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秦氏は波多氏から始まった⑬ ~島津家と富士山王朝~ 

明治維新を主導したのは長州藩と、薩摩藩。
この二つの藩の始祖は、どちらも秦氏の末裔説があります。
長州藩こと毛利藩は、平安期、日本に渡来した秦氏系(土師氏)の末裔。
島津家の始祖・島津忠久は、秦の始皇帝の末裔で『秦氏』出身。
今回は、秦氏の起源である波多氏。そして島津藩との関わりです。


・秦氏は波多からはじまった。

秦氏ははじめ、波多(ハタ)でした。秦氏は、秦国の滅亡後、日本に渡来。秦氏は日本にもたらしたのは、養蚕、機織の技術。
秦氏は絹織物を朝廷に献上し、重宝されます。

ハタ」は古代インド語のサンスクリット語で「絹」梵字とは神仏を一字で表す神聖な文字。日本や中国など、漢字文化圏でのサンスクリット語の呼び方が「梵語」で、サンスクリット語を書く際に梵字を用いました。
梵字は、塔婆に記されていたり、五輪塔に刻まれていたり、お墓で見かけること が多いです。しかし現在、中国やインドで「梵字(ぼんじ)」は廃れ、主に日本だけで使われています。

サンスクリット語は英語で、セイントスクリプト(Saint Script)。
直訳すると聖なる言葉が刻印された文字。仏教は最初、サンスクリット語でした。ブッダの教え(仏教)は、まずサンスクリット語(梵字)で書かれ、のちに三蔵法師が中国に持ち帰り、中国語に翻訳。その後平安期、唐に渡った弘法大師・空海が日本語に翻訳し、日本で仏教が広まりました。

日本や中国など、漢字文化圏でのサンスクリット語の呼び方が「梵語」。
サンスクリット語は中国の国名の元にもなっており、秦の土地をサンスクリット語で意味する「(チーナ)」がなまって、志那(シナ)とチャイナ(China)となったと言います。

ところで以前、近所にインド出身のおばあさんがいて、ある日話す機会があり、「日常会話でサンスクリット語は話しますか?」と聞いたところ、「サンスクリット語はリリック(詩的・抒情的)で使いにくい。話し言葉は英語がメイン」との答えが返ってきました。サンスクリット語は、日常会話には向いていないようです。

〈島津家の象徴と似ているケルト十字(左側の十字架)〉

ヘブライ王国滅亡後、ヘブライ民族はそれぞれ、海やシルクロードを渡り、日本に渡来。シルクロードとは「絹」の道。
シルクロードによって運ばれた商品の中で、もっとも有名なものが「絹」。
シルクロード沿いのあちこちには、現在も古代イスラエル王国10部族の末裔が住んでいます。

渡来したヘブライ民族は、オリエント文明の絹織物や鍛冶技術を日本にもたらしました。
秦氏が得意とした鍛冶とは、木、火、土、水、金を制御するテクノロジー。
秦氏系企業とされる三井財閥や住友財閥が、金属加工を得意とし、重工業や機械、エンジニアリングの大企業となったのは、秦氏が持っていた高度な鍛冶技術が由来と言います。

また明治期、日本は世界一の生糸の輸出国でした。
生糸は、蚕の繭(まゆ)から取ったままで、手を加えていない糸のこと。
生糸のメリットは、肌触りが柔らかく、吸湿性や通気性に優れている点。
生糸は、絹織物の材料として使用するほか、絹靴下などの編物に使われました。そして生糸の大量生産は、製糸・染色・機織の発展につながっていきます。その基盤には、秦氏が持つ養蚕の技術があり、秦氏系企業が得意とするものだったそうです。


・波多氏のシンボルと島津家の共通点

秦氏のハタは機(はた)であり、蚕(かいこ)を飼い、その蚕がつくる繭から生糸を紡ぎだし、あでやかな絹織物に仕立てました。
その技術は現代に受け継がれ、日本の繊維業に大きく貢献します。

朝廷に贈った、絹織物がやわらかく「肌」のようにあたたかいことから、仁徳天皇の時代、波多(はた)の姓をたまわった。
その後、雄略天皇の時代になると、「太秦(うずまさ)」の姓を賜った。

新撰姓氏録より

最初、秦氏は絹織物を朝廷に贈ったことで、「波多」という姓を賜ります。
のちに波多氏からは、波多野(はたの)と名乗る豪族があらわれました。
この家紋を使ったのは、丹波(兵庫県)大名だった波多野氏。

丹波波多野氏の家紋・丸に出十字

島津家の家紋「太陽十字」に、丹波・波多野氏の家紋は似ています。

島津家家紋 太陽十字

ただ丹波・波多野氏のシンボルは、島津家というよりもケルト十字に酷似。
ケルト民族は多神教で、自然崇拝を大切にして、森と共生していた民。
縄文とケルトは、「ストーンサークル(環状列石)」を作るという不思議な共通点があります。

ケルト十字

島津家の家紋は、丹波波多氏の家紋に似ており、シンボル(家紋)という点から見ると、島津家と波多氏は同族
(ちなみに丹波・波多氏はその後、明智光秀により滅ぼされます。光秀はその功績から、信長から丹波国を与えられ、大名にのし上がりました。)

