命を軽視するに指導する「理由」

命を軽視する児童への指導があった件について。
そもそもこれが授業内においてどの程度の影響を及ぼすことであるのかということになってくるのだと思う。

「一緒に死のうか」
これって仕事で言わなければならない言葉なのでしょうか?多分私より若い教員が言ったのでしょうが、意図と感情がわからないけれども、口にするには少し重い言葉だと思います。もちろんふざけて言った可能性もあります。しかし後出し体罰指摘があった以上、かなり追い詰められた状態の指導であったことは想像できます。
別に死ぬつもりはなくともそういうところまで行ったということでしょう。言い方悪いですがたった一つの授業ぐらいでそういう状況までいかないといけないというのは余程の積み重なりがあったということなんでしょう。クラスルームがこういう状況にならざるを得ないということがあったということなんでしょうということです。こうしたクラスルームの困難を放置せざるを得ない学校というものに存在価値があるのか、もっと言えば学校管理職に存在する意味があるのか、その教育委員会に存在して良い理由があるのかということです。何か考えることはないのか文科省ということです。

 もう一つはこうしたことが外部に漏れてしまうということです。ただの一言に対してまでもこうして外部に出てしまうということです。それがさほどの重大事案なのかということが周りの人間できちんと共通認識されていないということです。
 ただただ糾弾するために存在する一言になってしまっているということです。事実がなんであり、どういう経緯があったかということは一切問題にはならない。「理由はどうあれ」という言葉を教育委員会はよく使いますが、教育現場では「理由はどうあれ」は通用しない言葉です。理由がどうあれを容認するなら「理由」はエビデンスとして存在しないことになります。子どもが理由があってしたことでも容認できないことになってしまうことです。なぜこの言葉が成り立つのか非常に疑問なんですよ。
 だからこうした問題が起こった時には教員だけがスケープゴートになるという解決方法しか無くなってしまうわけです。
 犯罪行為という事実認定があった場合の「理由はどうあれ」と教育活動の過程においての「理由はどうあれ」は全く話が違います。なぜ教育委員会制度はここを味噌も糞も一緒にしてしまうのか?
 外部に出た時点でこうした事実はすでにバイアスがかかり、捻じ曲げられ、話す人間にとって都合のいい解釈にまみれた、「理由はどうあれ」自分にとって都合のいい「語り」になってしまうという前提があることをわかっているにも関わらずです。

 そして行き着く先は保護者の自分は悪くないという落ち着き先、落とし所という話なんでしょう。これが後出しジャンケンの極みである体罰があったという話なんでしょう。意地でも学校側に落ち度があったことで話を終わらせなければ済まされない。そういう意図が惜しげもなく放出されています。おそらくこの件に関わっている保護者は一人だけではなくなっているはずです。保護者や児童の間で情報が錯綜し、それがLINEで共有されて、新たな「指摘」を生み出していたり、発掘してきたりしていくことになるからです。保護者説明会などを経て新たに参戦していくことがあるあるだからです。

 日常的に教育活動を行なっていれば、「不適切」と指摘する行為を見つけ出すことはさほど難しいことではありません。なぜなら大人は誰でも教育活動に触れた経験があり、ズレについて感知することが許されているからです。体罰、暴言、不適切発言という指摘先はそこら辺に転がっているわけです。それがクラスルームの安全を守り、学習活動を生み出すということだからです。

自治体がそれを守って教育活動を続けたいなら、教育委員会が教育活動を行なっていける正当な「理由」を市民にちゃんと示してくださいな。
「理由はどうあれ」と言われない「理由」をね。

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