教員に特別支援教育経験を強制する意味がよく分かんない

 不覚にもこの通知を感知していなかったわけです。こののちに教頭選考試験を受けたにも関わらず。2022年の各指定都市・中核市教育委員会教育長等宛に「特別支援教育を担う教師の養成、採用、研修等に係る方策について(通知)」(3文科初第2668号)なんでしょうけれど、これ実際、文書自体には中身がないんですよね。どう読めばいいのか悩みます。見るとこ間違ってるんでしょうか?

 Yahoo!ニュースによれば、さらにその元の教育新聞のニュースによれば、2023年度以降に新規採用される教職員は採用後10年間のうちに複数年特別支援教育に携わりなさいということのようです。
 本当にそんな必要があるのかなあ。というのも特別支援教育そのものが全国的に見て実践的な凸凹がありすぎるように感じます。そんなの経験しとかない方がいいんじゃない?と思います。
 そもそもその前の令和の日本型の教員養成でも特別支援教育の専門単位は1単位以上としか記載されていません。今は変わったんかな?
 実習に介護体験が追加された時も意味不明だったけれども今回もそれと同じくらい本気で特別支援教育のことを考えているとは思えないです。
 そんな付け焼き刃でしょうがいを持った子どもの教育がわかるとも思えない。実際のところ私は日本の中でもかなり多くの特別支援教育実践経験を持った教員に分類されると思うのだけれども(ホントか?とご指摘は甘んじて受けます。詳細を語れないのは致し方ないことだから。)そのほとんどがその時々の経験に基づいて形成されている我流理論です。教員以前にはいくつかの実践家や研究者とともに研究会もしたし書籍も作りました。門前の小僧でいささかの知識はあったにしてもやはり自分がやるとなると話は全く別物でした。経験から試行錯誤することに優るもんはなきからです。愚者は経験に学ぶ、歴史に学ばない者を揶揄する意味であって歴史が必ずしも経験に優っているわけではないと思います。
 そういうわけで、それ以降どの書籍を読んでも自分の経験を言語化した以上のものに出合うことはありません。もちろん一般化にはほど遠いんでしょうし捻くれている自分の性格が災いしているのもあるだろうけど逆に言えば自分の体験や学校として置かれた環境はそこまで苛烈であったわけです。そもそも最初の入りが強烈すぎた。そういう意味では日本の特別支援教育というのは世界的にみてもなかなかお目にかかれないような経験を教員に、とりわけ学級担任に強いている面があります。
 担任も特別支援担当もどちらもやったことありますが、やはり担任の方が格段に神経を使います。後述しますが特別支援対象児童というのは学級の子どもとの関係がうまくいっていないことが多いですが、そこにコミットするのは学級担任にしかできない仕事なんです。これを特別支援担当教員に任せると早晩学級を壊すことになります。

 そしてその記事の中ではデータの取り扱い方に疑問を感じたんです。感覚だけでないデータというのが大事だというけれど、これはそのデータというものとその分析の取り扱いについてやはり気をつけた方がいいんじゃないのか?という私の持論の見本のようなもんだと思いました。
 それが特別支援教育に関わりに対する「未経験率」なんですが小学校89パーセント、中学校69%、高校92%なんですよね。コンマ以下の数字は省きますが、小学校に比べて20ポイントも中学校が優れていることなんて世の中には年齢や身長・体重以外存在しないと思っている人間なので不思議でした。そもそも中学校には特別支援を率先してしようなどという酔狂な人間はいません。自分の教科のことさえできればいいと思っている自分勝手系の人間の集まりだからです。みんなの幸せを考えようとしない。(これに自分の好きな部活さえできれば幸せと思っている人間も加わります。)つい最近まで道徳という考え方すらなかった校種です。
 さらに酷いのが高校です。そもそも特別支援教育の必要な子どもを受け入れていません。入試の段階で切ってしまうんですよね。特別に支援しようという気がない。そこは大学も同等です。逆に8%関わったことがあるだけでも驚きです。ほんまかいな?

