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哲学的ゾンビとゲーム画面の共有

 今回ぼくが言おうとしていることは、場合によっては抽象的すぎる話になるかもしれない。それはなぜかというと、具体的なシチュエーションから体験した感覚と、頭の中でぐるぐる考えるほかない形而上的な思弁との接着点をできるだけクリアに言語化しようと思うからだ。そんなの当たり前じゃないかという話ではあるが、今回は特に言語化がむずかしい。

 感じたことを言葉にする。例えば、花を見て「きれいだな」と感じる。そういうときは「きれいだな、と感じた」と書けばいい。物足りなければ、そこに至る状況的な説明を加えるのもいいだろうし、どんな花であったかを伝えたいと思ったのであれば、形容詞などを色々駆使して装飾的描写を添えるのもいいだろう。

 しかし、そういう場合でも「きれい」という言葉に関して、語ろうとする度合いが形而上的であればあるほど、話は目の前の具体的な花から遠ざかってしまい、よくあるまわりくどい話になる懸念が強くなる。だいたいにおいて、語るという行為はむずかしいのだ。


 さて、何の話からすればいいのか、と考えていると、話がややこしくなりそうな時のテクニックとしてプレゼン術のハウツー本などでよく目にする「結論から先に話す」というやり方を思い出した。といっても、結論という結論はない。なので、繋げて話したい、これとこれを接着させたいという「これ①」と「これ②」をまず提示してみることにしよう。


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 では、まず、これ①は「ゲーム実況」について。


 ぼくはある時期からいわゆるTVゲームなどのコンピューター・ゲームをプレイすることがほとんどなくなった。というより、たまにシステムや設定が興味深かったり、昔懐かしかったりするソフトをやってみようかとチャレンジするときもあるのだが、数分プレイしてみてどうにも集中できず操作が続かない。プレイすることがほとんどできなくなった、といった方が正確なのだ。

 それでもゲーム実況動画は見ていられる。なので、興味のあるゲームに関してはそういうプレイ動画をみて済ませるようになっている。そういうひとは多いはずだ。

 加えて、リアルなシチュエーションで「ゲーム実況」が起こっている場合、つまり友達のうちなどに遊びに行き、友達が一人でゲームをしている時に、彼が操作して刻々と変化している画面をただただ見ていることも同様に苦ではない。そういう状況下のぼくは、彼が参加している画面を眺めながら「グラフィックがきれいだね」とか「そういうシステムなんだね」とか感想をつぶやくという仕方でその場に参加していることになる。これは「ゲーム画面の共有」を通じたコミュニケーションが成立しているわけだ。この感覚が「これ①」である。


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 では「これ②」は何の話かというとタイトルにもある「哲学的ゾンビ」の感覚である。


 哲学や思考実験の類に興味があるひとであれば「哲学的ゾンビ」については一度は耳にしたことがあるだろう。概要をざっくりとわかりやすく説明すれば、目の前のひとが実は「人間そっくり」の言動をするロボット(機械)だった場合、ぼくらはそれを見抜けるか、といった問題である。

 目の前のひとの瞳は、なにかを見ているようにみえて、実は何も見えてはおらず、なにかを聞いているようにみえて、実はなにも聞こえてなどいない。ただ「見えている風に」「聞こえている風に」振る舞っているだけなのではないか。

 現代でも議論が続く「意識とはなにか」という謎が引き起こす、考え過ぎるといとも簡単に頭がおかしくなれる思考実験であるが、ぼくは最近ずっとこれに悩まされていた。

 身の回りの人間たちがみんな「哲学的ゾンビ」にしか思えなくなってしまった場合、なかなか以前までの日常生活を送ることは難しい。では、どうすればその感覚を「解除」することができるのだろうか、ということを考えていたわけだ。


 そんなときに、『オーバークック』というゲームをプレイヤー4人が一緒に遊ぶ、という動画を見ていて、なんとなくヒントが見えたような気がした。『オーバークック』は厨房の中を動き回るキャラクターを操作し、協力して料理を作りサーブしていくというゲームで、そのワチャワチャを見てるだけで楽しめる実況向きのコンテンツである。画面構成は『ボンバーマン』に限りなく近く、4人のキャラクターの動きが1つの固定した画面のなかで把握できるようになっている。

 プレイヤーの4人は、1つの同じゲーム画面を共有している。同じ画面を共有しているということは、同じ状況を共有しているということでもある。プレイ中、プレイヤーは画面内の自分のキャラクターへ「転移」している。同時に、画面内の他のキャラクターは他のプレイヤーによって「転移」と操作を通じて憑依している、という前提でゲームは遂行される。他のキャラクターがCPUによるオートプレイではないことが、一緒にプレイしていることの前提となる。


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 「哲学的ゾンビ」とはつまり、目の前の人間が「意識=プレイヤー」によってではなく「機械=オートプレイ」によって動いているのではないか、という状態である。世界の人間たちがみな「オートプレイ」であり、私はこの世界で一人ぼっちなのではないかという恐怖または孤独の感覚である。

 しかし、『オーバークック』や『ボンバーマン』を4人で一緒に遊べている、という状況に疑いを抱かないでいられるのはどうしてか。

 それには「これ①」でも出た「ゲーム画面の共有」が必要なのではないか、というわけだ。

 目の前の(画面内の)状況と、リアル空間で隣にいる相手の言動に齟齬がないこと。

 たしかに同じ状況を把握しあっている、ある種の現実を一部分でも共有(=シェア)している、という感覚。

 現実世界では認識も解釈もなかなか他人と一致せず、なかなかリアリティも共感できない。そういった現代社会では心的現象すらも確信を持つに至れない。「サイコパス」なる言葉が一般化しつつある今の時代は「哲学的ゾンビの時代」とすらいえる可能性がある。

 ゲームをしなくなってしまったぼくは、なんでこんなに世界中でゲームが楽しまれ、eスポーツなる業界まで生まれているのかよくわからなかったのだけれど、「せめてゲームの中だけでも、疑いのないコミュニケーションを体感しておこう」というのはなかなか穏当な指向だ。


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 ゴチャゴチャした論理展開になってしまい、いまいちこの記事ではこの感覚についてうまく説明できなかったように思う。もっとクリアに言語化できるように努めたい。

 

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