シェアハウス・ロック2404下旬投稿分

世界0421

「世界」は、福澤諭吉が明治2年刊の『西洋事情』において、worldの訳語として用いたのを嚆矢とする。ウソウソ、口から出まかせです。でも、本当にそうだったとしても、それは単なるマグレ当たりだ。
 世界は明治以降の言葉と思われるかもしれないが、実は江戸時代から使われている。私は、渡辺保さんの『東洲斎写楽』でそのことを知った。
 話がちょっと横道にそれるが、あるキーワードが本のタイトルにあると、私は必ず読むようにしている。「写楽」も、そのキーワードのひとつである。
 こういう本の読み方をしていると、いいことがひとつはある。それは、こういう読み方をしないとおそらく一生読まないだろう人の本を読むことになることだ。杉本章子さん、松井今朝子さんという素晴らしい書き手に巡りあったのも、「写楽」の縁である。
 杉本さんは亡くなってしまったが、松井さんはご健在で、いまでも新作を発表されており、可能なら必ず目を通すことにしている。
 杉本章子さんに関しての私の自慢は、『新東京大橋雨中図』を直木賞を取る前から、何人もの人に「これ読め」と勧めていたことである。
 さて、

 江戸の歌舞伎では、(中略)9月に座頭(ざがしら)と座元と狂言作者が集まって「世界定め」を行い、10月に新しい題名が書かれた看板を掲げるのが大きな年中行事だったのです。そのために狂言作者たちが代々秘蔵してきたのが『世界綱目』という覚え書きです。その中には100以上の「世界」とそれぞれの登場人物の役名、義太夫節の作品名、引書が書き込まれていました。(浅原恒男)

「世界」のおおどころは、たとえば、六歌仙、伊勢物語、太平記、将門記、平家物語、太閤記、お染久松といったものである。世界によって基本的な設定と登場人物がほぼ決まり、そこに新たな「趣向」を加えて、客を驚かせることになる。
 たとえば、大南北の『東海道四谷怪談』は、忠臣蔵(実は太平記)の世界、怪談は趣向ということになる。まあ、趣向にもほどがあるけど。世界は、そのストーリーも登場人物もよく知られていることもあり、それがマイナスに働くこともあるかもしれないが、それが逆に働くこともあるはずである。
 ハリウッド映画のアクションものなど、世界は完全に固定されてるもんなあ。それでも、「趣向」によっては面白くないこともないものもある。
 次回は、今回の「積み残し」のようなお話をする。「積み残し」なんで、あまり実のある話にはならないと思うが、もともと当『シェアハウス・ロック』の暇ネタはどうでもいい話ばっかりなんで、まあ、いつも通りである。

