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「すべてが幻」という真実への応答例

 〈実体〉と呼べるものが何もない。


 〈実体〉を考えようとする時に用いる言葉や思惟といったものがそもそも〈実体〉ではない。


 目に見えるものも耳に聞こえるものも、すべてが〈この世界〉と言う名の箱庭の中に閉じ込められている。


 この箱庭に外部は存在せず、外部のようなものは想像や妄想の形を取って箱庭の内部に成形される。だから常に箱庭の中には、想像物、妄想物が転がっており、それらがマトリョーシカのように〈箱庭-内-箱庭〉を形成している。


 外部、実体、真理。

 なんと呼んでも構わないが、そういったところに到達することが原理的構造的に不可能であるという、考えればすぐわかるようなことにいまさら嘆くのはわれながら悲劇的である。まるで体育館の天井に触ることが可能かどうか一回だけ飛んでみていたようなものだ。


 しかし、これはプラトンの〈洞窟の比喩〉のようなことなのかもしれない。イデアを実体とし、現実世界を仮象と捉えたところから哲学ひいてはグローバル言語が積み上げられていることを考慮すれば、いまさら「すべては幻だ」と嘆いたところで「そんなことは百も承知だ」という声しか聞こえてこない。


 では、この幻ばかりの箱庭の中で、活力となるものはどのような幻としてありうるのだろうか。すべてが幻であればやる気も元気も幻である。


 プラトンはある意味では「すべては幻だ」と言っている。現実世界は幻だ、と。しかしプラトンの哲学的胆力は、その幻が「ただの幻ではない」と一つ駒をすすめるところにある。


 たしかにすべては幻で無常だ。


 ただしプラトンは、この箱庭の外部を想像し〈イデア〉という想像物、妄想物を内部に発生させ、さらには「世界はイデアの影である」という謎の設定まで作り上げた。この謎設定の発明によって「外部と内部は単に隔絶されているだけではなく、なんらかの相関関係があるかもしれないのでみんなで一回考えてみよう」という一種のムーブメントが生まれ今日に至るのである。


 そう考えると、すべてが幻であると知ってしまい〈実体〉が何かもわからないまま生きるには、とにもかくにも自分なりの〈謎設定〉を発明することが必然的に要請されるのではないだろうか。

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