学校組織において伝達として明示しておくべきことシリーズ 前提編
対話の前段階として共通しておかなければならないことがあるのです。集団で仕事をする以上。おしゃべりではいけない。
それは子どもは叱らないとか褒めるとか、授業は準備するとかそういうことではないのです。
たとえば教育に関わる以上個別に正解というものはないし、それを求めてはいけないということ。それは結果としてムラ社会化しがち、グループ化しがち、形骸化しがち、他者を排除しがちになってしまうからということ。
これを合意とかいう以前に明示されておかないとそれに対して意見を持ち寄って対話に持っていくことすらできない。もちろん絶対的な聖典ではなく常に改変と訂正を加えられなければならない。しかし明示しておく必要がある。でないと対話が対話にならないから。この訂正が重要であるのだけれども絶対視するわけでも、コロコロ変えるだけということでもない。明示されていて誰にでもアクセスする事ができるのだけれどもあえてアクセスしないことにすらその存在意義があるぐらい懐が深くなければ全員参加型の対話など生れようものもない。
ということはできればかなり削ぎ落としておきたい。しかし追加する事があっても良いけれどその時には必要なさそうなものから省いていくことに躊躇があってはならない。重要な明示なのだけれどもその程度のもの。
叩き台にもなっていないけれど、教育を業務として引き継いで対話を常に活性化させることができる前提にならなければならないモノを作っておいた方が良いのではないかということです。
これまでドラスティックに対話を成立させようとしてきてことごとく失敗してきた身としては(シビアに見過ぎているというご指摘はあるものの)きちんとどんな相手に対しても成立させるということはすごく大切だと考えています。たとえホウキを相手にしていてもプロレスとして成立させ観客を納得させることにとてもよく似ています。それはそれは困難なことです。
対話として話題提供を考える前にマナーとして、心構えとして、人として、(教師としては忘れても良いけれどその前段階としての感覚的な)建設的であるための佇まいという主体性なのだろうということです。
よーいドンで「さあ対話です。」は無理なので、(できるときも、できる人もあるのだけれども)いじめについて解決に向けて話してくださいという内容と方向性だけではなく、その前段階としてこういう意見がいいよとかこういう話ぶりがいいよとか、そもそも自分の意見に対してこういう返しをしてくれる人を信頼しましょうとか、それをわかってもらえるためにこういう話し方、言葉の使い方、説明の仕方を採用するのがいいでしょうみたいなお作法とかルールとかに触れておくということです。
それがなくてはすごくシビアな意味では実践的に参加して主体性を発揮することなどできないと思うのです。少なくともそれを強要する側としてそれぐらいやっとかないといけないでしょ。本当にそんなところまで考えて仕事している人間が学校管理職や教育委員会・文科省、大学教員の中にどれだけいるのかが疑問です。
まさか対話なんだから、主体性を持ってやってくるのが当たり前でしょぐらいに思っているんじゃないでしょうね。もちろん結果がうまくいくかどうかは誰にもわからないということも事前の明示にあって然るべきだと思うし、その上での努力に対して敬意を払うということも同様です。しかしその先にはシビアで建設的な否定を(優しく)手渡し合えなければそれは対話としてはうまくいったと言えないのではないかということなんです。
元来本音と建前を相手によって柔軟に使い分けてくれる日本人にとって対話の成立とは非常に困難な話なのです。
そこまで考えた上で主体的・対話的といっているのかな?という疑問がとても強いからこそ、できているとか言っている人が本当にできているのかな?という疑問があるからこそ、こうした取り組みが必要なんではないかなと思います。特に大人の場合、ましてや教師の場合。
他の学問ほど教育学関係が先行研究について統一的な言語化を行なっていない、実践的な融合がない、そういった中で方法序説や論理哲学論考のように短くスパッと本質だけを語る必要はすごく感じます。実践の中でそんなカルチャーができるのかということです。