写楽0422

 階下にある図書室の本棚に、いま、写楽関係は、『東洲斎写楽』 (渡辺保)、『写楽』(中野三敏)、『写楽仮名の悲劇』(梅原猛)、『東洲斎写楽はもういない』(明石散人・佐々木幹雄)、『新・日本の七不思議』(鯨統一郎)がある。ああ、貧乏でも図書室を持てるってのも、シェアハウスのメリットだね。私なんかには相当に大きなメリットである。
 渡辺保さんの本はすばらしいのでずっと捨てずに持っていたが、その他は、ちょっと写楽のことを考えたくなって、ここ一、二年で買い戻したものだ。
 これらの「写楽探し」の唯一と言っていい資料が、『浮世絵類考』である。
《浮世絵類考》(寛政2年、1790年)はそもそも大田(蜀山人)南畝によるものだが、享和2年(1802年)山東京伝が〈追考〉を加え、文政年間(1818年-1830年)式亭三馬が増補した。斎藤月岑の《増補浮世絵類考》(弘化1年、1844年)「写楽斎」の項に「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」とある。
 なんでこんな変遷をたどったかと言えば、『浮世絵類考』は刊本でなく、写本だったからである。写本だから、本体を写したついでに自分の意見を書き入れたりする。よって、異本が多数発生することになる。
 たとえば、「三馬本」には、「三馬按、写楽号東周斎、江戸八町堀に住す、はつか半年余行はるゝ而巳」と書かれている。ここには紹介しなかったが、太田南畝の10年後の異本には、「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」「これは歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなさせし故、長く世に行はれず一両年に而止ム」とある。
『東洲斎写楽』 (渡辺保)はすばらしい本で、あれだけの短期間であれだけの歌舞伎の絵を描くことは相当に困難であることをまず証明し、可能なのは歌舞伎関係者だけのはずだと論を展開する。見事。
『写楽仮名の悲劇』はだめ。印象批評に過ぎない。梅原さんは、印象批評がハマると相当にすごいのだが、外れると目も当てられない。だいたい、他の浮世絵師を写楽に比定する論は、ほとんど「ここの線が似ている」など、印象批評である。元(モデル)が同じなら、線が似ているのはあたりまえなのにね。
『東洲斎写楽はもういない』は、前述の写本の森に分け入り、迷い、出て来られなくなった。
『新・日本の七不思議』(鯨統一郎)は、どちらかといえばパロディなのだが、抑えるところはきちんと抑えたうえでのパロディなんで、私は好きである。だいたい鯨統一郎さんの本は、みんなそう。『タイムスリップ森鴎外』なんて、森鴎外が現代にタイムスリップし、女子高校生に「モリリン」なんて呼ばれている。
『写楽まぼろし』(杉本章子)、『東州しゃらくさし』(松井今朝子)は、「書名に写楽」のなかでも白眉であったことはもう一回言っておきたい。
 それと、『名主の裔』(杉本章子)も是非とも紹介しておきたい。維新後、江戸に駐留していた旧薩摩藩士が身に着けていた錦の布きれをかっぱらおうとして捕らえられた江戸市民を、名主が助ける話である。この名主のモデルは斎藤月岑だと、私はにらんでいる。斎藤月岑は明治11年まで生きているので、平仄は合う。そして布切れを盗んだ者を斬ろうとした薩摩っぽは桐野利秋であってほしい。だが、桐野利秋はもう偉くなっていたので、市内巡邏なんかやらないかな。
 あと、ネットで探した「世界」ネタで、「もと仏教の術語で,生物が生存し輪廻する空間を意味する」というのがあった。仏教では「仏界(ぶっかい)」に対して「世界」というそう。ただ、出典は『仏教が生んだ日本語』(大谷大学)としてあった。出典をあげるなら、もうちょっとちゃんとした本(経典)にしなさいね。子どもじゃないんだから。

【Live】絹の道行軍とタケノコ掘り0423

 体の具合が悪い。金曜日からだ。
 木曜日、87歳のお爺さんの「宗教的自叙伝」の編集作業を8時間ぶっ続けでやって以来である。その日の夕食は、若干食欲がないものの、一合飲み、パラパラとつまみも食えた。翌日からがいけない。翌金曜日は、朝のコーヒー以外なにも受け付けない。固形物はまったくだめ。食欲がまるでわかない。一日なんにもできなかった。
 ところが翌土曜日は、市民講座で、「絹の道を歩く」というものに参加予定の日だったのである。朝コーヒーしか飲めないのに、予約もしてたので、敢行した。なんだかんだで、山道を一万歩以上歩いた。この荒療治がよかったのか、昼は駅前のラーメン屋でもやしそばを半分くらいは食えた。夜は、日本酒一合のみ。つまみは全然無理。
 日曜日はタケノコ掘りの日である。まいどおなじみケイコさん、初出のコウジロウ(夫妻)、おばさん、私である。前日は山道をあるいたが、山道とはいってもまだ道なんで多少は楽だった。ところが本日は山そのもの。道もない。
 タケノコはよく採れた。いままで4年ほど行っているのだが、過去全部合わせたより採れた。そこは「観光タケノコ掘り農園」で、この日が今シーズンの初日だったこと、もうひとつ、今年はタケノコは「表」だったことによるのだろう。タケノコにも、表、裏があるんだよ。知ってた? ああ、私らが慣れてきたってのも大きいな。
 タケノコは採れたが、昼飯はコーヒーだけ。夕飯は、つまみをほんの少し食った。ふと思いついて、夕食に酒を飲むのをやめてみた。それで、少しは食えたのだろう。
 翌月曜日、すなわち昨日は優秀。朝は、普段の朝食をこなせた。コーヒーを飲み、パンを焼き、食い、ヨーグルトも食べた。そこで、いきなり疲れが出て、昼食まで眠った。いびきをかいて寝ていたという。
 昼は、マエダ(夫)がつくった牛筋カレーを普通量食べた。優秀。
 夜は、マエダ(夫)からいただいた温泉豆腐というもの、タケノコ狩りの帰りに寄った「道の駅」(東京でただひとつという)で買った「のらぼう菜」(八王子特産)と豚バラの炒め物。獲物のタケノコを煮たもの。完食ではないものの、まあまあ優秀。この日も、酒はやめてみた。
 本日、火曜日はレギュラーな朝である。まあまあ回復したという手ごたえがある。朝食も普段通り。
 まあ、年を取ったてえことですな。編集作業8時間ぶっ通しなんて、どちらかと言えば仕事が楽な日の仕事量だったからね。
 それと、若いころ恒常的に奴隷状態で働いていたので、そのあたりで私の体が、疲れを処理する仕方が違ってしまったのかもしれない。通常、乳酸や尿酸が疲れの元なのだろうが、どうも私の場合、「疲労素」とでもいったものにしてまとめ、それに関しては棚上げという処理ができるようになり、その代わり、「疲労素」を一度、乳酸なり、尿酸なりに分解したあとから、疲れが来るということになっているのではないか。月曜日の昼間に眠ってしまったというのは、まさしくそれだと思われる。

