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文章の「書き方」なんて、習わなかったというひとへ。

「文章の書き方なんて、いちども習ったことないよなあ」とおもった方。

古賀史健さんの『20歳の自分に受けさせたい文章講義』を読んでほしい。


『嫌われる勇気』でおなじみ古賀史健さん。
古賀さんも、人生でいちども「文章の授業」を受けた記憶がないという。

学校の作文は、書き方指導にはほど遠いし、国語の授業は作品の読解に重きが置かれているように感じられたという。
(ほんとうは、そんなことはないのだが。でも分かる。)

でも、「書く」というのは「考える」ことだ。
つまり、「書く技術」を身につけることは、「考える技術」を身につけることになる。

そんな思いを持った古賀史健さんの「書き方」にまつわる講義。
それが、この一冊に詰まっている。


発売は2012年なので、もう古い本かもしれない。
古賀史健さんの新しい書籍『さみしい夜にはペンを持て』と重なる部分もある。

でも、ほんとうに分かりやすくて、納得できる内容だったので、ぜひおすすめしたい。
ここでは、わたしが特に印象的だった2点を紹介する。


(1)「読者」は、たった2人。

どんな文章にも、「読み手」が存在する。
noteを書いている人ならば、よく分かるはずだ。

自分の書いた記事が、だれかの目にとまり、読んでもらえる。
それが、noteの世界。
だからこそ、「読み手」を意識して書きたいとおもう人も多いはずだ。

わたしは以前、「読み手」が明確に決まっていなくてもいいという内容の記事を書いた。
わたし自身、自分の記事がどんな「読み手」に求められているのかまったく分からなくて、そのときの心境を綴ったのがこの記事だ。

結局、記事内では「読み手は具体的に絞れなくてもいい。でも、こんな境遇の人が読んでくれたらいいなあ、と思いながら書いてみよう」という結論を出した。


しかし、古賀史健さんいわく、「読み手」は世の中に2人しかいない、というのだ。

①10年前の自分
➁特定の”あの人”

同書、p.160

①の10年前の自分は、「あのとき」の自分だ。

いま、「書き手」である自分が有益な情報を手に入れているとして、「もしこれを10年前に知っていたら!」と思いながら書く。

10年前の自分に語りかけるように。
自分自身が「読み手」なら、どんな言葉でどんなふうに説明すれば、納得してもらえるか、よく分かるはずだという。

➁の特定の”あの人”は、「たった一人のあの人」のことだ。

わたしたちはつい、「多数派」に向けて書きがちだ。
なるべく多くのひとに、受け入れてほしいと願ってしまう。

でも、それだとあまりに「読み手」が多くて、フォローしきれない。
八方美人に書くよりも、たったひとりのためのラブレターのように書く。
そのほうが、みんなに向けて書いたときよりも、ずっとみんなに受け入れてもらいやすい。


「あのときの自分」か、「特定のだれか」か。
なるほど、すごく具体的だ。

では、この記事は、「わたし」に向けて書いていることになるだろう。
感覚を頼りに文章の書く「あのときの自分」。
上記の記事を書いた頃の、「読み手」が絞れず悩んでいた自分に向けて。

あのときのわたしに、言ってやりたい。
いいから黙って、古賀さんの本を読め、と。


(2)文章の「伸びしろ」


もうひとつ、おもしろい方法を知った。
書くことが絞り切れないときに、おすすめの方法だ。

これまた以前、わたしは「書けないときは、いったん全部広げてから、ひとつに絞ろう」という内容の記事を書いた。

上手く書けないときは、あれもこれも書こうとしているからだ。
上手く書けないなら、いったん持っている「書きたいこと」を全部広げてみる。これを「風呂敷を広げてみる」と書いた。
そして、風呂敷の上のそれをじっくり眺めてから、どれかに絞ればいい。


しかし、古賀さんいわく「このやり方だと、文章の”伸びしろ”がなくなってしまう」という。


たとえば。
自分が書きたいことを10個書き出したとする。
書き出した10個には傾向があって、それだけでもなにか文章を書くことはできそうだ。

でも、古賀さんはそこからさらに、書きたいことではない「それ以外のこと」も、10個キーワードを並べてみようというのだ。

そうすると風呂敷には、「書きたいこと」10個と、「それ以外のこと」10個が広げられる。
それらをつなげて見えてくるものは、「書きたいこと」だけ並べていたときよりも、うんと面白くなっているはずだ。

つらつらと書き出しただけのキーワードでは、内容に偏りが出てしまい、文章の”伸びしろ”がなくなってしまうのだ。
(中略)
ここで大切なのは「自分を疑う力」なのだと、ぼくは思っている。
思いつくまま書こうとする自分を「それで面白い文章が書けるか?」と疑う。
頭のなかで整理しようとする自分を「紙に書き出さなくても大丈夫か?」と疑う。
紙に書き出したキーワードを眺めて「本当にこれがすべてか?」と疑う。
そうやって、自分に何重にも疑いの網をかけていくことで、ようやく書くべきことが見えてくる。見えてなかったものが見えてくる。

p.242-243

このやり方は、思いついたことがなかった。
まさに、目からウロコだ。

わたしはいつも「書きたいこと」ばかり羅列して、それを並び替え、こねくり回してきた。
でも、それだけでは広がりのない記事になる。

「それ以外のこと」も、書き出してみる。
なんて、おもしろそうで、分かりやすい方法なのだろう!
これからは、書きたいことが広がっていかないとき、絶対にこのやり方を試してみたい。


(3)まとめ


まだまだ、役立つことがほんとうにたくさん書いてあって、どれも紹介したいが、ここまでだ。
でも、自分のためのメモとして書いておくなら。

・文章はリズム。リズムは論理展開がすべて。
・3パターンある「導入」のどれかを。
・嫌いな文章を掘り下げれば、自分がどうしたいか見えてくる。

このあたりも、いつかまたどこかの記事で紹介できればとおもっている。


「文章の書き方」を教えてもらった経験。
じつは、わたしは「ある」。

ひとつは、大学の論文指導だ。
もうひとつは、教員になってからの指導案(授業の計画のようなもの)の指導。
どちらも、言葉にこだわり、文章のことをよく知っている先生から教わった。

文章指導は、誰でもしてくださることではない。
なぜなら、膨大な時間と労力が必要だからだ。

書いた文章を1文ずつ声に出して読み、いっしょに考える。
「それってどういう意味?」
「これだと分かりにくいから、言い換えるならなんて言う?」
「どういう言葉がふさわしいか、いまここで考えて、しゃべって」
こんなふうに、一文ずつ指導を受ける。
数時間、ぶっ通しで。

持っていった論文や指導案は、真っ赤になって持ち帰ることになる。
さすがに落ち込むこともあったが、それ以上に「文章の書き方」がうっすらと身についていくのを感じて、充実感があった。


そんな経験は、なかなかできない。
みんな、とつぜん「文章くらい書けるだろう!」と放り出され、路頭に迷いながら手探りでなんとか書いている。
ときには支離滅裂な文章を披露しながら、えっちらおっちら手を動かすのだ。


文章が書けなくて悩んでいるひとへ。
やっぱり冒頭にも述べたとおり、この本を読んでほしい。
「文章の授業」を受けてほしい。

きっと「文章の書き方」でお困りのことの、なにかヒントが得られるはずだ。

そしてなにより、やる気がわく。
文章を書くのっておもしろそう!」と、ワクワク感に満たされるだろう。



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