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セカイ系が好きなんだったら「傘がない」も好きでしょ?アンケート

井上陽水の『傘がない』という楽曲は、セカイ系的な世界把握を最も的確に提示していると常々思っていた。


『傘がない』の社会風刺的な要素やセンチメンタリズムは、シンプルに社会反映論的な音楽評論をこちらに書かせようとする喚起力に溢れている。


そして実際、この歌に、森田童子が『みんな夢でありました』と歌ったような学生運動の失敗や社会変革の夢の頓挫などを感じ取る意見は多く、そこから「内面の時代」とも言われるようなきわめて限定的な生活空間でのリアリズムの追求をこの歌から嗅ぎ取ることはきわめて真っ当な判断であると思う。


この曲の最もセンセーショナルな部分は〈自殺〉というフレーズが冒頭のセンテンスから登場するところにあるだろう。アニメやドラマで言えば、1話目でいきなり重要人物が死んだりするような衝撃的な始まり方である。


日々の暮らしを快適に過ごしていくために都市空間に用意された軽音楽・ポップスにおいて、唐突に不穏な空気を発生させる禁句のような〈自殺〉というワードを歌い手に要求するこの曲は、それだけでも特殊な扱いをせざるを得ない。


2番では〈我が国の将来の問題〉というワードが持ち出される。いわゆる「政治」の話だ。この「政治」の話は〈テレビ〉の中の話として提示される。


1番で〈自殺する若者が増えている〉と伝えているのは〈今朝来た新聞〉である。


〈新聞〉や〈テレビ〉から入ってくる情報と、今まさに目の前で降りしきる自然現象たる〈雨〉を対比的に描くことによって、この曲は一つのメッセージたる構造を楽曲化しているのである。


そして、これも重要な事だと思うのだが、陽水は決して「メディアに踊らされるなよ!」だとか「目の前の現実を大事にしていけ!」という風に注意喚起しているわけではない、というところも、この曲(曲というより演奏や歌唱も込み込みで)のメッセージ性を考える際に重要なところで、陽水自身も「だろ?」と疑念を持ちながら歌っているのだ。


このようなメディア(ラカン的象徴界)の意味が問われだしてどれほどの歳月が経っただろうか。メディアの情報と生活空間の境界線で起こり続ける戦争に終止符が打たれる日は、はたしてやってくるのか。それは神のみぞ知るのである。

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