国民を守る事前と事後の「情報の取り扱い」から日本型学校教育を考える

 今の社会を象徴するような話です。
 南海トラフは事前に知らせるべき話なのかについて意見を述べている方を見た後に、旅行先で道後温泉の山崩れを事前に知らせたかどうかの責任をなすりつけあっている報道を見て思ったことです。

 地震予知については面白い逸話というのはいくつかあってイタリアだったかで予知を外した研究者が訴えられたか、罪に問われたかみたいな話があったそうです。つまり地震予知がどこまで責任を問われるものかという合意が取れていないということです。
 これはJアラートについても同様。ゲリラ豪雨についてもそうです。しかし愛媛県というのは、この山崩れ以前にも野村ダムの放流の予告の仕方の問題から人死が出たという教訓があったはずです。確か映画「すずめの戸締り」のモチーフにもなっていました。
 今の報道が「命を守る行動」というよくわからない言い方でこの問題を回避しようとしていることが最も大きな原因であることには誰も触れません。それどころかマスコミ関係者はこの方法なら命が守れると信じている。中の人間がそれで良いと思っているようだ。という不思議なことになってしまっている状況があります。別にマスコミに命を守ってもらう必要はないのですが、こうした教訓に対してそうした厄災が場所が日本のどこであって被害者が数字的に大きくない事例であっても、責任の所在や自分の行動について個々に真摯に「思考」することができていないことが良くないと言っているわけです。
 「誰が悪いかを探してもらうと良い」などということは現代の情報氾濫社会ではそう重要なことでありません。公共の電波の役割がもしこれまでの新聞に変わる役割を即時的に果たせる可能性を残したいなら事例から「どういう覚悟や矜持を国民の個々が担うべきか」判断するための「思考」を提供することに注力すべきではないかと思うからです。
 これはYouTubeにはできないことです。YouTubeには思考を促すことができるほどの財政的・人的・時間的「余白」が取れないからです。そのためには先行性という面で優位にあるテレビというメディアは視聴率という評価基準(コアとかそういうのも含めて)から明確に離れていく必要があるということです。そこで争う限り視聴数を欲するYouTubeと同じ土俵に乗ってしまうことになるからです。
 もしそうした報道の新たな基準値を設定することができればもしかしたらテレビという媒体は残っていけるかもしれません。こうした国家的な思考形態としてのインフラもしくはプラットホームというのは現時点シラスぐらいしかないのではないかと思います。いかんせん東浩紀さんは一般化するには少々難解でかつテレビのような既存のインフラを持ってません。であるなら既存のテレビインフラが生き残るためにそういう角度で切り込んでいく「枠」を作っていくことは悪いことではないとは思います。
 それますが、N・S高そして新たなR高、Zen大学はこうした軸を「教育において」担おうとしてのかもしれませんが、今回のKADOKAWAの不祥事で難しくなっていくのかもしれません。それ以外にもこれらの学校は労基法上の問題を多く抱えており、日本においてのパブリックではない学校経営の難しさをやはり曝け出してしまうことになってしまいました。
 教育というものの見方の角度の良さと悪さが一遍に起こってしまったのだろうと思います。これまでも株式会社立の学校が醸していたアポリアをそのまま引き継ぐことになってしまったところに課題があるのだろうと推測します。これは株式会社立でなくとも一条校として認められても選択肢以上の文化を作れない、一般人にとっては希少な存在のオルタナティブな教育にも同様のことが言えます。
 それぐらいに日本型学校教育の優位性と教育活動と教育の結果との「見えにくい」関係が入り混じっていることであり、抜け出せない理由はそれをはっきり整理できる人間がいないということです。これまで教育に対して内外から刺激的な話題を提供する人がたくさんいたにも関わらずです。(堀江貴文さんが好き勝手言っているというサムネだけ見たことからもそう思いました。彼は好き勝手言って責任を取るということに向き合うという真摯さ自体不要であると考え方を非常によくわかって話しておられると思います。耳に入れてしまった時点で負け確定のゲームプレイヤーです。)

 つまり事前に提示する情報がどれほど有用で魅力的であっても、結局その真価は結果的な失敗の回避にしか国民の興味がいかなくなってしまっている現状があるということです。それは南海トラフにせよ、諸々の災害にせよ、Jアラートにせよ、そして教育にせよ、同様です。国民の感想の行き先が一元化してしまっているということ。
 その結果は「命を守る行動」のような意味があるかないかよくわからない話しか事前できなくなってしまう。つまり義務論からの責任回避を事前に語るしかできなくなってしまうという悲しいことが一般化します。そしてそれがコンプラとして染み付いていきます。
 事前に頑張って思考すること、そうした思考を提供すること、そうしたコミュニティを作ることなどに全く意味を持たなくなってしまう。なんならそうしたものを叩いておけば注目され「イイネ」が増えることにつながるという短絡的かつ文化的破壊行為が一般化するということにつながってしまうということです。

 「令和の日本型学校教育」は言葉尻上はこうしたことを一切目指してはいません。しかしその実、教育と直結している社会はコンプラ、ハラスメント、ナショナリズム、勝ち負け、立ち振る舞い、拝金主義、権利の主張、権力などを燃料にSNSというインフラを通した誹謗中傷に溢れており正義が見えにくくなっています。
 そして何より教育を取り巻く状況の内部にもこうしたことが流れ込んで全く別の道筋を「多様」に目指し始めてしまっています。不登校然り、特別支援教育然り、しょうがい然り、子どもと保護者の権利然り、いじめ然り、学力問題然り。
 こうしたバラバラに広がる彩りが悪いというわけではなく、そうした「多様性」が他者攻撃のための「思考」として称賛され「イイね」を獲得していくことは「事前の思考」を貧しくし、事後へのコミットを非常に弱めていくのではないかということです。今の日本は「事後の責任」という取り返しのつかないことを対して好き勝手に「評論」することで自己の満足を追求したり、他者の欲望を自分の欲望と見做したりすることの材料にしてしまい真摯に向き合うことを避けようとしていることになってしまいます。
 こうした事前は事後の意味を薄くし、こうした事後は事前の価値を貶めるという悪循環に陥ってしまうということが起こっていることについて言及しているということを寡聞にして聞いたことがありません。

 現場の教員および教育現場で働きたいと思う人にとって一番困るのは事後になって「あなたのやったことは不適切でした」という後出しジャンケンをされることだと思います。今の教育現場は管理職と教育委員会制度、子どもと保護者、マスコミ、SNSが全く違う角度から教育にまつわる各所に対してこうした攻撃を加えてきます。

 私が考えるのは、事前として思考の広がりと深まりを作ること、そして事後に赦しと厭いと感情を抜きにして正義を伴った検証をするという至極当たり前のコモンの話です。事前には「情熱」が事後には「冷静さ」が必要だと思うのに全く逆の日本社会になっていること、オリンピックについても「いまさら」事後を攻撃しても・・・
 それは事前にどこかできちんと「思考」しておくべき話でしたよね。木村花さんのことが全く深まっていないことをあらわにしただけ、他人事として評論するだけで自分ごととして「思考しないこと」が日本社会の抱える病理なんでしょう。

 実はこうした教訓から「真摯に思考すること」が日本の教育がまず取り組むべき問題の所在なのだろうという主張でした。

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