少し話は変わりますが、日本に渡来した秦氏に「波多」の姓を与えたのは、仁徳天皇。仁徳天皇は第十六代の天皇で、父は応神天皇。
その応神天皇の第一王子に、大山守皇子がいました。大山守皇子は本来、父である応神天皇の後を継いで、大王になる人物でした。しかし大山守皇子はヤマト王権を離脱して、富士山王朝に味方。

大山守皇子が富士王朝についたことで、皇太子の位は、応神天皇の第四皇子が継承します。この第四皇子がのちの、仁徳天皇
大阪府堺市にある大仙古墳は日本最大の古墳で、世界最大級の墳墓。
この大仙古墳は、仁徳天皇陵を葬ったとの説が有力です。

大山守皇子は、この巨大な墳墓をつくれる権力を捨て、富士山王朝を支持。この出来事はヤマト王権を震撼させ、富士山王朝との戦いを決意させます。
(※詳しくは、フィクサー秦氏編の終了後、富士王朝本編で書く予定です)

秦氏を調べれば、必ず登場する富士山王朝。そしてフィクサーとして活動する、秦氏の末裔たち。
そんな秦氏の末裔とされるのが、長州藩と薩摩藩。いずれも明治時代以降、日本の国政に関わる人々。フィクサー秦氏は現代も息づいています。


・長州藩と似ている波多(秦)氏の家紋

仁徳天皇から「波多」の姓を与えられた波多氏は全国で活躍します。その中には、肥前(現在の佐賀県・長崎県)を領地とした波多氏もいました。

肥前の波多氏の家紋〈二つ引両に三つ星/三つ星〉

この肥前の秦氏氏の家紋・・。どこかで見たことがあると思ったら、毛利家の家紋に似ていました。毛利家の家紋に一つ、上の線を足したら、肥前の波多氏の家紋です。

毛利家こと、長州藩の家紋

家紋だけで判断するのは早計ですが、シンボルには隠れた意味があり、偶然とも思えません。やはり毛利家は、シンボルの意味でも波多氏ではないか?と思ってしまいます。



・秦氏のルーツと八幡神

秦氏は始め、波多氏でした。それが残っているのが、神奈川県の丹沢山系の大山のふもとにある秦野市。丹沢山系は、はるか昔、徐福が渡来した場所で、徐福ゆかりの場所や伝説が今も残っています。
秦野の地名も、秦氏がこの地に移り住んだことが由来です。

秦野も「波多野」ですが、平安期以前の古名は「幡多」。

神奈川県秦野の地名の由来は、古くは『和名抄』に「波多野郷」とあり、万葉仮名は清濁を区別することから「はたの」が正しい呼び方に近かった。
平安時代の書物「倭名類聚抄」に初めて、秦野の古名は「幡多」だったとの記載があらわれる。 鎌倉時代に入ると「吾妻鏡」などの軍記物語に、平安期に、この地名を名乗った「波多野氏」が登場。いわば秦野は、幡多であり、波多。これに助詞である「の」が入り、「はたの」になった。

八幡(はちまん)神の「幡」の文字は「ハタ」とも読まれ、秦氏と深い関わりがあります。有名な九州の宇佐八幡神宮も秦氏が造営したもの。
秦氏は、波多氏であり、幡多という、有力氏族でした。

〈 宇佐神宮の神紋の三つ巴紋〉
3つの渦巻きの紋章は八幡神を祀る神社でよく見られ、
魔除けや火災除けの願いが込められた縁起の良い文様

八幡神は応神天皇の神霊とされています。応神天皇 の名前は、ホムタ「ワケ」。「ワケ」は天皇の敬称のようなもの。
「ホムタ」は「ハタ」の古語の発音となり、ホムタワケとは、秦氏の大王と意味します。応神天皇は『秦氏の王』との伝承を持つ人物。

第69話宇佐八幡より

第十五代、応神天皇は八幡神社を各地につくった大王。
そして応神天皇の第二皇子が大山守王子。
大山守王子は富士山王朝に味方し、その後、富士王朝の姫君と婚姻。
その血脈は富士山王朝に受け継がれ、現代に続いています。

はるか昔、応神天皇を通して、秦氏はヤマト王権と強いつながりを持ちました。そして秦から渡来した徐福は富士山王朝に迎えられ、神代文字で書かれていた富士山王朝の歴史を漢字で記します。これが宮下文書であり、別名『寒川文書』。

一説には、富士山王朝は月読尊の直系であり、それゆえ代々の王は「月夜見」姓を名乗ったと言います。

ヤマト王権の大王は系図上、天照大神の子孫であり、太陽王国直系。
そして富士山王朝は、月読尊の末裔で、月王国直系。
秦氏は、『太陽』と『月』の両方の王朝と深い関わりを持ち、霊的な面でもフィクサー(黒幕)として日本で活躍してきたのかもしれません。



〈参考サイト〉










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縄文エリー
本だけでなく、実際に現地に行ったりして調べていますが、わからないことが多いです。だからこそ魅かれる縄文ミステリー!縄文の謎解きははじまったばかりです。(*ᴗˬᴗ)⁾⁾💕ペコリン