるということはよく言われることです。若手がクラスを壊す大きな原因は常にこの後追いをすることで教育課題を「積み上げる」ことになることにあります。これは実は若手に限った話ではなく下手くそな年嵩の教員でもやらかすことです。少しずつ課題を解決することをサボって口先三寸で誤魔化(問題がこうした取り組みは見え方としてうまく解決していく教員のやり方と同じように見えてしまうことなんです。クレーマーが良い方をクレームして、悪い方を比較・賞賛することが教育現場ではよく起こってしまうことなんです。このニュースの教員も良い教員であって悪い教員との比較で、教育効果の見方もわからないようなクレーマーによって精神的に追い込まれた可能性が大きいと思っています。良い悪いの問題ではないのですが結果としてそうなる過程を踏むということです。)すんですけれど、最終的にこうした人間はエライ人間を多数巻き込んで自分の誤魔化し自体を誤魔化してしまうので、表に出にくいだけの話です。
 それたけれど、そもそもそうした仕組みになってしまっているのも教員の勤務評価のやり方、労働組合の自己保身といったことに大きな問題があることも含みます。
 労働組合はそうした制度に対するカウンターなのでは?と思うかもしれませんが、今の日本にあるすべての労働組合は度合いに多少の差異はあれど官僚制と癒着しています。癒着というよりは労働組合が官僚制を採用していると言った方が近いと思います。労組貴族とか民僚とかいう言葉があるようにそうした人間は細々した組合費をチマチマ集めて肥え太っています。教育系の労組が問題を解決しようとしても根本的な解決にならない理由はこうしたところにあります。

 官僚制が持つ組織防衛・増大の方向性がウエがいう大きな物語を実現するための小さく分断された部品のための組織づくりに成り下がっているのです。
 これが現場に及ぼしている影響は、どこにシワが寄るか?それは当然のことながら「弱い者」によります。この弱い者というのは極めて単純に言えば自分の責任を自分で処理できない人間ということになります。しかし先ほど述べたようにこれを誤魔化してなんとかしようする人間も弱い人間に入ると思います。最近の教育委員会やクレーマーというのはこうしたところにも攻撃を加えるようになってきたからです。それを均一化といって賞賛することはトリクルダウンにつながるのでできません。同時にこうしたことは現場のいじめ体質を強化するようにもなります。弱い者をいじめの対象にすることを容認するように見えるからです。子どもの理屈と同じです。教員にはダメだと諭すようなことをウエがやるというのは、指摘され過ぎています。
 もちろんそうしたことを明言することはありませんが、イメージとしてそうしたことをきちんと認めていく組織にならざるを得ないんです。

 管理と受容をベストミックスするもしくはそうしたことを目指すことを明言するような組織でなければ、今の教育課題は解決できないということではないでしょうか?
 これをやります。あれをやります。子どもファースト。保護者ファースト。something newにとらわれ、ポピュリズムに堕した組織に一体何の意味があるのか?成員の数の多さ、種類の多さ、思考の多様性、関わる人間すべての能力の問題、などなど教育を分析する要因はたとえ一つの学校、一つのクラスルームであってもその複雑は度が過ぎています。

 そうしたゲンジツへのコミットもできないくせに偉そうに上意下達だけでなんとかしようするその行儀の悪さに辟易とします。
 物事を進めて合意していくことがものすごく難しいことであることをもっときちんと理解する必要があります。「やり過ごす」だけで教育行政がなんとかできる時代は終わりました。
 偉そうなことを言う前にそもそも教職員定数の算定などという現場に人を足りないようにするための義務標準法の数すら充足できない自分たちをなんとかした方がいい。
 そして足りていないところに学期途中で欠員が出て現場が回らなくなっているところに穴埋めする人だけでもせめてなんとかしたらどうか?そんなことすらできないのか?
 来年以降も教員志願者が減り続けること確定なのでなんとかするべきです。前倒しなど子どもの発想です。そして数合わせをするのは一般企業では粉飾決算という立派な犯罪行為ですよ、先に言っておきます。
 そうして低倍率の数合わせで雇った人間がすぐに辞めたり、学級を壊したりする可能性が大きいので前もってその穴埋めを考えておいた方が良いですよ。またそうした人間の中には自尊感情の塊で上昇志向だけが強くすぐに出世するようにくだらない見栄えの良い実践の数だけを無駄に量産する人間が多数含まれているのでその対応もお願いします。
 これらの不具合は全て、学校にいてとにかく齟齬なく学校運営に携わっている目立たない教員にこの上ない迷惑をもたらします。縁の下の力持ちである教員と子どものことを教育「制度」は問題にもしないし、スポットライトを当てないからです。

 目端の効かない生半可な人間は自分たちの組織防衛が組織崩壊を起こし始める様を指を咥えてただ見ていると良いでしょう。
 今こそ「縁の下の力持ち」人間に必要なのはこうしたことに手を貸さずに粛々と愚直に自分の仕事の質を高めるようにすることに邁進することなのだと思います。悪いですが甘い汁を吸い続けた人間のために手を貸すことはありません。情けはそういうときに使うものではないからです。


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