 
発明語一覧0424

 今回やるような、網羅的な発明語紹介は、本当はおもしろくない。でも、たまには俯瞰したり、ある程度の速度をもって発明語を扱うのもいいかもしれないと思い、今回はあえてそうする。
 西周は、発明語の世界ではむしろ福沢諭吉をしのぐスーパースターである。哲学関連、心理学関連はほとんどが西の発明になると言って過言ではない。
 まず、哲学そのものが、「philosophy」の西による翻訳語である。それ以前、特に江戸時代に同じ位置にいた儒学と区別するため、西周が造語した。これも、すんなり哲学になったわけではなく、「理学」「窮理学」「希哲学」「希賢学」などと呼ばれたこともあった。後二者の「希」は希臘(ギリシャ)からだろう。
 象徴は、フランス語の「symbole(サンボーレ)」の翻訳語である。『哲学字彙』では「表号」とされている。中江兆民が『維氏美学』で「象徴」と訳して以降、一般化された。おそらく、中江兆民のほうが影響力が強かったのだろう。
 人格は、英語の「personality」の翻訳語。『哲学字彙』では「人品」となっており、これは仏教用語。「人格」は、井上哲次郎の造語とされ、明治後期に定着したようである。
 二度出て来た『哲学字彙』は、近代日本語を勉強するときには重要な書籍である。いずれ、一項を設けるつもりでいる。
 意識は、英語の「consciousness」の翻訳語。これも西周による翻訳。「目覚めているときの心の状態」を指す。アメリカ映画で、誰かが病院に救急搬送されたとき、病院の人間が運んで来た人間に真っ先に聞くのが「consciousness?」である。ちなみに、日本では、それまでは仏教語で、意味は、「心の働き」である。経典によく出てくる。
 哲学、心理学は、特に当時は近接する部分の多い分野で、しかも、儒学と親和性が高かったんだろう、理学、工学などに比べ、翻訳が先行した感がある。そこから、哲学も、心理学も、ともに翻訳語の増加に一役も二役も買った学問であると考えられる。とくに当時のそれは、日常生活に(すくなくとも現在よりは)近いところにあり、日常用語への転用も多かったに違いない。
 客観は、英語の「object」の翻訳語。これも西周。「主観subject」とともに心理学用語として登場している。当時は「かっかん」と読まれていた。
 理想は、英語の「ideal」の翻訳語。西周が、明治時代初期に哲学用語として用い、『哲学字彙』に収録されている。明治10年頃から「現実」の反対語としても使われるようになった。理想をことさら哲学用語と言われると、むしろ驚くようになっている。
 絶対は、英語の「absolute」の翻訳語。明治初期に井上哲次郎が、仏教語「絶待(ぜつだい)=他に並ぶものがないこと」を「絶対」とし、「absolute」の訳語とした。
 恐慌は、英語「panic」の翻訳語であることは考えるまでもないが、『哲学字彙』に載っているというので、ちょっとビックリする。もっとも、『哲学字彙』では「驚慌」とされている。いまの私たちには、日常用語、経済用語であるが、経済的な意味を持つのは、19世紀末。実際に経済恐慌に陥ったときからだという。
 ああ、ついでにbaseballを「野球」としたのは、正岡子規である。

