これは『嘘解きレトリック』の感想ではない
新しく始まったドラマ『嘘解きレトリック』がちょっと面白そうだったので録画しておいた1話目を再生したところ、松本穂香演じる主人公が「人の嘘を判別できる」という超自然的な能力を持つという設定から、なんとなく「嘘つきクレタ人のパラドックス」のことが連想され、さらにはこのパラドックスの問題点まで頭に浮かんでしまった。
ぼくの中の「嘘つきクレタ人のパラドックス」に関する記憶は古い。多くの人が幼少の頃、絵本代わりに家においてある図鑑などのページをめくっていた思い出があるのではないかと思うが、ぼくの家にはサイエンス系の図鑑とは別に(誰が何のために置いていたのかわからないが)大きな「おもしろ数学図鑑」的なものがあった。
その中に様々なパラドックスの紹介が掲載されており、その中でも一番ぼくの頭を悩ませたのが「嘘つきクレタ人のパラドックス」だったのだ。
『「すべてのクレタ人は嘘つきである」とクレタ人が言った』という短い一文がこのパラドックスのすべてであるが、さてこのクレタ人は嘘つきなのかどうなのか。
このパラドックスに欧米圏の分析哲学や数学者クルト・ゲーデルの有名な不完全性定理などを引用して独自の解釈を施したのが文芸評論家の柄谷行人であるが、彼の著作を引用するまでもなく、このパラドックスを素朴に掘り下げようとすることは不可能である。いくら数学的論理学的にこのクレタ人の言葉を解析してもどこにもたどり着かないのは明らかだ。
ぼくは「この世界」について頭を巡らせるとき、いつもこのクレタ人のパラドックスが頭をよぎっていた。そして、いくら考えても答えが出ない事柄というものが存在するという事実そのものに、ある種恐れのようなものを抱くことになっていた。
しかし、ここでぼくはこのパラドックスのトリックを見破ったような気がした。
このパラドックスは一見「嘘つき」に関する問題のように見える。
そして、「真」と「偽」の排他的原理のようなものから理論化をすすめ、オースティン流の言語行為論やデイヴィッド・ルイス的な様相論理学で突き詰めたり、はたまたこの二項対立そのものを脱構築し、「嘘」も「真実」もない(流行り言葉でいえば)ポスト・トゥルース的な世界を創出するに至っている。
しかし、おそらくそれは本質ではない。
このパラドックスの蝶番は、「嘘つき」にではなく「すべての」という言葉の意味にあるのだ。
「すべてのクレタ人」という言葉の強引さによって、数学的論理学的な問題であるかのように見せかけているのだ。
『「すべての」と言った以上、クレタ人は一人残さず例外なく指示対象としなければならない』というのは話を仮に数学的に進めるための恣意的なルールでしかない。
そしてそれは、頭の中で答えを出そうとしているからこそ嵌まってしまう泥沼なのだ。
したがって、このパラドックスへの応答は、「じゃあ片っ端からクレタ人と話してみようか」なのである。
人間には結局のところ「すべて」を把握することなどできない。
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ところでこのドラマはマンガが原作のようである。不勉強ながら原作は未読だが、ドラマ版を観ている限り、まったりしたムードながら言語哲学的な示唆に富んだ面白い内容のようなのでしばらく観てみようと思う。
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