 なんでだろうと思っていると特別支援対象の子どもに教科担当として学習指導した人間が経験済みとしてカウントされているという付け加えがあったんですよね。これ小学校は全く入っていません。この時点で調査のたてつけを疑います。日本の小学校ではそんな関わり自体がほとんどないからです。教科担任制の時間は学級外で勉強している可能性の方が高い、というか4.27通知に沿えばそうとしかならないです。そもそも経験10年以内の子に教科担任をさせるなんていうことはないです。修行期間に学級担任以外のポジションにつけることなどそうありませんし、老人が学級担任をしたがらない現状では、そんな人的な余裕が学校内にあろうはずもありません。もしそんなことやりたいと主張する若手がいるとすればそれは管理職や教育委員会を狙っている人間です。これはこれで困りもんです。うっすらした人間しかいないことになるからです。

 そんないい加減なアンケート調査があるのかよということにまずびっくりしました。問題文の文字面以前の問題です。設計の段階で小中高をきちんと並べる気すらないということです。文科省からの都道府県を跨いだ市区町村への調査自体がすでにどういう取り組みとして位置づいているかが混沌としてきた証拠だと思います。

 いらないいらないと揶揄された文科省調査が本格的に崩壊してきたことは喜ばしいことなんでしょうか?

 そもそもこのニュースに出てくる特別支援教育と通級指導教室は全くの別物です。少なくとも私の認識はそうです。これのどちらかに関わるということは厳密には特別支援教育に関わっていることにはならないと私は考えます。しかも支援を必要とする児童生徒8.8%という数字の意味についても異論があります。この数字は医者に受診して判定されたことを指しません。学校の感覚的な判断です。それが悪いというのではないです。
 そもそも私は医者の判定も信用していません。しょうがいに対する投薬についても賛否があります。精神分析については個人的に感心する部分もあります。しかしそれが合意とはならない部分もあり、精神医学については万人に効果があるとは言えないこともあります。この数字は独り歩きする可能性が非常に高い。
 8%だからこの子はそう。8%だから違うとか。一クラスに8%とか学校に8%とかそういう話も全く違う。特別支援と通級の先に保護者の要望というハードルも加わります。結果8%ということを何の目安にすればよいのか?もはや条件が重なりすぎてデータとしての役割が果たせないと言って良いでしょう。しかもこの8.8%には学習集団として乗り越えらえるクラスルームもあれば、そうではないクラスルームがある。特別支援教育が教育現場を困難にしている側面まであるのです。そこでその原因は、解決方法は、8.8%という数字を手掛かりとはしません。
 ちなみに13人に一人通級指導教員を割り当てることも算定理由が理解できません。それが一校あたりの人員配置として適切な数字かどうかが判断できません。それだけいなければ通級指導教室がなくなる根拠もわかりません。そもそも支援が必要な児童生徒を特別支援教育と通級に分ける意味がわかりません。それは勢い重い軽いの話になってしまうからです。しかもこうした調査で同じような扱いになってしまっていることも分かりません。

 ダラダラ書きましたが、経験を持って日本の特別支援教育が発展するという発想はあまり感心しません。それでは一般化されないし、科学的でもないからです。それは日本の特別支援教育が地域差の塊であることからもよくわかります。それ以前にそれらの取り組みは教育の一部分として取り扱われることが必要だと思います。
 バラバラにしておいてその経験を以て発展するという枠組みで縛ることは特別支援教育の発展には逆によくないと思います。色々な意味で特別支援教育は日本型学校教育の良さを崩しているところがあると思うからです。

 何より先ほど述べたように特別支援教育の経験強制の取り組みというのは令和の日本型学校教育の教育改革の取り組みとは親和性が悪いのではないかと思います。それが調査結果にモロに現れてしまった。良い方向には進んでいないどころか他の取り組みに対してよくない影響をもたらしているのではないかと思うからです。

強要してまで体験したことに何の意味があるのか?しかも4.27通知における対立はきちんと対話することすら不可能に思えます。今日本の特別支援教育について一律の取り組みの到達点がどこにあるのかということもよく見えません。その体験にこの先を生み出すことができるのか?この言語化に意味があるのか?共通理解は可能なのか?それなりの解決方法があるのか?
 どれもが体験することに対する懐疑しか生まない状況です。無批判に享受する事には違和感しかありません。

 批判というよりは、書いていてもよくわからないというのが正直なところです。データだけでなく特別支援教育そのものがよくわからない掛け声の集合体なのではないか?果たして誰が幸せになっているのか?
 膝を突き合わせて対話するべきなんだと強く感じた話題です。

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