 
にせ発明語0425

 漢語っぽい単語、漢字二文字のものを目にすると、まず、江戸末期、あるいは明治期の発明なのではないかと疑う習慣ができてしまった。まあ、それだけ江戸時代までの日本語は、近代を扱えないものだったのである。近代ったって、文明開化(これはまだいい)とか、富国強兵とかの近代だけどね。
 だから、日本語をやめて、外国語を使うようにすればいいなどと、トンデモを言う人も出て来た。トンデモ中のトンデモは森有礼である。
 この人は初代文部大臣だが、明治3年に英語の国語化を提唱した。あたりまえだが、猛烈な反論が巻き起こった。
 伊藤博文内閣の閣僚・金子賢太郎は、言語どころか、日本人種も欧米人と混血し、改良しろと言った。バカである。まあ、コツコツ言葉をつくってもラチがあかんとか思ったんだろうな。
 こういうバカだけではない。英語国語化は、終戦直後に「憲政の神様」尾崎行雄が主張したことがあるし、「小説の神様」志賀直哉がフランス語に代替せよと主張したこともある。まったく、なにを考えてるのやら。森有礼とか、金子賢太郎なら、「バカ言ってらあ」で済ませるが、尾崎行雄とか、志賀直哉だったら、一応は意見を聴きたくなる。
 さて、「にせ発明語」は、そんなに収穫はなかった。
 まず「教習」。いかにも発明語のような響きをもっているが、これは筋金入りの伝統語である。

隼人司、正一人。掌(つかさど)らむこと、隼人を検校せむこと、及名帳のこと、歌舞教習せむこと、竹笠造り作らむこと。佑(すけ)一人。令史一人。使部十人。直丁一人。隼人。(『養老律令』)
(『竹の民俗誌』(沖浦和光)より孫引き)

 畿内隼人は隼人司の支配下に置かれていたが、『養老律令』の職員令第二十八の「隼人令」の規定での役務を述べたもの。なんだか、ヘンなことまでやらされているね。歌舞てえのは、隼人舞てえやつかね。それならわかる。
 機械も発明語っぽいが、この語を漢字文化圏で初めて使ったのは荘子であるという。荘子は機械が嫌いだったらしく、粉挽機などを「人間を怠け者にする」などと攻撃したそうだ。これは、『おもろい人やなあ』中の草柳大蔵の発言で、同書は扇谷正造・小谷正一との鼎談集。私は、小谷正一に興味があって、この本を読んだ。全体は、あまり「おもろく」なかった。
 小谷さんは、井上靖の『闘牛』のモデル。『闘牛』は読売新聞の記者をやっていた当時の話で、その後電通に入り、中興の祖のような存在になった。
 世紀は、『尚書世紀』『帝王世紀』などに見られ、19世紀の英華辞典には百年という記述が既にある。だから、伝統語。日本では明治15年『附音挿図 英和字彙』が初出という。これは、centuryに中国で世紀をあて、それが日本に来た例である。
 英華辞典も重要項目なので、いずれ項を改めて。
『本草綱目啓蒙』は、「伝統語」のオンパレードである。本草が伝統語なのは明らかであるが、「綱目」「啓蒙」が伝統語というのは、ちょっと虚を突かれる気がする。

