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言葉が抱えるイメージについて
鈴木大拙の「信仰の確立」というエッセイを読んだのだが(正確にはYouTubeに上がっている機械音声による朗読を聞いたのだが)、これがなんとも素晴らしいテクストであった。
押し付けがましくなく、論理的な部分と断定的な部分の使い方がきわめて心地よく、それでいて読者がそれぞれ個別的に抱える人生の悩みに前向きな渋味を与えるような文章だ。
良い文章とはこういう文章のことを言うのであろう。
ただ、この文章をいざ人に薦めようというようなときに、そう簡単には薦められないような、どうしても躊躇してしまう要素がつきまとっていることは否めない。
というのも、文章のタイトルにもなっている「信仰の確立」というこのワード。このワードがいまの世の中においてはあまりに怪しげで胡散臭く響くことは想像に難くない。「信仰」という言葉があまりにもカルトっぽいのだ。
鈴木大拙がこの文章を書いた当時の世間がどういう感じだったのかはわからないが、少なくとも現在ほど「宗教」や「信仰」といった言葉への警戒心は強くなかったことだろう。
内容としては、一般的に警戒されるようないわゆるカルト宗教的なものではなく、むしろ正反対の教えが書かれているのであるが、比較的日本人でも馴染み深い仏教の「ありがたい講話」的なものとして提出するにしても、その警戒心や危険性を取り除くことはそうやすやすと叶うものではない。
つまりは、現代の社会において、人の悩みや問題に応えようと思う場合、そうやって歴史的に形成された言葉それぞれに対するイメージをいかに回避して伝達するかを考えておく手間をおろそかにはできないのである。
現在の思想業界でも、難解で怪しげな言葉をいかに世俗化させて消費社会に溶け込ませるかが主要な関心事となっている。これがなかなかに難しいミッションであることは傍から見ていても同情に値するものである。
鈴木大拙といえば「禅(Zen)」であるが、そのアメリカにおけるオリエンタルな受容のされ方に関しては日本人としては色々と思うところもあるであろうが、思想をいかに有益なものにしていくかを考える際には、その広まり方も参考にしなければならないであろうことは覚悟しておく必要があるかもしれない。