私がnoteを書く理由および得たもの2024

 教員としての視点から教育に関して、子育てに関して、もう少し大きく言えば子どもに関してnoteを書いてきた。そうした営みを継続するにつれ少しずつ深まってきたし、形になってきた感覚がある。

 一つには継続には力があるということ、それに付随して言えばその継続には他者の承認を必要としないということである。これを書き始めると長くなりそうだけれども、今のSNS社会というのはフォロワー何人、何万ビューという煽り文句に溢れている。これは商業主義に推しの要素〜それはつまりこれまでなかった個人的繋がりが容易になったこと〜が広く採用され始めたことが大きい。もちろんそれはインターネットの発達もあるだろうがそれよりプラットホームとしての成熟が大きいと思う。日本におけるXの威力、そしてfacebookやmixiなどの「場」の提供があったことなのだろうと思う。その中で私がnoteを選択した理由は「長い文章」が提供できることと記事の普及について独自の味付けがあったことに他ならない。これは先立つメディアにはなかった先進性ではあるが、それがこれからのマネタイズ、つまり資本主義の潮流に直結するかどうかは正直自信がない、というか私自信がそのことに興味がないと言った方が良いかもしれない。申し訳ないが私がnoteのために存在しているのではなく、noteが私のために存在していると言った方が良い状況になっている。それは昨今あるようなサービス終了の流れに贖えないことを表しており、そのために私に何ができるかを考えていかなければならない状況であるとした方が良いのかもしれない。幸いnoteは上場企業であり、後藤達也さんや山口周さん、その他クリエーター、あと企業のメディア活動に方で収益化できるだけの体力がありそうなことは決算報告書を見ていて理解できる。いずれ個人のアウトプットが社会や企業に貢献できるようになれば良いのではないかと考えている。しかしインフルエンスと違い、アウトプットをマネタイズするためには後一段階上の社会的合意が必要になると思うし、それ以上に社会的な知的欲求や知的レベルの底上げが必要になるのではないかと思うのです。
 それが山口周さんが言う知的戦闘力なのではないか?彼が彼のアウトプットでマネタイズしている戦場がnoteにあることは私にとっては非常に心強いわけです。それは後藤達也さんのように既存メディアの本丸そのものに牙を剥き、在野として活動することに活路を見出したことにも通底するようになったこととも関わりがあるということです。
 しかしながらそれは間口を広くするだけではなく、淘汰への序章である必要があることも同時に考えらえるということです。底浅いことを垂れ流すことをマネタイズしていけばいずれそのメディアは見捨てられていくことが確実だからです。それは今先ほどあげたサ終という概念で顕在化しているということです。それは大手であることとか会員が多いこと、有名であることが必要ではないという変化を表していると思います。これから考えていかなければならないのは深さを共有できるコミュニティを作ることができないサービスには存在意義がないということなのでしょう。
 その先をどう作るかということがこの先私がここで展開していかなければならない論点なのだと思います。それは来年の課題としておきましょう。

 さていつも通りそれていきましたが、その時点で思いついたことを書いていくことに徹してきた今年のアウトプットとしては上出来なのではないでしょうか?ニーチェの超人思想ではないけれど、こうした自己満足に対して肯定を示してくれるプラットホームがnoteなのではないかと思うわけです。それはスキの数、マネタイズの量だけで区別しない能力主義の否定が(個人的に)感じられるということに起因します。
 今年1年お世話になったnoteに感謝申し上げておこうと思います。
 だからといって(本当に申し訳ないけれど)おもねるわけにはいかない、もしそうすればそこにnoteの存在価値がなくってしまうと思いますというループなんです。
 そこが日本が独自に持つべきコミュニティとはなんなのか?ということです。
 はっきり申げておきますがブログや個人HPであればここまでのページビューは生まれなかった。それは学校の職員室という極めてドメスティックな場ですらもコミュニティを築く難しさが身に染みているからこその感覚です。そもそも〇〇研究会を主催しているという人間が私にはよく理解できません。その構成員はその集まりの趣旨に全面的に賛同しているのか?だとすればそこはもう宗教の世界であり、その枠組み以上の発展はありえないことになってしまいます。では個々の発展性を尊重しているのか?そんなことをすれば集団としては瓦解するしかありません。すごく単純に言えばそういうことです。そういう主催者が自分が周りの個の伸長によって自分が埋没することを容認するとはとても思えないからです。それを容認できるぐらいなら最初から主催者にはならないからです。そうしたコミュニティにも来年は挑んでいかなければならないと思います。それはそうした人と喧嘩する、議論するということではなく、そうしたことを脱構築することで新しい枠組みでありながらそうした集団以上の成果が作れることを証明できないまでも、言語化する過程を示すということです。それができれば学校現場における新しいコミュニティ、学習集団の組成過程を明らかにできるはずです。

 基本的にはnoteには事実を書かないように心がけてきました。それは教員としての守秘義務を守るということであるし、個人としての自分を防衛することでもあります。批判の対象であることが望むところであってもそれは知の主体としての個人である矜持であって、叩くことを是とする(個人主義を理解していない生半可な知である)日本のSNS社会においてはなかなか成り立たせられないことです。
 欧米の書物に倣えば、かなり文学的に書いてもそこからの解釈が広がることを実感できます。でなければあんな本がベストセラーになるはずがないと思う本がたくさんあるからです。あんな書き振りではおそらく日本のアカデミズムではいじめに遭うこと必定です。それぐらい欧米のアカデミズムに在籍する筆者の書物は文学的で、ある意味夢想的な書き振りであると感じます。学術書であっても物語であるかのような錯覚に陥らされることがしばしばあります。あくまでも個人的感想ですけれど。

 そうしたことを鑑みれば日本人仕様であるような、エビデンスを示して相手を論破するような書き振りである日本型アカデミズム様式に来年は挑戦してみても良いのかなとも思っています。(そのための材料は今年1年間でずいぶん貯まりしました。しかしそれより大きな収穫はそれをいくらでも紡ぎ出すことができるようになった連結性なのだということです。)しかし今の日本人の知的水準が長文にならざるを得ない事実だけに根拠を求めるモノを読むに値するかは非常に疑問です。おまえ何様だというご指摘は甘んじて受け取るにしてもそうした価値が価値として受け取れるトレーニングをしていないことは日本の大学教育を見ている限りは絶望的であるとしか思えないのです。もう少し言えば日本のアカデミズムを作り上げている後期博士課程における出来の悪さである気がします。ここにおけるトレーニングの足りなさはおそらく前期博士課程からつらなる方法論の拙さであるのでしょう。自分の来年の考察がこうしたところにメスを入れられるようだといいのですが・・・。

 それはさておき私自身の探究のメインとしては、エイプリールフールに書いたことの実現に少しでも近づく必要があると思っています。(もちろんまだ本論にすら辿り着けていない「無駄の研究〜教育の本質」も書き進めなければならないのですが・・・)

 今読み返してもよくわからないのだけれども、(自分の文章なのに?)とにかく「日本型学校教育」とはなんなのか?を文学的ではない観点から書いてみたいと思っているようです。というか文学的な観点とデータ駆動をミックスした欧米的な書き物になっていけば良いのかなと思っています。

 今感じていることがこうした過去の偉人たちの論理展開というのは必ずしも形而上学的な固定にはなっていないということを今年1年間書きながら実感したことにあります。概念規定していることそのものが疑わしいということです。そうしたことを自己流解釈でまとめていきながら自分の主張を展開する書き方をしていく、それを愚直に実行していく必要に駆られた。

 それが書き続ける理由であり、私の得たものなのだろうということで一応〆ておきます。

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