福澤諭吉0426

 福澤諭吉は兄の勧めで長崎へ遊学して蘭学を学ぶ。安政元年(1854年)、19歳であった。後、緒方洪庵の「適塾」で学ぶことになり、安政4年(1857年)22歳で適塾の塾頭となる。これは最年少記録である。
 それまでは、この時代の人の例にもれず、漢学である。
 安政6年(1859年)、英語を修める必要を感じ、開港した横浜に行ってみたが、看板の字すら読めず、衝撃を受ける。同年冬、日米修好通商条約の批准交換のため、幕府は使節団(万延元年遣米使節)をアメリカに派遣することにしたが、諭吉は知人の桂川甫周を介して軍艦奉行・木村摂津守の従者としてこの使節団に加わる機会を得た。諭吉は、木村摂津守(咸臨丸の艦長)、勝海舟、中浜万次郎(ジョン万次郎)らと「咸臨丸」に乗船したが、この航海は出港直後からひどい嵐に遭遇し、さんざんなものだったらしい。勝海舟などは、船酔いと称して船室にこもりっきりだったという。
 余談だが、咸臨丸での勝海舟は相当に態度が悪かったようで、福沢諭吉との不仲はこの航海から始まったという説がある。最終的に、『痩我慢の記』などというほぼ人格攻撃のような本に結実した。
 寄港地サンフランシスコで、諭吉は、中浜万次郎とともに『ウェブスター大辞書』の省略版を購入し、日本へ持ち帰った。
 同時に購入した『華英通語』は、広東語・英語対訳の単語集である。こっちのほうが役に立ったようだ。
 同書の英語に、諭吉はカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記し、『増訂華英通語』として出版した。万延元年のことで、これは諭吉が初めて出版した書物ということになる。デジタルアーカイブで見ることができる。
 この書物の中で諭吉は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字「ヷ」を考案し、用いている。
 帰国後、諭吉は再び鉄砲洲で新たな講義を行うが、このあたりから従来のオランダ語ではなくもっぱら英語になり、蘭学塾から英学塾へと教育方針を転換したようだ。
 その後、福澤諭吉は、「幕府外国方、御書翰掛、翻訳方」に採用され、公文書の翻訳を行うようになった。外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたためである。諭吉はこの仕事をすることにより、英語とオランダ語を対照することができ、これで自身の英語力を磨いたことになる。このころの諭吉は、かなり英語も読めるようになっていたが、それでもオランダ語訳を参照できたことで、英語学習には相当有利に働いたようである。

西周(にし あまね)0427

 西周は文政12年生まれなので、福澤諭吉よりもだいぶ年長である。
 家柄も、福澤と比べてだいぶいい。西周の祖父の曾孫には森鷗外がいる。津和野藩の御典医の家系である。
 西周は幼少期に漢学の素養を身につけるものの、天保12年(1841年)から藩校・養老館で蘭学を学ぶ。安政4年(1857年)には蕃書調所の教授並手伝となり、このころ津田真道と知り合う。
 文久2年(1862年)には幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学し、ライデン大学でシモン・フィッセリングに法学を、またカント哲学、経済学、国際法などを学ぶ。
 慶応元年に帰国。目付に就任。徳川慶喜の側近として活動する。王政復古を経た慶応4年(1868年)、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。同年、『万国公法』を訳刊。
 坂本龍馬は、最晩年、高杉晋作から贈られた拳銃の代わりに『万国公法』を懐に忍ばせていたというが、龍馬が亡くなったのは慶応3年11月15日だから、この『万国公法』は間に合わなかったことになる。ただ、この説は、どこで読んだかも私はおぼえておらず、誰かが盛ったか、ヨタだったかもわからない。
 明治3年(1870年)、明治新政府に乞われ兵部省(のち陸軍省)に出仕、軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係するなど、軍政の整備とその精神の確立に努め、文部省・宮内省・元老院などの公務も兼任した。
 明治6年(1873年)には森有礼、福澤諭吉、加藤弘之、中村正直、西村茂樹、津田真道らとともに明六社を結成する。この明六社については、いずれ一項を設ける。
 西周は、「philosophy」に対し「哲学」という言葉をつくったほか、「芸術」「理性」「科学」「技術」「心理学」「意識」「知識」「概念」「帰納」「演繹」「定義」「命題」「分解」など多くの哲学、心理学、科学関係の言葉をつくったが、その一方で、「かな漢字廃止論」を唱え、明治7年(1874年)、『明六雑誌』創刊号に『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』を掲載した。なまじたくさんの近代語をつくったので、「こんなことやっててもラチがあかない」と思ったものか。ただ、アルファベットを使っても事態は悪くなりこそすれ、よくなることもないとは思うが、こういう偉人の考えることはわからない。
 また、上記で「兵部省に出仕、軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係するなど」と書いたが、「関係する」どころではなく、『軍人勅諭』は山縣有朋の指示で西周が起草し、その後、福地源一郎、井上毅、山縣有朋によって加筆修正されたとされている。

森有礼0428

 森有礼は弘化4年(1847年)生まれだから、福澤諭吉とは一回り違う。西周とは二回り近く違う。
 私は世代論というものをほとんど信じないが、長幼の序は多少は信じている。そこから考えると、森という人は、傲慢だったんじゃないか。暗殺されたのも、この傲慢がどっかで影響した結果なんじゃないかという気がする。このへんは、触れざるを得ないのでのちほど。
「近代日本語をつくった人たち」という映画をつくるとしたら、まず主演は福澤諭吉だろう。西周は助演で、森有礼はどちらかと言えば敵役に近い。つまり、あんまり直接は寄与していないし、つまらんこともけっこうする。「そんなもん、映画にしておもしろいのか?」という疑問をお持ちの方もいるはずだ。だが、脇役で、中江兆民、井上哲次郎、正岡子規など渋いところが揃っているし、夏目漱石、二葉亭四迷など、癖の強い役者も出てくる。そこそこはいけるんじゃないか。
 森有礼は、薩摩藩士・森喜右衛門有恕の五男として生まれた。明治の元勲の薩摩人はほぼ郷士出身だから、ここで既にもう差がついている。安政7年(1860年)ごろから造士館で漢学を学び、元治元年(1864年)ごろより藩の洋学校である開成所に入学し、英学講義を受講する。ここでも差がついている。 
 慶応元年(1865年)、五代友厚らとともに薩摩藩第一次英国留学生として、イギリスに赴くが、薩摩藩留学生などといいながら、これは実質密航である。
 4年程度の留学生活で、ロシアにも旅行し、アメリカにもローレンス・オリファントの誘いで渡り、オリファントの信奉する教団「Brotherhood of the New Life」でそれなりの期間キャンプ生活をしている。あんまり勉強している暇がなかったように見える。
 明治元年(1868年)6月帰国。7月25日外国官権判事に任じられた。22歳で高官になり月俸200円を給されたが、30円で十分だと9月10日、鮫島尚信とともに自分たちの「減俸嘆願書」を上申した。これは偉い。
 前に触れたが、英語の国語化を提唱。これはダメ。
 明治3年(1870年)秋、 少弁務使としてアメリカに赴任、明治6年(1873年)夏、帰国すると、福澤諭吉、西周、西村茂樹、中村正直、加藤弘之、津田真道、箕作麟祥らとともに明六社を結成、『明六雑誌』を発行。明六社、『明六雑誌』は、近代日本語の成立に相当大きな役割を果たす。
 明治8年(1875年)、東京銀座尾張町に商法講習所(私塾。一橋大学の前身)を開設。
 さて、伊勢神宮不敬事件である。明治20年(1887年)、森有礼が伊勢神宮において拝殿にかかる布の簾をステッキで払い除けてなかを覗き、土足で拝殿に入ったという報道がなされる。この事件自体、事実ではないという説も強く、真偽は不明。
 暗殺犯の西野文太郎は、不平士族であり、国粋主義者である。伊勢神宮造営掛であったという説と、内務省土木局職員であったという説がある。後者のほうが信憑性は高い。森を訪ね、出刃包丁でその腹部を刺すというかなり杜撰な犯行だったが、成功。西野は森の護衛に台所まで追い詰められ、仕込み杖により斬られて死亡。23歳であった。森は出血多量で翌日死亡した。
 所持していた斬奸状には、「天皇を頂く我が国の基礎を破壊し、我が国を亡滅に陥れようとした」などと記載されていたという。

【Live】ツツジも「表」0429

 14日のタケノコ掘りのネタで、今年はタケノコが「表」で、大収穫だったと申しあげた。ところがどうも「表」はタケノコだけではないようで、いままでの時点で、少なくともツツジは今年「表」である。
 私らのシェアハウス近くに、バス通りが走っている。このバス通りの生垣の多くがツツジである。だから毎年見ているものの、今年のように派手に咲いているのは初めて見た。どういうわけだか、私らの使うバス停周辺がすごい。生垣全体がツツジの花という状態になっている。これは、誇張ではない。ツツジって、10年に一度大開花みたいなことがあるのだろうか。もっとも、よその生垣では、せいぜい私らのところの例年並みというところも多い。
 よって、例年と同じような咲き方をしているところを見ても、「なんだい、貧相な」という感じになってしまう。
 それともうひとつ気がついたことがある。ツツジって、開花のスイッチは、ソメイヨシノ同様、温度なんだね、日照量でなく。さっき、生垣全体がツツジの花と言ったが、その場合、てっぺんのほうからでなく、地面に近いほうから咲いていく。これも、今年の大開花で初めて気がついたことだ。つまり、日当たりがよいと地面のアスファルトが熱せられて、日が落ちても8時か9時くらいまでは地面に近いほうが温かい。それで、地面に近いほうから咲いていくのだろう。
 生垣のうえのほうではなく、地面に近いほうで、列をつくってツツジが咲いているというのも、ヘンな光景だよ。だから、今年は、これも含めてだいぶツツジに楽しませてもらった。
 去年のいまごろは、館林(群馬県)の「つつじが岡公園」(その他)にバス旅行に行ってたんだな。今年は、我がシェアハウスそばの、バス通りでツツジを楽しんでいる。なんだか、「そば」のほうが実り多い気がする。バックグラウンドがわかっているからかね。逆に、「そば」のほうがおもしろいというのは、「観光」の限界だな。
 今週中に、「バー461」(夫妻)が我がシェアハウスに飲みに来るのだが、それまでツツジがもてばいいが。
 私の居室から道路をはさんだ向こう側には、例年、いまごろになるとハナミズキが咲く。これにも表と裏があるようで、どうも今年は裏のようだ。去年はそこそこ咲いていたので、去年が表だったのかな。
 おばさんのところから持ってきた30年選手のポトスがほとんど枯れたため、土曜日は隣駅のショッピングセンターに行ってきた。もちろんポトスも買ったが、ホテイアオイが安いので、3株買ってきた。これからメダカの諸君の産卵期なので、ホテイアオイはいくらあってもいい。
 明日の【Live】に続く。

【Live】メダカの孵化0430

 先週の火曜日にメダカの諸君のいる睡蓮鉢の水を替え、水草も替えた。その時点では、アナカリスもホテイアオイも3月頭に買ってきたものに替えてあった。アナカリスも、今年は冬を越えられなかったのである。
 水を替える際、メダカの何匹かが卵を抱えていたのを見たので、ホテイアオイは念のためスーパーでもらってきた発泡スチロールに移しておき、ベランダの隅にあるストッカーのうえに置いた。これだとちょうど胸の高さになるので、観察が楽なのである。発泡スチロールに移して3日目には孵化していた。
 孵化したてのメダカは、本当に小さい。「おまえ、そんなんでよく生きてるな」と思うくらいに小さい。泳ぐゴミといった感じである。探すのが大変だが、ゴミと違い、動きがランダムなので、それでわかる。ゴミだと、動き方に規則性がある。発泡スチロールのプールでも、それなりに対流が発生したりしているのである。
 さっき、「泳ぐゴミ」と言ったが、どちらかと言えば「動かないゴミ」のほうが正しい。他のゴミは対流とともに動くが、彼らは、その段階でも自律運動をしているので、ゴミみたいに水の流れでは移動しない。
 もうひとつ、なんだか彼らはボンヤリしている感じがする。動かないので、そう感じるのかもしれない。
 これは、よっぽど観察しないとわからない。あるいは勝手に私が推測しているのかもしれないが、これじゃますますわからないだろうけど、意識が発生してしまい、それにとまどって、「えっ、これ、なに?」みたいにボンヤリしているのではないかと、私は考えているのである。
 意識がないところで、いきなり意識が発生してしまったら、まず、真っ先に来るのは「とまどい」だろうと思う。
 胎生だと、人間では胎児の段階から意識があることが知られている。外界の音も聞こえているらしい。しかも、母親が怒ったりすると、その「怒った血液」が胎児に流れ込むんで、「怒った気分」になるらしい。彼らとしてはいい迷惑である。「愉快な感じ」ならまだいいが、「困った感じ」「ストレスに襲われた感じ」なんかも困るんだろうな。同情する。
 そこいくと卵生なら、おそらくあまり意識がない状態で、ポッと意識が生まれてしまうのではないだろうか。だから、「えっ、これ、なに?」状態になるのではないか。それとも、卵生でも孵化前から意識があるのだろうか。
 こんなことを、考えるだけの知識もネタもなしに考えていても非生産的だから、このへんでやめる。
 発泡スチロールのプールを設置すると、毎朝の日課が増える。朝食後、今日は何匹数えられるかなと、見に行くのである。水面から水底までせいぜい10センチなのだが、水面で見つけられても、そのすぐ隣にいる水底のメダカがなかなか見つからないのである。老眼のせいだな。ピントが素早く合わない。やだやだ。
 ピントが素早く合わないものの、昨日は14匹まで数えられた。

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